バンコク散策(17)

エラワン・ホテルのロビーに行ってみたが、そこにも客はいなかった。空港で見かけた欧米人達はおそらくバンコクを避けて、パタヤやプーケットへ行ったのであろう。
 ラーチャプラソン交差点からマーブンクローン・センターがあるパトゥムワン交差点まで歩く。いずれも反対派が占拠しているところであるが、デモはやや下火になっていた。だが、ステージの辺りから反政府リーダーのアジ演説が聞こえてきた。本物みたさにステージのほうへ行ったが、彼はいなかった。どうやら陣取っている交差点のステージすべてに彼の映像が送り込まれていたようだ。
 聞くところによると、デモ参加者に提供される弁当の金額が一日で百万円。しかし、寄付する人が大勢いて、資金面で枯渇することはない。ステープ氏が歩いていると、路地からおばあさんが出て来て、ステープ氏の手にお金を託したが、なんとその金額が、100万バーツ(日本円で約320万円相当)であったとか!
 パトゥムワン交差点にあるシルクの店に寄ってみた。店はオープンしてからもうかれこれ30年近くになる。老婦人の姿は無かった。若い人が跡を継いでいた。カフェも併設されて、今風だ。
 本来の高級服よりも、反政府派を支持するためのTシャツが目にとまった。いずれも皆、手書きで書かれた一点物ばかり。「Shutdown Bangkok」という文言のTシャツを買った。農民を支援するTシャツも買った。「農民の力が結集して稲穂となる。なのに農民は苦しみと困窮ばかりだ」と書かれてあった。

バンコク散策(18)

高級シルクの店に置いてある服は、いずれも素敵なものばかりだが、日本では着こなせないようなデザインなので買わなかった。店の女性は古いバティックの生地にモン族の刺繍が入ったジャケットをしきりにすすめた。「この手の古い手作りのものは、いずれ近いうちに無くなりますよ」、と。
 壁には中国式デザインの刺繍服が飾られてあった。布地が黄色であったので、中国の西太后が着る服のように見えた。
 コーヒーを飲みながら、モン族の服を眺めること1時間。結局、買うのは断念。買っても着る機会が少ないと思ったからである。
 次に、マーブンクローンへ行ったが、ここもなんだかいつもの活気は無かった。周囲の道路が封鎖されていたからである。
 象の模様が入ったコットンのスカーフが目にとまったので、値段を聞くと250バーツ。「240バーツにしてよ」と言っているところに、欧米人の客がやってきた。店のおばちゃんはそちらの対応で、私を無視した。だが、欧米人の女性は何も買わずに店を去った。
 「このスカーフ、いくら?」と、私はもう一度聞いた。「200だよ」と言ってきた。「あれ、さっき250って言ってたじゃん」と、私が言うと、「200って言えば、200だ」と鋭い剣幕で言い返してきた。買う客が少なくて、むかついているように見えた。私はそれ以上、値段交渉をするのはやめて、1枚だけ買った。
 別のフロワーで、欲しかったオーガニック・コットンのTシャツを買ったが、この店のおばちゃんも不愛想であった。
 「ああ、早くデモが終わらないかなあ。でないと、微笑みの国が、不愛想の国になりかねない」と、心でつぶやいた。

バンコク散策(16)

バンコク第5日目の2月28日、太陽君のお母さんが出勤する車で、再びバンコク市内へ行った。降ろされた場所はチットロムのセントラル・デパートの反対側にあるオフィス・ビル。夜8時にそこの1階にあるスターバックスで待っているように指示された。
 一人になった私は、早速、エラワンの神様にお参りした。お花を買うと400バーツ。ビニール袋の中にはいっぱいお花が入っている。「こんなに要らないから、半分にしてよ」と言うと、花売りのおばちゃんがすかさず言った。「神様の顔が4っあるから、全部にお花をあげなくちゃいけないんだよ」
 このエラワンの神様のところだけは、実にタイそのものであった。お参りする人がいつも絶えない。お布施をはずみ、名前を記帳している家族には神様への奉納踊りがひっきりなしになされている。
 エラワンの神様のあと、私は行くところを決めていた。エラワン・ホテルの地下1階にあるエラワン・ベーカリーだ。そこでチーズ・ケーキとコーヒーを飲むのが唯一の楽しみであった。理由は、40数年前からエラワン・ベーカリーを知っているからである。
 その当時、バンコクにはこれと言ったおしゃれなパン屋はなかった。有ったにせよ、中国系のふわふわパンしかなかった。それに引き換え、エラワン・ベーカリーは断トツにおしゃれであった。店はホテルの中にあったのではなくて、エラワンの神様の並びにあった。
 ところで、現在のエラワン・ホテルではなくて、タイ国鉄が経営していた時のエラワン・ホテルは、コロニアル風の3階建てで、実に趣きがあった。しかし、国鉄マンの経営では赤字続き。いつしか、お化けが出るホテルと言われ出した。そういう時代に私はそこにあえて泊まった。だが、お化けは出なかった。

