雹(ลูกเห็บ)

 7月18日の午後3時過ぎ、豊島区、北区に雹(ลูกเห็บ)が降った。その時、私はバスに乗っていたが、バスの屋根に砕石が投げつけられているような音がした。こんな経験は初めてだ。
 来週、私のところにタイ人女性達がバンコクから泊まりに来ることになっている。墨田川の花火大会を見に来るらしい。リーダー格のメイさんが池袋周辺に降った雹のニュース映像を私のところにラインで転送して来て、「ข่าวนี้จริงไหมคะ กลัวไปแล้วเจอลูกเห็บ このニュース、本当ですか? 行った時に雹に遭ったら怖いわ」という気持ちを添えている。
 もうすぐ東京にやって来るということで、東京の天気をチェックしているのはいいが、滅多にない雹のことでものすごく怖がっているのはどうかと思う。ニュースはあくまでも参考にするだけにとどめないと。さもなければ、東京はいつも雹が降っているように誤解をしてしまう。情報過多の時代だから心配も過多になって来ている傾向は否めない。
 
 

青森旅情(終)

 青森旅情は20回目を迎えたので、今日でひとまず終わりとする。しかし、書きたいことは山ほど有る。東京を離れてどこかへ行くことは感性を豊かにしてくれて良い。
 青森はのんびりしている。タイでいるかのような時間の流れを感じた。ニンニク畑を車で通った時、車の窓を開けるとニンニクの匂いがした。自然に触れて、単純に感激!
 滞在中、「大名の宝物 少女が発見」というニュースでもちきりであった。戦国時代の城館跡で、小学6年生の女子が巨大ザメ(カルカロドン・メガドロン)の歯の化石を発見したとのこと。それは三戸南部家の当主が「天狗の爪石」として宝物としていたものだが、ロマンあふれる話だ。
 最後に、タイの地図をひっくり返して見ると、青森県の形状そっくりに見える。これまたなんとも不思議…..。

青森旅情(19)

 私が八戸に滞在中、本八戸駅の駅舎内に東京にある諸大学のパンフレットを置き、のぼりを立てて業者が東京の大学を宣伝していた。それらを目にした高校生達は東京へ行こうという気持ちをよりいっそう掻き立てられるにちがいない。
 老舗のフルーツパーラーに入ると、親御さん達が子供の進学のことで深刻そうに話している。「早稲田? 慶応?」、と。
 東京にあこがれる気持ちはわかる。私もそうであったから。中心街にあるみろく横丁で知り合った屋台の店主(56歳)はこう言った。「一度は行ってみることですね。そういう私もそうでしたから」
 地方の街に活気が無いのは全国いずこも同じ。若い人が少なすぎる。井上やすし氏は「昌益国際フェスティバル・八戸」(1992年)で、「高いお金を使ってこのような会を開くよりも、そのお金で学校をつくったほうがいい」と述べたそうだ。地元に残ることを選択した若者に対して、創造的でためになる<学びの場>を提供するのは良い発想である。

青森旅情(18)

 「八戸へ行くなら番屋という店がお勧めです。私は3年連続で行ってます」というメールを元生徒から受け取ったので、早速、行ってみた。ただし、日本の居酒屋ファンには有名すぎるくらい有名な店らしく、果たして一見の者が入れるか否か心配であった。開店30分前から店の周辺をうろうろし、6時開店とともに入店。私は2番目。
 1番目の男性客と私の間に女性がするりと座ったので、カウンター席は次第に埋まっていった。私が牡丹海老を食べ終わると、女将が「頭はどうしますか? 焼きますか?」と聞いてきたので、「かたいですか? かたいのであれば要りません」と私。すると、1番目の男性と隣りの女性が口をそろえて「もったいない」と言った。そこで焼いてもらうことにして、3つの海老の頭を二人におすそわけした。二人とも東京から番屋をめがけてやって来ている居酒屋通であった。
 女将はとても気品のある方とお見受けした。あとで知ったのだが、ここのオーナーは詩人だそうだ。
 

青森旅情(17)

 「八戸は魚が旨いよ」と言われていたので、お土産は魚にしようと思い、陸奥湊駅前に在る朝市へ行って、魚を冷凍で友人に発送した。そして、生徒の皆さんには乾燥した魚のおつまみを買った。生干はぎ、焼あじ、焼いわし、あぶり焼小いわし、そして、開ぴんすけ、等々。「高級珍味 八戸産」の袋に惹きつけられたからである。
 ところが、ホテルに帰って来てそれらをもう一度見ると、生干はぎの原産国名はベトナム、そして、焼あじはなんとタイであった。八戸に来てタイの魚? 加工だけが八戸?
 八戸に来て、最近、漁獲量がかなり減ってしまったという嘆きをあちこちで聞いた。そして、デーリー東北新聞を読んでいると、三陸沖に中国の漁船が来ており魚を獲りまくっていると書かれてあった。海上保安庁の監視船もお手上げだそうだ。何故ならば、尖閣諸島で起きたような体当たり事件が小規模とはいえ、実際に発生しているから。

青森旅情(16)

