「隣」という漢字

 先日、「隣り」という漢字を書こうと思って、こざと偏まで書いたところで手が止まった。さて、その先がどうであったかとあせるうちに感覚がすっかり狂ってしまった。その時、辞書もスマホも何も無い環境にいたので、近くの人に教えてもらうはめになった。
 「隣」という漢字の由来は正式なものが有るが、あえて自分の記憶を確実なものにするために、次なる覚え方をすることにした。
 「隣」=「こざと偏+米+舛」で、「村に米がますます増える」、と。マンション暮らしは隣人との付き合いが無い。それはそれでいい。
 しかし、理想を言うと、米(=食べるもの)が有るということは生活が安定していることである。そのためには安定した職が支えとなる。職+食が有れば、隣人、隣国とも好ましい距離をとって暮らせると思う。

今日の作文

今日はごくごく簡単な内容をタイ語に訳してみよう。

1. 2月は28日しかない。

2. 2月には祝日が2日、有る。

3. そして、土曜日と日曜日が8日、有る。

4. したがって、平日は、28日-10日=18日となる。

5. 大雑把に言うと、実質上の稼働日は約2週間ちょっと。

6. このぶんだと、あっというまに2月が終わりそうだ。

7. 2月が終わると、2021年の6分の一が終わることになる。

3ヶ月前・3ヶ月後

或る本を読んでいたら、次のようなことが書かれてあった。
 「滋賀県高島市の菓子店の社長が言いました。今日の売り上げは今日の努力の結果ではない、3ヶ月前、1年前の努力の結果です。今日の接客、今日の笑顔、今日のサービスが、3ヶ月後、1年後の売り上げになるのです」
 なるほど。そうなんだ。商売をなさっておられる方のみならず、何の生業の従事者であれ、この言葉を肝に銘じたい。
 そして、もっと拡大解釈するならば、語学の勉強も然り。言葉は気をゆるせば抜けて行く。使う機会を求めなければ鈍って行く。コロナ情報に翻弄されていると、3ヶ月後、1年後が哀れだ。
 明日は祝日。この1年間の来し方を反省し、これからの3ヶ月後、1年後に、今現在の仕込みで明るさを呼び込もう。

街の音

 昨日、NHKのニュースで、目の不自由な方が困っておられる話題が取り上げられた。それは、コロナ禍に於いて、外出自粛が求められているため、以前よりも街が静かになっているので、これまで頼りにしていた街の音や人々の足音が減少し、自分の歩行に支障をきたしているという内容であった。
 彼らにとって、たとえば店の自動ドアの音を聞いて、今、自分達がどの辺りを歩いているかを確認していたそうだ。ところが、店の換気が求められている今、ドアが開けっ放しになっているので、かすかな音すらも無い。ましてや横断歩道を渡る勤め人の靴の音など聞こえてくるはずがない。テレワークになったから……。
 街の生活音が戻って来るのは、果たしていつになるのであろうか?

今日の翻訳

今日はいつものタイ小学校国語教科書からではなくて、市販の本(『ยาเสพติด』โดย อ.อุดม ดุจศรีวัชร , บริษัทอักษราพิพัฒน์ จำกัด พ.ศ.๒๕๓๙, หน้าที่๕)から出題する。

ความหมายของยาเสพติด

ยาเสพติด หมายถึง ยาหรือสารเคมีที่เมื่อนำเข้าสู่ร่างกายด้วยวิธีกิน สูบ ฉีด ดม หรือวิธีอื่นๆ วิธีใดวิธีหนึ่งติดต่อกันชั่วระยะเวลาหนึ่ง แล้วทำให้เกิดผลต่อร่างกายและจิตใจดังนี้