バンコク(15)

2月27日(バンコク第4日目)。この日はホテルを出て、昨年私の家にホームステイした太陽君の家に移動することになっていた。午前10時半、ホテルに迎えに来てくれたおかかえ運転手の車に乗り、民主記念塔の近くにある教科書会社へ行こうとしたが、やはり道路封鎖のため行けなかった。途中、首相が外国のVIPをもてなす迎賓館の前を通ったが、警備の人達は何とも手持ちぶさたの様子であった。それもそうであろう、退陣を迫られている首相はチェンライへ行ってしまっていなかったからである。
 太陽君の家はスワンナプーム空港の近くにある。午後1時到着。長く働いているブアさんの手料理をいただいた後、しばらく午睡を取った。午後6時半、太陽君のお父さんが運転するジープでメガ・バンナーへ行く。「このジープ、ガタガタしますよ」と言われたので、私はすかさず応じた。「まるでタイの現状みたいですね」
 太陽君のお父さんはスペインの会社と合弁提携を結んでおられた。この夜はメガ・バンナーのワイン・バーでスペイン人達をもてなすことになっていた。そのワイン・バーへ行くと、多くのタイ人達がワイン・グラスをかたむけながら、愉しいひとときを過ごしていた。
 太陽君のお母さんもやって来たが、「ここはにぎやかすぎます。先生、バーゲンセールに行きましょう。」
 そう言われて、女性陣は別行動をし、私はダウン・コートを買った。タイでダウン・コート? はい、タイでも冬物、ちゃんと売っていますよ。

バンコク散策(14)

洋裁店で洋服を受け取り、再びBTSに乗ってサヤームまで戻って来た。泰日文化倶楽部の生徒さんから「フリーペーパーをおみやげにお願いします」と頼まれていたので、伊勢丹の6階にある紀伊国屋書店へ寄った。ついでに、私の名前が出ている本を3種類、書棚で確認。
 そのあと、以前行ったことのあるセントラル・ワールド内のエステ店へ行った。着いたのが午後8時45分。「何時までですか?」と店員に尋ねると、「9時までです」と答えた。「よかった。間に合った」と、嬉しく思いながら、店の名前をよく見ると、“THANN”。この読み方は、「タン」。「間に合う」というタイ語も「タン than」。おお、偶然の一致だ! おみやげにレモングラスと白檀の香りのするバームを買った。
 ホテルの前に「チヤーン 象」というマッサージ店が有ったので、3日間の疲れをとるため、フットマッサージをする。アラブ系女性が2名、客として隣りにいた。体格がいいので、話し声も大きい。マッサージ嬢の話では、デモの影響で客が激減しているとのこと。
 そういえば、ホテルも閑散としていた。ロビーに人がいない。ホテル内の中華料理店も、昼間、2組しか入っていなかった。観光産業に従事している人達はもう限界。彼らの顔付きや仕草から、それがよく見てとれた。
 「微笑みの国」が、「ぼやきの国」になりつつあった。

バンコク散策(13)

