哀悼のタイ王国(15)

バンコク第3日目(10月21日)、王宮へ記帳に行くことにした。サイアム駅からサパンタクシン駅までBTSで行き、船着き場で並んだ。すでに大勢の人達が並んでいるのを見て、覚悟を決めた。目指すはターチャーン船着き場。
 船に乗り込むと、幸いにも後方の右船べりに席が空いていた。そこに座って、チャオプラヤー河の景色を眺めながら写真を撮った。1903年から3年間、日本女性(安井てつ女史)が校長をしていたラーチニー女学校(王家の子女のための学校)を、40年前に取材したことがあるが、ラーマ5世時代に建てられたそこの校舎が目に入って来た。
 しばし、昔の情緒に浸っていると、大波がざぶんとやって来て、ピシャリとしたかと思うと、私の身体は全部びしょ濡れになった。よける余地もなかった。目の中にまで河の水が入ったことに気づく。これぞまさしくチャオプラヤー河の洗礼か?

哀悼のタイ王国(14)

バンコク第2日目(10月20日)も、午前5時から昼まではテレビの前に釘づけになり、タイ人の胸中を間接的に取材した。王宮では僧侶供応のために毎朝、王族達が朝食を差し上げる儀式が執り行われている。僧侶達は各寺から交替で読経を唱えている。
 昼過ぎ、ホテル近くのタイ料理店へ行く。人が入っていない。窓越しに行き交う人を見たが、気のせいだろうか、まばらな感じがした。マーブンクローン(MBK)まで歩き、中の賑わいを確かめたかったが、金を売っているコーナーのうち、3つがテナント募集中であった。不景気の前兆?
 MBKを出て、国立競技場まで行くと、王宮前広場へ行く無料のワゴン車が数台、並んでいた。「おばさん、飲み物、どうぞ」と、若者達から呼びかけられた。王宮前広場へ行く一人だと思われたらしい。有り難く頂戴し、近くのコンクリート壁のところに腰を下ろして喉をうるおした。その後、すぐそばで、高齢の老人がセピア色の王室写真の複製を売っていたので、20枚ほど、買った。

哀悼のタイ王国(12)

 地方行幸をされる国王は森の中を先頭に立って歩かれる。一歩の幅が広い。大地を踏みしめる足に力が入っている。国王の頭の中には、農民の「生活の向上 ให้มีความชีวิตดีขึ้น」のことでいっぱいだ。農民が「苦しいです(ลำบาก)」と言うと、国王は、「どのくらい苦しいのか? ลำบากเท่าไหร่」とすぐ訊いてくださったそうだ。そして、「自分が苦しくない時は他の人を助けるように」とつけ加えられた。健康がすぐれない村人を見ると、「水がすべての源だから、清潔な水を確保するように」と助言。
 国王と水、それは切っても切れない話である。国王は、農民に対して、貯水(เก็บน้ำ)と灌漑(ระบายน้ำ)を力説し、ダム建設(สร้างเขื่อน)も果たされた。池(สระน้ำ)からの放流(ปล่อยน้ำ)も教えられた。国王はいつも、「やれる(ทำได้」とおっしゃられて農民を勇気づけられもなさった。国王の声(น้ำเสียง)は力強かった。注意すべき時は本当に注意をしておられた。
 国王の御歳を数えるのは、一般の「年 ปี」ではなくて、「雨 พรรษา」である。何回、雨季を経たかという数え方をするが、これを見ても国王と水は深い縁が有る。国王即位時、「灌頂 อภิเษก」という儀式が執り行われるが、これは頭の上に水をかける儀式である。

哀悼のタイ王国(13)

番組のタイトルは「พ่อของแพ่นดิน 国父」だが、テレビは延々とタイ国民の哀悼の意を伝え続けた。まさに、「แผ่นดินน้ำใจ 御心の国」であると、アナウンサーは語った。
 地方在住のタイ国民は喪服姿で県庁や役場の広場に集まり、「I♡๙ ラーマ9世を愛します」という人文字を作った。或る県は999人、或る県は9999人で亡き国王へ哀悼の意を表した。
 国民は言う。「ไม่ได้พูดอะไรเลย แต่ใจเดียวกัน」、「ไม่มีพ่อ ไม่มีวันดี ไม่มีประเทศไทย」、「มีชีวิตความเป็นอยู่ที่ดีขึ้น」、「พระมหากษัที่เสียสละ」
 マレーシアと国境を接するナラーティワート県在住のイスラム教徒は、「รักมากกว่าชีวิตตัวเอง」と語った。
 サムットサーコーン県の漁師はこう言った。「พ่อมอบให้พลัง」
 北タイに住む山岳民族は、国王が家に来て一緒にご飯を食べて下さった思い出を語り、そして、「พ่อมีแนวความคิด เข้าใจธรรมชาติ ทำได้ดีเพื่ออนาคต」と哀惜を込めて胸中を吐露した。

哀悼のタイ王国(11)

 プミポン国王を追悼するテレビ番組のタイトルは、「พ่อของแผ่นดิน」。แผ่นดินには、大地、国土、国家、王朝、御代、といった意味があるが、タイ人にとっては、「国の父」と訳すのが一番親しみやすく感じられることであろう。
 リケー芝居の演者に続いて登場したのは、オリンピックで金メダルを獲得したボクシング選手であった。タイ・ボクシングは国技であるから、国王からお褒めの言葉をいただくのは当然のことだ。そして、重量上げの女子選手も、自分が経営するジムで哀惜の気持ちを表明した。
 音楽関係者達は国王の御教えを述べた。「คนดี สงบ คิดดี」、そして、「รักกัน สามัคคีกัน」
 仮面劇の仮面を作っている方達も、工房で思い出話を語った。
 しかし、何よりも多く取り上げられたのは地方行幸をなさる国王の御姿であった。

