ヒンディー語の長先生

昨晩、トン先生の送別会を終えて零時近くに帰宅すると、メールボックスの中に一枚の葉書が入っていた。アジア・アフリカ語学院でお世話になったヒンディー語の長弘毅先生を偲ぶ会の開催を知らせるものであった。とても優しい表情をお持ちの先生であられたことが印象に残っている。私は書棚から『語りつぐ人びとⅡ インドの民話』(長弘毅 福音館書店 1981年)を取り出した。表紙の裏に、「恵存 吉川敬子様 1981年7月9日)と書かれてあった。
 長先生は1958年にインド政府奨学生としてインドに渡られたそうだが、出発当時の模様を「はじめに」のところに次のように書いておられる。
 「神戸の港を発つときは、それこそ二度とこの日本の地をふめないかもしれないといった悲愴な思いで緊張していたことを、今もはっきりおぼえている。東南アジアの各港に寄りながら船がベンガル湾に入ったのは、日本を発って二週間後。ようやく波がしずかになり船酔いでつかれた体も元気をとりもどしはじめた」
 1950年代にアジアへ行くには船で行くしかなかったのである。

薔薇園学園(โรงเรียนสวนกุหลาบ)

昨晩、トン先生が風邪気味だったので、「タイ語中級 火曜日19:00」の授業が終わるまで教室でいて、私は補助役を務めた。
 テキストの中で、中学校、高校という単語が出てきたので、私はトン先生に尋ねてみた。「先生の出身校は?」
 すると、「โรงเรียนกุหลาบ です」と、彼は言った。「あら、薔薇園学園ですか?」と、私はわざと翻訳して繰り返した。
 トン先生は出身校の来歴を説明してくださり、昔、薔薇園という名前の王宮の中にあったこと、タイで一番古い公立の男子校であること、ラーマ5世が1882年に建学され、今年で133年になることを教えてくださった。彼はその学校の卒業生であることの証として、「SKマーク」のついた指輪を手からはずしてみせてくださった。
私はその薔薇園学園の中を見物したことがある。もしかすれば、高校生のトン先生とすれちがったかもしれない。
 トン先生の授業は残すところ、あと1週間となった。約1年余、まじめに教えに来てくださったことに感謝の気持ちを表明したい。

書道・水墨画の先生

一昨日、テレビでとても素敵な書道講師の存在を知った。52年の長きに亘り住んだ棟割り長屋を改築する「ビフォア・アフター」という番組であった。広さはわずかに8.8坪。両壁は両隣りと共有。話はすべて筒抜け。79歳になる母親と52歳になる娘さんは荷物の中に埋もれて生活していた。しかも娘さんはそこで書道教室をやっておられる。
 はてさて、リフォームはどうなることやら。目を食い入るようにして流れ全般を見た。出来上がりは5百点を上げたいくらいのすばらしさ! さすが一級建築士の手になるものだ。
 生まれ変わった長屋の中は、書道を習いに来られる生徒達の教室もちゃんと確保されていた。先生が水墨画に専念できる机も工夫がこらされていた。さらには、水墨画を飾る床の間や作品を収納できる納戸も作られ、彼女の喜びたるやいかばかりか!
 私が感心したのは、荷物の中に埋もれてこれまでに描きためた水墨画のすばらしさであった。実に深淵である。中国にも留学して学んだ彼女。真の作品を作るということは、広さは全く関係なし。いかに一極集中するかが肝心なり。

キナバル山

6月5日、ボルネオ島のキナバル山で発生した地震により、日本人の犠牲者が出たというニュースが今朝、報じられた。日本人が見つかったという時には生きて下山しているものと大いに期待したのだが、残念である。
 今から8年位前、クアラルンプールからボルネオ島に飛び、コタキナバルで2泊した。キナバル山にはタクシーをチャーターして中腹まですいすいと行った。そして、森林浴をした。世界で一番大きな花であるラフレシアを見たかったが、もちろん咲いてはいなかった。何故ならば、この花は、9ヶ月間がつぼみ、そして咲くのは一週間だけだからだ。代わりに、模型の花を見た。登山家はそこから上を目指して行くのであろうが、岩盤のような地肌を写真で見て、恐くなった。
 私がコタキナバルへ行った理由は、日本の若い娘達が女衒(ぜげん)の口車に乗って、あるいは、家族のためを思って、<からゆきさん=唐ゆきさん>となって、東南アジアへ行った足跡を見るためであった。コタキナバルの町には彼女達のお墓が有った。望郷の念を込めて、お墓は日本の方に向けられているそうだが、70年以上昔の話だから、墓は朽ち果てるのみ。今やそのような話も風化してしまった。

生花 vs 布花

昨日、横須賀のホテルで行われている「横須賀支部花展 碧水薫風」へ行った。横須賀は軍港の街。週末の街を歩いている人々を見ると、異国情緒たっぷり。
 今どきの花はやはり紫陽花。私も紫陽花色の青い服を着て出かけた。もちろん意識して。
 65名の方々が活け込んだ作品をひとつひとつ丁寧に見ていると、宴会が終わったばかりの男性が私に近づいて来てこう言った。
 「私の知り合いは布で花を作っています。長く持っていいですよ」
 「あら、それは素敵ですこと。いいアイディアですね」と、私。
 だが、私は心の中で反論した。たしかに生の花はすぐ枯れる。美しさは一瞬のもの。だからこそ折々の季節の花の美が目に焼き付くのだ。埃をかぶってずっと飾られている布花よりも、私は生花に軍配を上げたい。