 昨日、東武伊勢崎線の西新井へ行った。仕事はすぐに終わったので、午前11時半過ぎ、春日部方面から来た急行電車に乗って北千住まで行き、日比谷線に乗り換えた。土曜日なのに、西新井から北千住までは超満員。普段の山手線の通勤時間帯以上の混み具合にびっくり。中年男性の背中と私の背中がピッタリとくっつき、彼の汗と体温が伝わって来て気持ちが悪かった。
 ひるがえって、八戸市内を走るバスの話をしよう。中心街から本八戸までバスに乗った時のことだ。私の乗ったバスが本八戸駅で停車しなかった。JRの駅を素通りするバスに驚いた私は運転手に向って言った。「あのー、駅で降りたかったのですが」 すると、運転手は「お客さん、ボタンで知らせないからですよ」と怒った。
 よくよくバスの中を見渡すと、乗客は私一人であった。東京だと、誰かが先にボタンを押すから、いつもそれに甘えていた。 それにしても、乗っている客もいなければ、バスに乗り込んで来る客もいない。道理で時代遅れの型をしたバスが走っているわけだ。

青森旅情(15)

 昨日の午後3時過ぎ、あまりにも暑いので、目白駅近くに在る地下の喫茶店に潜り、新聞を読んだ。すると、父親と小学校6年生の女の子がやって来て、私の背後の席で話し始めた。
 「修学旅行で青森へ行くことになったの。これまでは京都だったのに….。青森、行きたくない。見るところ無いもん。ああ、京都へ行きたい」と女の子が言った。それを聞きながら、残念だなあと思った。青森のイメージが悪すぎる。
 「青森は青い森がいっぱいで空気が美味しいのよ。京都へはご両親とゆっくり行くといいでしょう。思い出の修学旅行は友達と青森の自然に触れてらっしゃい」と、私は心の中で彼女に言った。
 そういう私も青森のことをほとんど知らなかった。しかし、今回の旅行で一生分のさくらんぼを毎日食べながら、そして、新鮮な魚を直接、市場で買いながら、青森の地元の魅力に惹かれて行った。

青森旅情(14)

 昨晩遅く帰京した。だが、貴重な見聞をしたので、この青森旅情はもう少し続けたい。
 昨日の午前中、三戸に在る櫛引八幡宮へ行き、国宝の「赤糸威鎧兜大袖付」と「白糸威褄取鎧兜大袖付」を鑑賞。青森県には国宝が3つ有るが、そのいずれもが八戸に有るというのが、八戸市の自慢でもある。たしかに、実に見事なお宝であった。
 そのあと、中心街の八日町というところにある「安藤昌益資料館」へ行った。ちらしには、こう書いてあった。
 「世界最初のエコロジスト。今から250年以上昔、自然の中での人の在り方を説き、平等を唱えた安藤昌益。その思想は、現代も多くの人々に受け入れられています」
 彼は独創的な発想で「字解」を試みたそうだ。館内のガイドが私に「男女という漢字2文字をどう読みますか?」と質問した。答えに窮する私。「ひと」と読むとのこと。医学を修めた安藤昌益は男女は平等という思想を実践していた。

青森旅情(13)

 昨日で仕事が終了したので、夕方、八戸市を紹介する場所であるポータルミュージアムへ行った。通称「はっち」と呼ぶそうだ。1階は東北地方の物産が販売されていた。そして、海猫で有名な蕪島の写真コーナーが有った。その裏手に回ってみると、南部菱刺しと、南部裂織の展示が有り、東北の女性のリサイクル精神がよくわかった。菱刺しの模様はタイの刺繍の模様と全く同じに見えた。不思議、不思議。
 2階には漁業関係の展示が有り、美しい海岸線の紹介もたっぷり。3階には八戸ゆかりの方達のコーナーが有り、立派な精神の持ち主が数多く八戸のために尽くしたことを学んだ。最近では、何と言ってもオリンピック金メダル4連覇の伊調馨さんが市民の誉れになっている。
 八戸市は今年、市制施行88周年を迎えて盛り上がっている。私は、八鶴と八仙という酒を呑んだ。よく行った猫カフェの名前は「猫八」。「八」づくしの八戸。またいつか訪れたい。

青森旅情(12)

 恐山へ行く時、八戸から野辺地まで行くというご夫婦が私の前に座っていたので、45分間、大いに喋った。昭和20年生まれのお二人は幼馴染。40代半ばの息子さん二人が六ヶ所村で働いているが、二人とも独身。近所迷惑になってはいけないので、借りているアパートの庭の草刈りに、息子達には事前に知らせずに行くのだという。息子達との間には全く会話が無いとご夫婦は嘆く。
 恐山からの帰り、野辺地から偶然にもまたお二人と一緒になった。ご主人はビール缶を片手に喉を潤している。顔に赤みがさしてきて饒舌になった。若い時は七つの海をまたにかけた船乗り。パナマ運河だけ通過していない。美味しいワインもいっぱい飲んだ。航海士をやめた後、神奈川県の工場に勤務したこともあったが、72歳の今は小学校のプールの管理員。朝3時から起きて、5時にはプールに行くと語った。
 航海士時代の話をする時の彼の顔は輝いていた。目が純粋であった。テレビの国会中継で見る政治家先生達や官僚達の顔つきがますます胡散臭く思われてきた。