梅ジャム

先日、庭の梅で造ったという梅ジャムを義姉からもらった。かなり甘いが、それでも梅の酸っぱさが「吾輩は梅である」ということをしっかりと主張しており、梅雨の季節にはもってこいのジャムである。
 梅干しを食べるとしゃきっとする。疲労がすぐに解消されていく。何故、こんな話をするかといえば、昨日、会ったタイ女性(50歳)が、「なんとなくやる気が出ない」と言って、浮かぬ顔をしていたからである。能力抜群で、仕事もばりばりこなしているというのに……。「更年期(วัยทอง)かも?」と、その場にいた日本人達が言った。
 私はひとつの質問を投げかけた。「30年近く日本に住んでいて、日本人の中に溶け込んだ暮らしをしていても、外国人としての緊張感は有るはず。そうじゃありませんか?」
 彼女は「有ります」と言って、否定はしなかった。買物が好きな彼女だから、「買物をすれば?」と単純に勧めてみた。だが、買物をすれば、お金が飛んで行くから、あとにまた反省という疲労感が襲ってくる。安価に憂さを晴らすには素敵な食事が一番。出かけるのが面倒な場合は、梅ジャムで目をぱっちりと開け、身体をすきっとさせよう!

ジョージ・オーウェルの父

『パリの異邦人』(鹿島茂著 中公文庫 2011年)をパラパラめくると、英国作家であるジョージ・オーウェル(1903-50)が書いた『パリ・ロンドン放浪記』(1933年)の作品を題材にして、オーウェルの自分探しの旅が書かれてあった。
 「そう、ジョージ・オーウェルは、自分探しの旅を始める現代の若者と同じように、いままでの自分は本当の自分ではないと思い込み、年俸660万ポンドに及ぶビルマの警察官の職を投げうち、<志願して>、ロンドンとパリでの貧乏暮らしに飛び込んだのである。この決意に対して、父親のブレア氏は、日本の父親が高級官僚をやめてボランティアを始めたいと言い出した息子に対してするように、ただ肩をすくめて見せるほかなかった。<中略> 彼の計画は<道楽者(ディレッタント)のそれだと吐き捨てたそうである」
 明日は、「父の日」。有名人達が父親についての感慨を述べた文章がネットで紹介されているが、我々素人も、父親を回想して、何か記述してみてはどうだろう。

「出来る限り」というタイ語

一昨日、「タイ語中級 水曜日13:00」のクラスに用事が有ったので、授業が終わる5分前に行ってみると、生徒達がなんだか悩んだ顔をしている。理由は、『タイ語中級Ⅱ』に出て来た表現について、理解がいかないというのである。
 その表現とは、「เท่าที่จะทำได้ 出来得る限り」というタイ語である。英語で言えば、「as much as possible」だ。私としては、そのまま覚えてくださればいいのにと思ったが、生徒達はタイ人講師に向かって、しつこく質問をしている。「いったい、どの程度のことを言うのですか?」、と。
タイ人講師は日本人の性格にすでに慣れて来ているので、「80%だと思えばいいでしょう」、と答えて、その場をおさめた。
 そのやりとりを見ながら、日本語もタイ語も、そして、その他の外国語も、話す人の感覚、財力、知力、等々、に於いて、基準が全く異なるから、玉虫色であるなあと思った。
 「出来得る限り」と言っても、本心から100%助けたいと思っている人もいれば、口先だけの約束で終わる場合もある。その心は、「善処する」という表現と類似している。

うっかりミスの効用

昨日、編物教室へ行ったが、うっかりして、現在編んでいるカーディガンの製図とは異なる過去の作品の製図を持って行ってしまった。クリアファイルに入れているので、大丈夫だと思っていたが、出かける前の最後の点検を怠ったために、稽古が進まなかった。
 そこで、編物の雑誌を10冊ばかりパラパラとめくり、今年の秋冬のトレンドを探る。いずれの作品も毛糸の色がきれいで、とてもすばらしい。自分でも編めるような気がするが、そうはいかない。
 だが、ふと考えた。雑誌のモデルはすべて欧米人(ฝรั่ง)。欧米人の若い娘達や子供達はモデル姿がよく似合っている。最近は、日本人モデルも多くなった。それは認めるが、ファッション雑誌を飾るのはやはり欧米人のほうが突き抜けた表情を示してすばらしい。
 ファイルを間違えるという失敗のおかげで、ファッション雑誌を楽しむことができ、気分転換という効用を得た。

古希( 古稀)

今日、知人が古稀を迎えた。御祝いをするつもりである。
 よくよく考えると、私の周辺には70歳前後の人ばかり。皆さん、70年間、よくぞ生き抜いて来られた。すばらしい!
 古稀という漢字は、最近では古希と書くらしい。なぜならば、「稀」という漢字が常用漢字に入っていないからだそうだ。「古来、稀れなり」から来ているのに、常用漢字に入っていないという理由で、「希」に変えてしまうのは解せない。世の中の漢字を簡素化し、音だけで当てはめていくのはいかがなものか。
 とまれ、ひるがえって考えるならば、「希」は「希望」に通じる。人生百年というコマーシャルが毎日流されているが、あと30年を生きるのは、身体的、経済的、そして、頭脳的に考えて、かなり厳しい。
 これまで生きて来た道を、小さな希望を持って、お遍路さんの如くひたすら歩くしかない。目標は88歳(米寿)!