活字の大きな文庫本

一昨晩、日暮里駅を降りて、根岸にある精進カレー料理店「オンケル」に行く途中、古本屋が有ったので入ってみた。そして、『二つの祖国』(山崎豊子 新潮文庫 平成21年)を買った。新品で4巻本が何とたったの400円也。本屋でまともに買うと、消費税込みで3千円はしそうだ。
 この一週間で喜びと悲しみが一斉におとずれたので、昨日は終日、家にこもって気持ちを静めようとした。だが、寮友の死は重かった。生き方について教えられることがあまりにも深くて大きいからである。
 気分を変えようとして、『二つの祖国』を読み始めた。山崎豊子の取材力と構成力にぐんぐん惹きつけられる。
 何よりも良い点は、活字が大きい文庫本であったこと。実に読みやすい。昔の本の活字はほんとうに小さかった。文字が詰まっていた。今思えば、よくぞそのような本を読んでいたものだなあ…..。
 文字が大きいと漢字もよくわかる。有難い。

3歳の坊や、アメリカへ

国際弁護士であるアメリカ人T氏の坊やと先週、結婚披露宴で会ったが、それはそれは可愛い坊やであった。ネクタイをしたのは初めてらしいが、小さな紳士という感じであった。
 昨夜、聞いたところによると、その坊やが日本人である母親と一緒に、T氏の実家があるアメリカへ1ヶ月の予定で出かけて行ったそうだ。
 理由は、英語の音感をつけさせるため。想像するに、坊やはその1ヶ月で英語の感覚をたくさん吸収してくるにちがいない。
 大人になると、外国語の発音はなかなか上達しない。外国語を始めるなら、早ければ早いほどよい。そう思う。

中学生と栓抜き

 亡き寮友の葬儀はカトリック上野毛教会に於いて美しい聖歌隊の声につつまれて荘厳なうちに進行した。そして、棺は大森海岸近くの臨海斎場というところに運ばれた。行ってみると、閑散としていた。昨日は友引であったため、仏教徒の方達の葬儀が全く無かったせいである。
 御親族達と一緒に軽食をとっている時、中学一年生のお孫さんが、瓶に入ったジュースやウーロン茶の栓を栓抜きで開けるのに格闘していた。非常に不思議に思った。しかし、やがてその理由がわかった。最近のお子さん達はペットボトルの栓を回すとか、缶のプルトップを引き上げるとか、紙パックに入った牛乳を飲んでいるから、昔ながらの栓抜きは使わない。この調子だと、缶切りで缶のふたをあけるのも無理だろう。
 しかしながら、年をとってくると、そのペットボトルの栓を回すのに四苦八苦。指先に力が入らないから開かない。ペットボトルの飲料を飲む時は、だれか若い人を必要とする。だが、「栓を開けてくださいな」と頼むのが恥ずかしい。指先体操をして、握力をキープしておかなければいけないなあ。

2つのS と 2つのI

昨晩、寮友Sさんのお通夜に参列した。御主人のご挨拶がとても叡智に満ちていた。奥様の一生、そして、お二人のご家庭のことが理知的に語られた。中でも次なるお話に心うたれた。
 「彼女は、新渡戸稲造博士が建学した東京女子大学で学びました。東女のマークは二つのS,サービス & サクリファイス、これが大学建学の基本精神であると伺っております。奉仕と献身、この二つは彼女の人格形成の基本であったと思います。 しかし、私は彼女にさらにもう二つのIを贈りたいと思います。それはインテリジェンス & インディペンダンスです。知性と独立不偏、二つのSに二つのI,これこそ彼女の性格と人生を象徴する言葉であったと思います」
 Sさんとは大学卒業以来、ずっと年賀状を交わしてきた。10年位前は韓国語を習っていると書いてあった。御主人がソウル駐在であられたことを昨夜初めて知って納得。ところが今年の年賀状には中国語を習っていると書いてあった。やはり昨夜、その理由がわかった。御子息が中国人と結婚されたので3歳の孫息子と中国語で話したかったそうである。
 Sさんは10年余にわたって体調をこわされていた。「タイのプーケットへ旅行する直前に発病しました」という御主人の説明を聞いて私は驚いた。彼女にタイを楽しんでもらいたかった。

新しい講師のピカピカ先生

そろそろタイにお帰りになる予定のトン先生が、昨晩、後任の先生を教室に連れて来られた。愛称は、「プレーオ(แพรว)」。
 生徒達は「どういう意味ですか?」と一斉に興味を示した。
 「プレーオ・プラーオ แพรวพราว という言葉からきていますが、ピカピカ光り輝くという意味です」と彼女は答えた。
 私は彼女を見た瞬間、はっとするものがあった。それは、今晩、お通夜、そして、明日、告別式に参列する予定の亡き寮友S子さんのおもかげを、このピカピカ先生が写し持っていたからである。
 50年前に東京女子大学に入学し寮生活を始めた時、私はS子さんと同じグループであった。今月の中旬、同窓会を予定していたにもかかわらず、S子さんは早々に逝ってしまわれた。
 先週の土曜日、訃報が入ってきてからというもの、私はS子さんをずっと偲んできた。しかし、彼女の雰囲気をそっくり持ったタイ女性が泰日文化倶楽部に現れた。私は輪廻転生を信じる。