今日の夜中、NHKの「最後の講義 大林宣彦監督」(再放送)を見た。癌を患っている大林監督が80年間の映画人生を、全ての細胞を結集して発声にまでこぎつけるその姿に、私は食い入った。そして、映画制作をかきたてる彼の「フィロソフィー」に聞き入った。
一方、聴講している早稲田大学の学生達の真剣な表情に驚いた。「驚いた」と書くのは失礼だが、本当に驚いたのだから、そう書くしかない。これぞ大学生の真の顔だ。彼らはまさしく、考える顔をしていた。
話し手が真剣勝負だから、聞き手も真剣な態度に出る。講義することの大切さをあらためて反省した。
泰日文化倶楽部では、一週間に一度、早稲田大学の学生達が集まって勉強会をしている。未来を見据え、若者としての展望を熟成させる場所を求めている学生達よ、もっと集まれ。
ร (รอ เรือ)の発音を明瞭に!
先週から、タイ人女性がゲストで教室にいらっしゃることがある。その彼女が気づいたこと、それは生徒の皆さんの発音の中で、「ร (รอ เรือ) =r音」が気になって仕方がないということだ。「舌を持ち上げて、振るわせなさい (กระดกลิ้น)」と、繰り返し注意する。長く教えているタイ人講師の場合は、日本人の発音に慣れてしまっているから、あまり注意することはない。
日常会話でよく使う単語の内、「ร」が出て来る単語を品詞ごとに列挙するから、がんばって舌先を振るわせる練習をしてほしい。
(1)疑問詞=อะไร(何)、 ใคร(誰)、 เมื่อไร(いつ)、 อย่างไร(どのように)
(2)代名詞=เรา(我々)
(3)形容詞=ร้อน(暑い)、เร็ว(早い)、แรง(強い)、แข็งแรง(健康な)、รวย(金持ち)
(4)動詞=รัก(愛する)、เรียน(勉強する)、รับ(受け取る)、รู้(知る)、รู้สึก(感じる)、รู้จัก(面識が有る) 、รอ(待つ)、ระวัง(注意する)
(5)名詞=รถ(車)、เรือ(船)、โรงเรียน(学校)、โรงแรม(ホテル)、ร้าน(店)ครู(教師)、รองเท้า(靴)、โรค(病気)、เครื่องบิน(飛行機)、รูปถ่าย(写真)
(6)副詞=เร็วๆ(早く早く)、ราวๆ(だいたい)、เรื่อยๆ(続けて、絶えまなく)
(7)前置詞=ระหว่าง(~の間)
(8)単位=ร้อย(百)
新しい女性講師
昨晩、「タイ語中級 火曜日19:00」のクラスを担当されているシン講師が、同じ研究室に所属する女性の後輩を教室に連れて来られた。7月中旬から夏期休暇願を申し出て来ているパック先生の代替講師として、新しい先生が欲しいなあと思っていた矢先であったから、彼女に来てもらうことにした。
新しい先生の愛称はニン(นิ้ง ning すばらしい、最高、という意味)で22歳。チュラロンコン大学卒業の才媛だ。来日時期を尋ねると、去年の10月とのこと。とすると、去年9月末に離日されたあのミカン先生と丁度、入れ替わって来日したことになる。
不思議や不思議。何故ならば、優秀なるタイ人達が、世代交代をうまく果たしながら、泰日文化倶楽部を支えてくださっているからである。
ニン先生は、日本の文科省から奨学金を得ている留学生だ。修士号、博士号を目指して、これから4年半、東京で学業に専念される。
語学 と 情熱
サッカーW杯が行われるたびに、開催国の言語を4年間かけて学び、開催地に意気揚々と乗り込む女性(60歳半ば)を、私は知っている。
彼女は某大学のドイツ語科を主席で卒業された方。したがって、単なる日常会話ではなくて、徹底的な勉強を自分に課する。
「ロシア語は難しい」と、珍しく弱音を吐いたのは4年前のこと。それ以後、彼女とは会っていないが、おそらくロシア語をマスターして、ロシアに乗り込んだに相違ない。
何故、彼女はそこまで挑戦するのであろうか? サッカーが好きでたまらないという情熱が、彼女の語学学習に拍車をかける。その情熱がなんともすばらしい。
2022年のW杯開催国はカタール。彼女はロシアから帰国後、アラビア語の学習をスタートさせるであろう。おそらく、毎日、アラビア語漬けになるはずだ。4年が勝負と自分に言い聞かせながら….。
百寿 記念衣裳展
昨日、上野へ鰻を食べに行った。だが、1時間待ちであったので、上野広小路に在る鈴乃屋に入り、浴衣や半帯を見た。丁度、「小泉清子 百寿 記念衣装展」が開催されていたので、美しい着物を見たさに入場料を払って会場に入ってみた。鑑賞する人は私一人。
小泉清子さんが百寿を迎えられたとは! NHKの大河ドラマで着物の考証を長くご担当されていたのは存じ上げていたが、もうそんなお年になられていてびっくり。会場で見張りをしておられた番頭さん風の方が私に近づいて来て、清子さんの着物の説明や、現在のご様子を教えてくださった。
10年前に発行された『きものと一緒 六十年 清子』の冒頭を読むと、昭和22年から着物の仕事を始め、着物の美を追い求め続けた女性実業家であることがよくわかる。「白百合や 見事に咲くや 花の意地」を詠んだ彼女の俳句には、長い人生が結晶となって表わされている。
梅ジャム
先日、庭の梅で造ったという梅ジャムを義姉からもらった。かなり甘いが、それでも梅の酸っぱさが「吾輩は梅である」ということをしっかりと主張しており、梅雨の季節にはもってこいのジャムである。
梅干しを食べるとしゃきっとする。疲労がすぐに解消されていく。何故、こんな話をするかといえば、昨日、会ったタイ女性(50歳)が、「なんとなくやる気が出ない」と言って、浮かぬ顔をしていたからである。能力抜群で、仕事もばりばりこなしているというのに……。「更年期(วัยทอง)かも?」と、その場にいた日本人達が言った。
私はひとつの質問を投げかけた。「30年近く日本に住んでいて、日本人の中に溶け込んだ暮らしをしていても、外国人としての緊張感は有るはず。そうじゃありませんか?」
彼女は「有ります」と言って、否定はしなかった。買物が好きな彼女だから、「買物をすれば?」と単純に勧めてみた。だが、買物をすれば、お金が飛んで行くから、あとにまた反省という疲労感が襲ってくる。安価に憂さを晴らすには素敵な食事が一番。出かけるのが面倒な場合は、梅ジャムで目をぱっちりと開け、身体をすきっとさせよう!