虫垂炎

昨晩、生徒さんから虫垂炎になり、緊急入院したというラインが入って来た。手術は必要なく、抗生剤でなんとかおさまる軽症だとはいえ、痛みはつらいはず。早期回復を祈るしかない。
 虫垂炎は、タイ語で、ไส้ติ่ง(サイティング)。ไส้(サイ=腸)+ ติ่ง=(ティング=本体から突起しているもの)から成り立っている。正式に言うと、ไส้ติ่งอักเสบ(サイティング・アクセープ)。アクセープは炎症状態を表わす。
 先週の土曜日、指輪先生がサングラスをかけて来られた。おしゃれのためかと思ったが、違っていた。ものもらい(ตาอักเสบ ター・アクセープ = 目+炎症)ができたといって、赤くなった目を見せてくれた。
 6月は体調をととのえるには難しい月である。仕事も大切だが、いろいろな病気にかからないように、休養も肝心だ。

さくらんぼ到来

昨日、さくらんぼを食べに大連へ帰って行った中国語講師のことをブログで書いた。うらやましいなあという気持ちがいっぱい有って書いた。
 ところがである。その3時間後に、私の部屋のチャイムが鳴り、さくらんぼがやって来た。福島県からだった。不思議や不思議。タイミングが良すぎる。
 去年6月末、青森県八戸市へ行った時もたくさんさくらんぼを食べた。さくらんぼと言えば、山形県が有名だが、どうやら、山形県だけではなさそうだ。
 そこで、大連の経度を調べてみた。すると、仙台と同じだということが判明。サンフランシスコとも同じだそうだ。
 語学の勉強はさておき、地理の勉強もなかなかに楽しい。地理がわかると、それに関する単語も知りたくなる。外国語の勉強は個人の工夫次第で大いに面白くなる。

新しい中国人講師

去年9月から開講した中国語クラスは生徒3名で、のんびりと勉強している。担当の講師が「大連に戻って、櫻桃(さくらんぼ)を山ほど食べて来たい」と言って、急に大連へ帰ってしまわれたのでびっくり。しかし、彼女が帰京するまで、代講の講師を用意してくださっていたので一安心。
 新しい講師は浙江省寧波の出身であった。そこで、浙江省の観光地やご家族の話をしていただいた。見るからに裕福な家庭に育ったお嬢様という感じ。
 ずっと同じ先生に習うのもいいが、新しい先生に新しい風を吹き込んでいただくのも、なかなかに興味深い。
 タイ語の勉強も然り。いろいろなタイ人に会うこともタイ語の勉強の一手法である。

รา(黴)というタイ語

6月は湿気が多いため、特に黴(カビ)が生えやすい。「黴が生える」という表現は、タイ語では「ขึ้นรา クン・ラー」という。風通しを良くして、カビ対策を徹底させないといけない。
 ところで、タイ語には同音異義語が多いので、この「รา ラー」という単語の別の意味を調べてみることにした。すると、『タイ日辞典』(冨田竹次郎著)には、動詞として、次なる意味が書かれてあった。 
 ①阻む、抵抗する、②次第にやめて行く、③ゆるめる、少なくする。例)ราน้ำ 舟から手や足を出して水中に入れ、舟の進むスピードをおくらせる。ราไฟ (炭や薪を減らして)弱火にする。รามือ 手を弱める、手加減する、手をひく。
 タイ語は簡単そうな発音(単音節語)でも、なかなか微妙なニュアンスを表わす単語が多い。暇な時間が有れば、辞書を読む作業もまた楽しかりけり。

高齢者福祉を研究するタイ女性

一昨日、知り合ったタイ女性は、高齢者福祉に関する博士論文を書くそうだが、タイの現状についてはもうほとんど書き上げているとのこと。最後に、日本に於ける高齢者福祉のことを併記するため、4月から4ヶ月の期間、データの収集に来ていることがわかった。
 彼女はタイの高齢女性が一人で暮らしている写真を私に見せた。しかし、老女の周囲には若い女性がいっぱい。さすがはタイ。というか、アジアだ。それに引きかえ、日本では、他人を拒み孤独死をする老人が多い。
 老人ホームや千葉市の区役所で入手したデータは、タイでは今すぐには役に立ちそうもない。だが、タイもいずれは日本と同じ高齢者問題を抱えるに違いないから、研究者は先見性をもって、諸問題を惹起する必要がある。
 幼い時に母親を亡くした彼女(41歳)は、一人暮らしをしている父親(71歳)に、毎晩、電話をしているという。そして、父親に雑貨屋を開いてあげているそうだ。儲けるためではなくて、お金を計算することで、ボケ防止をはかっているとのこと。これぞまさしく高齢者対策だ。彼女はパワフルな実践家である。