๑. ต้องเสพอยู่เสมอ เพราะเกิดความต้องการทั้งร่างกายและจิตใจอย่างรุนแรง

๒. ต้องเพิ่มปริมาณของยาเสพติดให้มากขึ้นเรื่อยๆ

๓. เมื่อถึงเวลาเสพแล้วไม่ได้เสพ จะมีอาการอยากยา

๔. สุขภาพทรุดโทรมลง

南無大師遍照金剛

最近、私は早稲田から来た都電に乗って、飛鳥山で下車することが多い。停留所のすぐ横に祠が有って、小さな幟(のぼり)が20本ばかり立てられている。幟の地色は赤。そして、それには「南無大師遍照金剛」と書かれている。
 「南無大師遍照金剛」と言えば真言宗。幼い時からいつも耳にしていた唱え文句だ。飛鳥山に弘法大師! このコロナ禍に於いて、先が見えない毎日。この文言にすがることにしよう。
 調べてみると、「南無」とは、「私は帰依する」という意味だそうだ。タイ語では「นม/ นมะ / นโม」で、「尊敬、礼拝、合掌拝礼、南無、帰敬」(『タイ日辞典』 冨田竹二郎編纂より)
 一方、「遍照金剛」は、空海の灌頂名だそうだ。従って、「南無大師遍照金剛」とは、「大師であらせられる空海(弘法大師)に私は帰依する」ということになるとのこと。

買いそびれた手帳

先日、愛用している能率手帳を買おうと思って、新宿の文房具店へ行った。しかし、私が長年使っているタイプの手帳は売り切れ。在庫は無かった。
 いつもであれば12月末に行って購入しているが、ステイホームということで出かけることをやめた。ごく普通の手帳だから、買いそびれた人のために2月上旬でも残っているであろうと思っていたが、その考えは甘かった。
 スマホの時代になって紙の手帳は廃れて行っているのかもしれない。私はその手帳会社の自社ビルの前をよく通るが、最近は道路に面したショーウィンドーが閉ざされ、会社は倉庫化している。
 仕方なく別のタイプの手帳を購入した。薄くて軽い。どうせ今年いっぱいコロナ禍は続くであろうから、人に会うこともない。習い事も無い。おそらく書くことは少ないであろう。

今日の作文

おだやかに、静かに暮らしたいのに、世間では話題に事欠かない。今日の宿題は短文をタイ語に訳すことだが、タイ語ではどうやら長くなりそう….。何故ならば単語の説明が長々となってしまうからである。

1. 美しい森に入って森林浴をしたい。

2. その際、「老害の森」には近寄らないようにしよう。

3. 昔から「隠居」という言葉が有る。出来得ることならそうしたい。

4. 答弁とは、質問に対して、きちんと答えることである。

5. 「私と長男とは別人格です」と言って、答弁をすり替える総理。

備前焼のデミタス

今年は昨日が立春。樹々の細い枝先を見ると、小さくふくらんで来ている。少し離れて見ると、日々、樹々全体に濃さが増して来ている。もう裸ではない。新しい服を着ようと、幹の中は葉をひそかに増産中である。
 「緊急事態宣言」が3月7日まで延長されることになったので、自粛休講中のクラスはそのまま延長することにした。そして、昨日までにその通達が終わった。
 「自学自習もつい休学モードに後退しがちを自戒しつつ」というメールが生徒さんから返信されてきた。
 皆さん、「自習します」とおっしゃるけれど、「ほんまかしら?」
 昨日、私はオフ。30余年前に倉敷で買った備前焼のデミタスでコーヒーを味わう。この小さきコーヒーカップは実に美しい。焼きの色が見事だ。備前焼の特徴は、「釉薬を一切使わずに、1200度の高温で焼く焼締め陶」とのこと。コロナ太りやコロナ呆けにならないよう、自分に焼きを入れなくては……。

民家カフェ

昨日、都内の住宅街を歩いていると民家カフェが目にとまった。今はやりの古民家カフェではなくて、ごくごく普通の家である。
 中に入ると老人がヌーッと現れた。応接間に通される。コーヒー(500円)だけでは悪いと思い、ケーキセット(800円)を注文。出て来たケーキはチーズケーキ。
 老人が言った。「悪いですね。冷凍ケーキだからまだ融けていません」
 私は応じた。「そうですね。南極の氷よりも固いですね」
 私はそこにいた20分の間に、矢継ぎ早に老人に向かって質問を投げかけた。彼は元新聞記者であった。インドやインドネシアに駐在。ヒンディー語やインドネシア語はできないとのこと。
 私が席を立とうとすると、彼はカチンカチンのチーズケーキを出したことを詫び、彼の著書を私に贈呈してきた。『日本とアジア』というタイトル。タイのことはほとんど書かれていなかった。本の金額は1600円。ケーキセットが800円だから、私は800円、得したことになる。