二人の先輩

 大学時代に住んでいた学寮で、1年上にユニークな先輩がいた。誰しもが思っていた。彼女は作家になるなあと。ところが学生時代に結婚して、何かと忙しかったようで、作品らしきものを書かなかった。やがて小学校の先生になったので、ますます作品からは遠ざかっていった。
 だが、最近、聞くところによると、彼女の作家魂は消えていなかった。同じ寮の大先輩である瀬戸内寂聴の講演会を聞きに行き、「作家になる秘訣は?」と尋ねたそうだ。すると、寂聴さんは、「天分が必要」と、ずばりと言い放った。そこで我が1年上の先輩は自分には天分が無いと悟り、筆を折ったとか。
 6月18日のニュースで、瀬戸内寂聴が「安全保障関連法案に抗議するデモ」に参加し、国会前で必死の反対意見を述べているのを見た。戦争体験者の声は心によく響く。93歳で行動に出る寂聴さん。我らが先輩なり。

文化人類学者・言語学者の西江雅之先生

 昨日の夕刊で西江雅之先生の訃報を知った。「ああ、先生….」
 1976年、アジア・アフリカ語学院でタイ語を教え始めた時、事務室で西江先生とよくお会いした。当時から、先生を慕うスワヒリ語の生徒が多かったので、先生の存在感はお会いするたびにひしひしと伝わってきた。驕り高ぶらず、ひょうひょうとして、物言いもおだやかそのもの。先生の放つ空気感に触れるだけで私は満足。学院以外でも、都内の書店で3回ほど、偶然にお会いしたことがある。先生と同じ場所に居合わせた喜び。今でも忘れない。そして、先生が晩年、アジア・アフリカ図書館館長を務められるようになってからは、また何度もお会いできるようになって、嬉しく思っていた。
 その後、今日まで、書店や古本屋へ行くたびに、西江雅之先生のご著書を買い求めている。『異郷日記』(青土社 2008年)のあとがきの一部を引用させていただく。
 「アフリカや南米の奥地にいた頃は普通であったような、文字も読めず、住む場所も定まらない人々の中に身を置くことが少なくなり、わたし自身が都会の半定住民となったのだから当然のことである。だが、わたしは今も‟異郷の人”である。自分の皮膚の外側は、すべて異郷だと感じている」

高級老人ホーム見学

 昨日、松戸にある高級老人ホームを見学した。理由は、そこに入居しておられる大学時代の寮監が90歳を迎えられたので、元寮生達が集まって、「90歳を祝うお茶会」を開催したからである。
 10名の元寮生達は近い将来のための参考として、この老人ホームに大いなる関心を持った。だが、結論は高すぎるということになった。
 私は開催時間よりも1時間早く現地に行き、ロビーのソファーに座って出入りする方達を観察したり、お茶を飲んでいる方達の様子を遠くからうかがった。だが、一番の不満は、働いている職員を除くと、高齢者しか見なかったことだ。老人ホームなんだからそれは当たり前の話だが、実につまらない。空気が止まっている。
 やはり都心の中でいろいろな年齢層の方達を見ながら刺激を受けるほうがいい。そして、若者達に交じって、彼らの行動パタンを観察するほうが面白いと思った。そして、諸機関を利用しながら、勉強するほうが頭の体操になるなあという結論に至った。

タイ人とはタイ語で話そう!

 昨日、大学に出講すると、女子大生から次のように言われた。
 「今、我が家にタイ人がホームステイしております。2ヶ月、滞在予定です」
 それを聞いた私はすかさず言った。「それじゃあ、またとないチャンスです。たくさんタイ語をしゃべってくださいね」
 すると彼女はこう答えた。「英語で話してます」
 英語という共通語を使うと、意思の伝達は確かにスムーズにいく。だが、そうだとすると、タイ語でなんとかして伝えようというはがゆい感じがなくなる。どうにかこうにかして意思が通じた時のワクワク感が無い。
 タイ人にはなるべく多くタイ語をしゃべってもらうようにお願いして、タイ語の音の美しさを少しでもたくさん吸収してほしいと思う。

ケチ と ドケチ

 昨晩、「タイ語中級 月曜日18:00」のクラスで、生徒からトン先生に質問があった。
 「東京の生活はどうでしたか?」
 すると、「僕は ขี้งก(キー・ゴック)で過ごしました。ชี้เหนียว(キー・ニオ)は単なるケチだけど、キー・ゴックは異常なほどケチることです。ประหยัด(プラヤット)は節約するという意味ですから、いい意味です」と、彼は答えた。
 タイ語を習う人なら、ケチという単語をまず覚える。次に、節約するという単語を覚えるが、ドケチ、すなわち、吝嗇となると、なかなかここまでは勉強しない。
 そうはいうものの、トン先生は地方旅行を楽しまれた。深夜バスに乗って、青森へ行き、奥入瀬の美しさを堪能してこられた。。宮崎県の高千穂へも行き、神聖なる空気にも触れてこられた。ドケチと言いながらも、時間を有効に使い、日本を十分に楽しまれたのである。