哀悼のタイ王国(9)

2016年10月19日の夜、プミポン国王の初七日の儀式が王宮から中継された。荘厳なる内部、そして、国王の御棺が安置された祭壇は黄金で燦然としていた。タイ国民はテレビ画面を通してではなくて、まるで宮殿のきざはしに我が身を置いているかの如き思いをしたのではなかろうか。
 王族の方々、王室関係者、そして、高位高官の方達が先に席に着いておられた。最後に、皇太子様が黄色いロールスロイスにお乗りになって王宮に到着された。後続の従者達の車は赤のベンツであった。国王をお守りする近習(มหาดเล็ก)の制服の色が赤だから、それにならったものかもしれない。
 阿毘達磨経(พระสูตรอภิธรรม)が僧侶達によって唱えられた。この読経は毎晩、必ず斉唱されている。心安らかなる響き….。いつまでも聞いていたい有り難き読経である。

哀悼のタイ王国(10)

バンコク第2日目(10月20日)、朝5時からテレビをつけた。盲目の女性が美しい声で歌っている。4歳で失明した彼女は、現在、ランシット大学生。国王が作曲された歌をこれからもずっと歌い続け、若者に聞いてもらい、後世に永遠に残して行きたいと語った。
 画面は変わって、伝統芸能であるリケー(ลิเก)芝居の役者がインタビューに応じていた。国王の庇護を受けたことをとても感謝していた。ラーマ5世時代にマラヤ(=マレーシア)から入って来たこの大衆演劇は、今から50年前までは街中にリケー小屋が有り、人々は寸劇を見ながら爆笑していたものだ。約40年前、私はそのリケー芝居を見たいと思い、バンコク在住の若いタイ人に「どこへ行けばいいですか?」と尋ねたことがあるが、「もう有りません」と、すかさず言われた。
 だが、テレビに押されて街中から消滅したリケー芝居の役者を、国王がずっと激励し続けて来られていたことを知り、国王の伝統芸能に対する恩寵は慈悲そのものであると感じ入った。

哀悼のタイ王国(8)

新聞を買った後、パパイヤ(มะละกอ)とパイナップル(สับปะรด)を買って部屋に閉じこもった。テレビを見るためである。3チャンネル(ช่อง3)をつけると、キャスターもレポーターも皆、黒ずくめ。女性キャスターの場合、いずれも皆、襟が中国服のたて襟をしており、スカートも足首まで。すらりとしたスタイルのいい女性達がますますすっきり見えた。
 国王とゆかりが有った方達が次から次に登場したが、彼らも黒服で思い出話を語った。ピアニストは哀惜に耐えられないような表情でピアノを弾いた。バイオリニストも然り。ジャズのグループも深い面持ちで演奏した。国王がかつて所属しておられたグループの名前が「H.M.Blues」と言われたそうである。この「H.M.」は誰しもが、”His Majesty”であると想像するであろうが、実は”Hungry Men”の意味だと昔のジャズ仲間が語った。なかなか洒脱なネーミングであることか!

哀悼のタイ王国(7)

 シーロム通りは車が少なかった。スリオン通りに入ると、もっと少なかった。マッサージ店の店先で客待ちをしている人達は皆、黒。客は来そうにもない。まるでタイムスリップしたかのよう…..。
 サイアムスクエアのノボテル・ホテルはロビーを改装中であった。近所のセブンイレブンも改装中であった。午前中に行ったお粥の店も改装中。ということは、商売にならないので、この際、思い切って改装に踏み切ったということなのであろうか。
 チェックイン後、早速、新聞を買いに走った。国王関連の新聞や雑誌がうず高く積まれている。下世話な想像だが、タイ史上に於いて、一番たくさんの部数が売れるのではなかろうか。しかし、お店の人の顔は淡々としていた。笑顔は消えていた。
 私が買った新聞は大き目のビニール袋には入り切らなかった。もう一枚、ビニール袋を追加して数社の新聞を入れてくれた。今回のバンコク訪問の目的の一つは新聞を買い集めることであった。

哀悼のタイ王国(6)

 「ヤーンナワー寺院のマッサージはすばらしいから、ここでやりましょう」とクン・メーから誘われたので、素直に従った。マッサージをする中年女性にまずは国王のお悔やみを言い、彼女の反応を見た。だが、案の定、無口であった。そこで、個人的な話に切り替えた。
 「何県出身なの?」
 「サコンナコンです。サコンナコンの山の頂上に、国王がお泊りになられる御殿(ตำหนัก)が有ります。国王は毎年のようにサコンナコンにいらしてくださったんですよ」
 彼女がこれだけのことを喋ってくれただけで、私は満足した。国王がイサーン地方へ繁々と行幸あそばされていたことが、庶民の口を通して如実にわかったからだ。
 マッサージの後、タクシーでシーロムへ行き、こじんまりとした食堂で、クン・メーのお勧めに従い、カエル(กบ)を食べた。カエルを食べるのは初めて。「国王が蘇る(よみがえる)」ことを願う気持ちが私には強くあった。