バンコク第3日目の午後は、買った教科書をホテルに持ち帰り、すぐにまたホテルを出た。短い滞在だから、寸暇を惜しんで動きまわりたかったからである。両替のためにタニヤへと向かう。
 BTSから見たルンピニ公園には大いに失望。テント、また、テントで、これまでの様相とは一変していたからである。シーロム交差点も閉鎖されていた。アジ演説が聞こえる。午後4時頃のタニヤはなんだか寝ぼけた感じで、閑散としていた。
 再び、BTSに乗り、サパーンタークシンへ行った。頼んでおいた洋服を取りに行くためである。しかし、6時までにはまだ時間が有ったので、ロビンソンで軽く何かを食べようと思って地下に降りて行くと、「丸亀製麺」の店が目にとまった。タイまで来て讃岐うどんを食べたいとは思わなかったが、うどんのこしの強さは果たしてどのくらいなのか、本場讃岐の出身である私はどうしてもチェックを入れたくて、釜揚げうどんを注文。79バーツ(約250円)。うどんの表面がやわらかくて、不合格。出しが甘くて、これまたダメ。
 約束の6時に洋裁店へ行ったが、1枚だけまだ仕上がっていなかった。そこで、マネージャーと1時間半、話をしたが、妹さんが2ヶ月前にオートバイにはねられて死亡、60万バーツの補償金で泣き寝入りしたこと、病気で弱っている母親には妹の死を知らせなかったが、その母親も1ヶ月前に亡くなり、今はものすごく落ち込んでいると彼女は言った。唯一の救いはお寺へ行くことだそうだ。聞くところによると、子供を有名な私立高校に通わせている。しかし、御主人が公務員(警察官)なので、授業料の減免があり、助かっているそうだ。
 「人生半ばを過ぎると、人生観が変わりますね。いろいろなことが有りますが、今は心を穏やかにして暮らすようにしています」と、彼女は言った。

バンコク散策(12)

スカイウォークを歩いている時、数回、恐怖を覚えた。何故ならば、バンコクの要所要所でここ数日来、無差別爆弾が有り死傷者が出ていたからである。しかし、スカイウォークの上にはBTSが走っている。まさかBTSを狙うことはなかろう。そう思って、少々、気を落ち着けた。
 一旦、ホテルに戻り、チェックインをした。部屋はノボテル・ホテルの最上階である18階。窓のカーテンを開けると、アンリ・ドュナン通りが見える。反政府派の抗議デモは朝よりもパワー・ダウンしていたものの、はためく大判のタイ国旗が勇ましい。タイ警察庁の横は競馬場だ。緑がとても美しく、そこだけは平和そのもの。
 ホテルを出て、はてさて、どこへ行こうか? そうだ、国立競技場の近くにある教科書会社へ行こう! サヤーム駅から国立競技場駅へ。駅を降りると、またまたびっくり。競技場の周辺がデモ隊に占拠されているではないか。競技場の入口にある駐車場はテントの花が咲いている。1ヶ月半ものテント暮らし。ホームから見えたサッカー用の芝生のグラウンドだけが緑一色。さすがにテントは無い。
 教科書会社はものすごく古い建物であったから、もう無いかもしれないと危惧しながら行ってみると、嬉しいことにまだ有った。欲しい教科書もたくさん見つかった。残念なのは、欲しいだけ買えなかったこと。本はとにかく重くて、日本まで持ち帰るのが厄介。だが、持てるであろう重さのぎりぎりまでを想定しながら購入した。

バンコク散策(11)

 スカイウォークから下を見ると、いろいろな光景が見えた。まるで後方支援するかのごとく、屋台が活気づいている。食べ物や飲料水はもちろんのこと、Tシャツやデモ用グッズもいたるところで売られている。一時休戦とばかり座り込む人々。マッサージをする人々。長期戦に備えて、体力づくりにも励んでいる。
 タイ警察庁の隣りは警察病院である。エラワンの神様とラジャダムリ通りをはさんで反対側にあるが、おそらく臨時に建てられたと思われる屋根の付いたかなり広い場所で、看護師達が忙しそうに動いていた。気分が悪くなった人達の看護にあたっているようであった。少々、大げさそうに言うならば、野戦病院のミニ版という雰囲気だ。たとえ警察病院とはいえ、デモの人々はタイ国民である。したがって、敵対するはずがない。そこにだけ小さなひとときの平和がかいまみられた。
 いずれにせよ、タイ警察庁の正門前で行われた反政府演説は、タイ語と英語で繰り返しなされた。流暢な英語であった。報道機関がたくさん来て取材していたので、その中には当然、外国メディアも入っている。英語での演説は、明らかに国際向けを意図したものと思われる。
 スカイウォークで行ったり来たりしたが、黒い服を来た人ばかりとすれ違う。幸い、私も黒っぽい服を着ていたので、彼らの中に溶け込むことができた。彼らはものすごく顔が引き締まっていた。着ているものも質がよかった。体格もよかった。「本当に、心から現政府に反対しているんだ。本気だ。もう許せない」という声が、彼らの表情から聞こえてくるようであった。

