ELYZA イライザ

昨日の経済ニュースで「KDDIは、生成AI(人口知能)の基盤となる大規模言語モデル(LIM)の開発を手掛けるELYZA(イライザ、東京・文京)を連結子会社化すると発表した」ことが報じられた。これから先、言語環境がどのくらいのスピードでどちらへ向かって行くのかさっぱりわからない。

イライザと聞くと、私は映画『マイ・フェア・レディ』をすぐに思い出す。オードリー・ヘップバーンが好きだったこともあるが、花売り娘のイライザが下品なコックニー英語から上品な英語を喋るようにとヒギンズ教授の発音矯正を受ける過程が印象に残っているからだ。

AIが喋る喋り方にはいまだもって好きになれない。願わくば正統なる美しい日本語を聞く機会を増やしたい。

オケの練習

昨日、茶道教室に参加。桜尽くしの道具に一足早く桜三昧の贅沢を味わった。茶道教室は区の文化創生館というところの和室を利用しているが、そこはその他にもいろいろな稽古事が展開されてにぎやかだ。

その文化創生館へ向かう途中、コントラバスを背中に背負った若者に会った。創生館までの行き方がわからず迷っている様子だったので案内してあげた。藤沢からやって来たそうだ。オケの練習会場にはすでに多くの人達が席についていた。

公演会に向けて練習をするのであろう。どのくらい練習すれば果たして聴くに価いする音が出てハーモニーを奏でることができるのであろうか? 指導する指揮者の大変さをおもんばかった。だが、練習の繰り返ししかない、良い音を出すには。

今日のタイ語作文

1.タイ語の勉強では、発音に注意を払うことが肝心だ。

2.声調が違うと意味が全く通じない。

3.とりわけ日本人は「低声」の声調が不得手である。

4.タイ人の友人は発音を直そうとはしない。

5.何故ならば、日本人の癖に慣れているからである。

6.たくさんタイ語を聞いて、自らタイ語の発音を向上させよう。

敦賀ムゼウム

今朝(3月16日)午前6時11分、敦賀駅から「かがやき502号」が東京に向けて出発した。東京着は午前9時32分。速い。日帰りが優にできる。観光客も増えることであろう。

12年前に敦賀にふらりと寄ったことがある。駅の改札口は2つしかなく、静かな街の様子を呈していた。だが街中の道路は広く、気比神宮は威厳が有った。私の目的は「敦賀ムゼウム」を見学することであった。ここではリトアニアで「命のビザ」を発給した杉原千畝氏に関する資料が展示されているが、大正時代に敦賀に来たポーランド孤児のことも知ることができた。

敦賀港に立ち、海のかなたを眺めた時、船に乗りさえすれば大陸が近いと実感した。港は歴史そのもの。いろいろな人生の足跡が刻まれている。

WAGASHI

昨夜のNHK番組(国際報道2024)で、バンコクで行われた「和菓子WAGASHI展」の様子を見て、タイ人の和菓子に対する関心が高まりつつあることがわかった。バンコク高島屋が開店して以来、この催しは毎年行われているようだが、羊羹が1本、なんと1万円(日本の2~3倍)で売られていることを聞いて驚いた。

正直なところ、和菓子は日本の四季に由来するところが多い。四季が無いタイに於いて、果たしてタイ人は和菓子の由来がわかるのであろうか? WAGASHI展の関係者が語った。「映え効果を狙っています」

昔、「日本の饅頭はあんこが入っているだけ。どこで買っても同じだ」とタイ人は言ったが、今は違う。インバウンドのための「和菓子教室」も活況を呈している。正しい由来に基づくWAGASHI文化がどこまで浸透するかが楽しみである。

今日の語彙

PCの調子が悪いため、簡単な出題をします。

คำ(接頭辞)で始まる名詞を15語、列挙しなさい。

ควัน/ควร

昨日の授業で、ステージで演出されるスモーク(煙)が話題にのぼった。そこでタイ人講師が「煙=ควัน」を白板に板書された。すると生徒さんの一人がすかさず質問した。「~すべきであるというควรと同じ発音ですか?」

タイ人講師は一瞬考え込んだが、「いえ、ちがいます。ควันとควรは微妙に違います」と言って、両者を発音して聞かせてくださった。だが日本人にはその差を聞き分けるのは無理。そこで、私が発音表記を添えた。ควัน=khwan / ควร=khuan。

カタカナで書けば、クワンとクアンだが、実際にはほぼ同じに聞こえる。したがって、両者を正しく発音するには訓練が要る。唯一の救いは、ควัน(煙)は名詞、ควร(~すべきである)は助動詞だから、文章で聞くと文法的には聞き分けができるはずである。

黙祷

昨日午後2時46分、仕事先で黙祷するようにと館内放送が有ったので、私も1分間、黙祷した。全国で多くの人々が同じ行動を取ったと思う。心は東日本大震災の被害関連者へ….。そして、能登の人々へも……。

2011年3月11日に陸前高田高校で先生をしていた元教え子の安否を心配して、震災後すぐにネット上でいろいろと探してみた結果、無事であることがみつかった。どうにか連絡がとれた時、彼は津波にのみ込まれそうになった体験と恐怖を語ってくれた。震災以後、彼は岩手県の内陸部に移動し、現在は遠野市で持ち前の明るさで元気に教えておられる。

黙祷しても亡くなられた方々はもう戻って来ない。しかし、無念の死をとげられた人々へ想いを馳せること、それはきっと通じると思う。デジタルの時代、生成AIの時代になったとはいえ、人間の祈りが無用、無効になったわけではない。

今日の翻訳

『ชีวิตจำลอง』(พล.ต.จำลอง ศรีเมือง/ โรงพิมพ์ธีระการพิมพ์ พ.ศ.๒๕๓๓)の序文「ชีวิตนี้เป็นของผม」から出題する。

1.ผมขอยืนยันว่า จะซื่อสัตย์และเสียสละตลอดชีวิตซึ่งได้ปฏิบัติตนเช่นนี้มานานแล้ว

2.มิใช่เพิ่งจะมาทำตอนเป็นผู้ว่าราชการกรุงเทพมหานครนี้เท่านั้น

3.แม้จะมีอะไรมาข่มขู กดดัน บีบคั้น ก็ไม่มีวันที่ผมจะยอมสยบ โอนอ่อนผ่อนตามให้กับความไม่ถูกต้อง

4.ถ้ายอมก็เท่ากับผมทรยศต่อตัวเองและสังคมประเทศชาติ

5.ชีวิตนี้เป็นของผม ผมจะเป็นคนซื่อสัตย์ เสียสละตลอดไป โดยไม่หวั่นไหวว่าอะไรจะเกิดขึ้นกับผม เป็นไรเป็นกัน เพราะผมคือผม จำลอง ศรีเมือง

YUKIZURI

「YUKIZURI」という金沢のお菓子をいただいた。包装紙に次なる文章が書かれていた。「パティシエ 辻口博啓が創作菓子YUKIZURIの収益の一部を、未来を担う子ども達の“夢”を応援する活動に生かしたい、との想いから生まれたプロジェクトです。<以下省略>」

すばらしいプロジェクトだと思う。「YUKIZURI」とアルファベットで書いてあるので、私は「行きずり=通りすがりの人」と勝手に解釈し、「知らない人がこのお菓子を買って、知らない子ども達の未来の活躍の支えになればいい」と思った。

ところがである。包装紙の絵をよく見ると、「兼六園の雪吊り」が書かれてあった。雪吊りは大切な木を雪から守る目的があるが、なるほど子どもが木であると思えば、大人達は優しく守ってあげる必要がある。