ジョージ・オーウェルの父
『パリの異邦人』(鹿島茂著 中公文庫 2011年)をパラパラめくると、英国作家であるジョージ・オーウェル(1903-50)が書いた『パリ・ロンドン放浪記』(1933年)の作品を題材にして、オーウェルの自分探しの旅が書かれてあった。
「そう、ジョージ・オーウェルは、自分探しの旅を始める現代の若者と同じように、いままでの自分は本当の自分ではないと思い込み、年俸660万ポンドに及ぶビルマの警察官の職を投げうち、<志願して>、ロンドンとパリでの貧乏暮らしに飛び込んだのである。この決意に対して、父親のブレア氏は、日本の父親が高級官僚をやめてボランティアを始めたいと言い出した息子に対してするように、ただ肩をすくめて見せるほかなかった。<中略> 彼の計画は<道楽者(ディレッタント)のそれだと吐き捨てたそうである」
明日は、「父の日」。有名人達が父親についての感慨を述べた文章がネットで紹介されているが、我々素人も、父親を回想して、何か記述してみてはどうだろう。
「出来る限り」というタイ語
一昨日、「タイ語中級 水曜日13:00」のクラスに用事が有ったので、授業が終わる5分前に行ってみると、生徒達がなんだか悩んだ顔をしている。理由は、『タイ語中級Ⅱ』に出て来た表現について、理解がいかないというのである。
その表現とは、「เท่าที่จะทำได้ 出来得る限り」というタイ語である。英語で言えば、「as much as possible」だ。私としては、そのまま覚えてくださればいいのにと思ったが、生徒達はタイ人講師に向かって、しつこく質問をしている。「いったい、どの程度のことを言うのですか?」、と。
タイ人講師は日本人の性格にすでに慣れて来ているので、「80%だと思えばいいでしょう」、と答えて、その場をおさめた。
そのやりとりを見ながら、日本語もタイ語も、そして、その他の外国語も、話す人の感覚、財力、知力、等々、に於いて、基準が全く異なるから、玉虫色であるなあと思った。
「出来得る限り」と言っても、本心から100%助けたいと思っている人もいれば、口先だけの約束で終わる場合もある。その心は、「善処する」という表現と類似している。
うっかりミスの効用
昨日、編物教室へ行ったが、うっかりして、現在編んでいるカーディガンの製図とは異なる過去の作品の製図を持って行ってしまった。クリアファイルに入れているので、大丈夫だと思っていたが、出かける前の最後の点検を怠ったために、稽古が進まなかった。
そこで、編物の雑誌を10冊ばかりパラパラとめくり、今年の秋冬のトレンドを探る。いずれの作品も毛糸の色がきれいで、とてもすばらしい。自分でも編めるような気がするが、そうはいかない。
だが、ふと考えた。雑誌のモデルはすべて欧米人(ฝรั่ง)。欧米人の若い娘達や子供達はモデル姿がよく似合っている。最近は、日本人モデルも多くなった。それは認めるが、ファッション雑誌を飾るのはやはり欧米人のほうが突き抜けた表情を示してすばらしい。
ファイルを間違えるという失敗のおかげで、ファッション雑誌を楽しむことができ、気分転換という効用を得た。
古希( 古稀)
今日、知人が古稀を迎えた。御祝いをするつもりである。
よくよく考えると、私の周辺には70歳前後の人ばかり。皆さん、70年間、よくぞ生き抜いて来られた。すばらしい!
古稀という漢字は、最近では古希と書くらしい。なぜならば、「稀」という漢字が常用漢字に入っていないからだそうだ。「古来、稀れなり」から来ているのに、常用漢字に入っていないという理由で、「希」に変えてしまうのは解せない。世の中の漢字を簡素化し、音だけで当てはめていくのはいかがなものか。
とまれ、ひるがえって考えるならば、「希」は「希望」に通じる。人生百年というコマーシャルが毎日流されているが、あと30年を生きるのは、身体的、経済的、そして、頭脳的に考えて、かなり厳しい。
これまで生きて来た道を、小さな希望を持って、お遍路さんの如くひたすら歩くしかない。目標は88歳(米寿)!