バンコク散策(10)

2月26日(第3日目)、午前中にスクムビット通りにあるソフィテル・ホテルから、サイアムスクウェアのノボテル・ホテルに移動することになっていた。迎えに来る人から、「道路封鎖をしているので、タクシーで行ってください」という電話が入った。だが、ホテルの前で待っているタクシーからも乗車拒否をされた。
 そこで、スーツケースとバッグを持って、BTSに乗る。幸い、日本から持って行った日本食のお土産はすでに元生徒達に渡していたので、荷物はそんなに重くない。サヤーム駅で降りて、ノボテル・ホテルへ行く。チェック・インの時間までにはまだ間があった。荷物を預けることにしたが、その時、ホテルの近くからものすごい大きな声のアジ演説が聞こえてきた。
 さっそく、その反政府派のデモを見に入った。アンリ・ドュナン通りに面するタイ警察庁の門前で、大判のタイ国旗が反政府者によって何本も揺らされていた。マイクを使ってがなり立てているから、何を言っているのか全部はわからない。
 反対声明は、ラーマ1世通りからも聞こえてきた。そこで、サヤームからチットロムをつなぐスカイウォークを歩きながらデモの様子を見ることにした。すれ違う人達はほとんどが黒色のTシャツを着ていた。そして、警察庁の正門の前で、やはり大々的に抗議演説が行われていた。
 周辺は黒一色であった。その理由は、3日前に無差別爆弾で命を落とした子供2名を弔うための抗議であったからだ。
 「警察の皆さん、今日だけは警察官であることを忘れ、我々の側に立って、一緒に反対運動に参加してください」という内容をリーダーが言っていた。
 デモが終わり、彼らが食事に行っていなくなった隙に、私はタイ警察庁の正門の門扉に落書きされている文言を手帳に書き写した。非常に汚い言葉だ。その品の無さに呆れ果てた。

バンコク散策(9)

「ゲートウェイはエカマイ駅から通じています。鳥居がありますから、そこで6時に待っていてください」と、一休さんに言われていたので、その通りにした。小さな鳥居を想像していたが、意外にも大きかった。「北海道」という店に入り、鍋を注文。テーブルの上で魚や野菜を入れながら食べるのかと思ったら、厨房ですでに作ってきた鍋が提供された。出しが黄色いので、一体、何であろうかと思ったが、それはバターを溶かしこんでいるからであった。
 近くの席で、日本人男性とタイ女性がにぎり鮨を食べていたが、全く違和感がなかった。40数年前のバンコクには、「大黒」と「赤門」という日本料理店しかなかった。それが今はめちゃくちゃに増えている。私の友人で1968年頃、タイで仕事をしていた話が思い出された。
 「僕が病気になった時、タイ人の彼女が大黒に行って日本料理を買おうとしたら、門前払いに遭ったことがあるんだ」
 ところで、一休さんとの会食は実に楽しかった。昨年12月に帰京された折り、泰日文化倶楽部に寄ってくださったので、バンコク生活の様子はすでに分かっていたが、現地で聞くお話は臨場感が有ってよかった。すっかりタイ人社会に溶け込んでおられるので、全く問題が無い(ไม่มีปัญหาอะไรเลย)。
 帰り、エカマイ駅からBTSに乗って、アソーク駅で降りる。9時半であったが、反政府グループのアジ演説が聞こえた。そこで、道路封鎖されているアソーク交差点周辺を歩く。ステージ上で演説していたのは中年女性。スクリーンに大きく映し出されたその女性の顔は、理知的で、エリート風であった。勝手な想像をするならば、女医さんかもしれない。聞くところによると、アソーク周辺にある医院の医者達の多くはデモに参加しているそうだ。