はずれくじ

 昨日、早稲田の古本屋街へ行った。日曜日だったので、開いている店はわずかにひとつ。店主は冴えない顔をしている。私は5冊ばかり買った。合計2千円也。
 「6枚、くじを引いてください」と、店主。「これまで沢山引いてきたけど、はずればかりなんです」と、私。目下、早稲田通り沿いの店々で、スピードくじ大会が催されているのだ。
 箱の中から6枚取ったつもりが、7枚取っていたのに気づいたので、1枚を店主に返し、残りの6枚を開けてみた。「はずれ、はずれ、はずれ…。ああ、やっぱり、はずれ」と私はぼやいた。6枚とも全部はずれ。
 すると、店主が7枚目のくじを開いた。「100円 当たり!」
 私も店主もびっくり。店主の喜びようときたら私以上であった。無愛想な男が最高の笑顔をした。
 よくよく考えてみると、私の人生は7枚目のくじのようなもの。生きる張り合いが出た。

二次会 or 20階

 昨日、久々にタイ人に日本語を教えた。3月から5月までは、双方の都合がかみ合わず、ほぼ休止状態であった。
 「お久しぶりですね。最近、地震や火山の爆発のニュースが多いですが、テレビを見てますか? 5月30日の地震の時はどこにいましたか?」と、私は生徒に向かって言った。
 「はい、その時は、ホテルの52階にいました。先生は?」と、生徒はすかさず訊きかえしてきた。
 「私はその日、結婚式に参列し、地震が起きた時には、二次会の会場にいました」
 すると、「ああ、先生は20階にいたのですか?」と、生徒。
 「いいえ、20階ではなくて、二次会です」と、私ははっきりと発音した。
 だが、タイ人の生徒には20階と二次会の違いが聞きわけできないようであった。

山手線一周

 昨日、暇をもて余したので、山手線を一周した。午後4時から5時半の間だから、まだラッシュ時ではなかった。下校の中学生達が可愛い。
 最近の傾向は外国人の旅行者が増えて来ているということだが、彼らは上手に電車を乗り回しているような気がする。電車の中で見る外国人には余裕すら感じる。
 聞いたところによると、中国人は東京23区を卵と見立て、山手線の中を卵の黄身だと思っているとのこと。確かに、山手線内で住んでいると、どこへ行くのも実に便利。時間的ロスが少ないから、そのぶん、充実した生活が送れる。
 今後、ますます外国人旅行客が増えるので、政府は彼らを地方へ分散させる対策に取り組んだというニュースが昨日、報じられていたが、是非そうしてもらいたい。
 高田馬場は日本語学校に通うアジアの学生達でごった返している。嬉しい悲鳴ではあるが、駅周辺がますます歩きにくくなってきている現象に驚きを覚えるのは私だけではなかろう。

居酒屋での生徒達の表情

 昨晩もトン先生の送別会が行われた。「タイ語初級 木曜日19:00」の授業が終わったのが20:30。その後、「予約はしていないけれど、どこか行きましょう」ということになったので、私は東京で一番安いと言われている高田馬場のさかえ通りにある居酒屋「青龍」へ皆を案内した。木曜日であったせいもあり、8名の席が難なく取れ、ラッキー!
 22:00までの1時間半、皆、楽しく、明るく飲んだり食べたり。トン先生もとてもリラックスしておられ、嬉しかった。何故ならば、いつもは真面目くさった顔をして、生徒達になんとかタイ語を言わせようと必死であるからである。
 ふと気づいたこと、それは生徒達の顔も最高にほぐれていたということ。「何故かしら? 皆さん、いい顔をしておられるわね」と、隣りに座ったS子さんに言うと、「日本語をしゃべっているからですよ」という返事。「タイ語はなかなか出てきませんが、日本語で話すならすらすら」
 8名の中には、去年10月、日本語の勉強がとても忙しいといって泰日文化倶楽部をやめて行った中国人留学生のB子さんも参加していた。無事に大学に入ったことを聞き、とても嬉しかった。日本語を話すスピードは以前よりもはるかに増していた。

ヒンディー語の長先生

 昨晩、トン先生の送別会を終えて零時近くに帰宅すると、メールボックスの中に一枚の葉書が入っていた。アジア・アフリカ語学院でお世話になったヒンディー語の長弘毅先生を偲ぶ会の開催を知らせるものであった。とても優しい表情をお持ちの先生であられたことが印象に残っている。私は書棚から『語りつぐ人びとⅡ インドの民話』(長弘毅 福音館書店 1981年)を取り出した。表紙の裏に、「恵存 吉川敬子様 1981年7月9日)と書かれてあった。
 長先生は1958年にインド政府奨学生としてインドに渡られたそうだが、出発当時の模様を「はじめに」のところに次のように書いておられる。
 「神戸の港を発つときは、それこそ二度とこの日本の地をふめないかもしれないといった悲愴な思いで緊張していたことを、今もはっきりおぼえている。東南アジアの各港に寄りながら船がベンガル湾に入ったのは、日本を発って二週間後。ようやく波がしずかになり船酔いでつかれた体も元気をとりもどしはじめた」
 1950年代にアジアへ行くには船で行くしかなかったのである。