ザ・ピーナッツと永六輔さん

昨日、珍しく家で昼食を作っていたら、正午のニュースの画面が急に昔の映像に切り替わった。そして、ザ・ピーナッツの歌が流れた。妹さんのほうが5月に亡くなられたことが報じられた。お姉さんのほうは4年前に亡くなられたので、これでザ・ピーナッツとは本当にさよならとなってしまった。昭和30年代の思い出の曲、そして、彼女達のファッションがもう一度、頭をよぎった。
 そして、その後、山手線に乗ると、電車の扉のニュースに永六輔さんの訃報が報じられた。急に体が冷えた。テレビ局ですれ違った永さんは体が大きかった。彼の心から発声される声と語りと熱意がいつまでも印象に残っている。

昨日の顔・今日の顔

今回の参議院選挙では、デパート(ห้างสรรพสินค้า)でも期日前投票所を設けていると聞いたので、土曜日の19時過ぎに投票を済ませた。そして、暮れなずむ池袋の街を歩いていると、「最後のお願い」の選挙カーが通過した。ウグイス嬢は、「○○が直々にお願いに上がっております!」とアナウンスした。そこで、私は候補者を見た。
 その候補者はいろいろな問題を仕出かした方だったので、テレビでよく見た顔だ。以前はものすごく太っていたが、ダイエットの結果、細身になっていた。はたして当選するか否か? 彼の表情には切羽詰まった哀れさが滲んでいた。
 さて、一日後、結果はどうなったか。彼は当選した。テレビでインタビューを受ける彼はとてもいい顔をしていた。そして、布袋さんのようにふっくらと見えた。
 一日違いで、こうも顔の表情が変わるとは! 政治家(นักการเมือง)は大変だなあ…..。

文字よりも絵

数日前、タイ人のお母さんが連れて来た6歳の女の子と会った。私はすかさずタイ語で話しかけると、お母さんが言った。「この子、タイ語、話せません」
 そう言われて、日本で暮らしていて、タイ語を聞いたり、話したりする環境にいないから話せないのがわかった。
 女の子は幼稚園の年長さん。彼女が退屈を始めたので、名前を書かせると、ひらがなで書いた。最初は間違ったけれど、間違いを教えてあげたら、2度目はきちんと書き上げた。
 さあ、次は何をしてあそぼうか。やはりお絵かきがいいと思った。白紙を渡すと、家族が車に乗っている絵を描いた。次に、家族が横断歩道を渡っている絵をすらすらと描いた。もっと紙をちょうだいと要求してきたので、数枚、渡すと、飛行機の機内の様子を描いた。母親に連れられてチェンマイへ行った時の様子が強烈に残っているらしい。そして、最後は、マンションの窓をたくさん描き、人々もつけ加えた。
 絵はとても上手であった。6歳の子どもは、文字よりも絵のほうが楽しいことがよくわかった。

不思議なつながり

私が今のマンションに引っ越して来た時、さぬき印刷という会社の名前をメールボックスで見かけた。住居なのに、何故、会社が入っているの? そして、何故、さぬき? 香川県に関係するの? 不思議で不思議で仕方がなかった。だが、この会社は4年前に引っ越して行った。
 今度、郷里に帰った時に、恩師が見せて下さったビデオの最後に、「協賛 さぬき印刷」というクレジットを見たので、その理由を恩師に尋ねると、社長が恩師の教え子であった。しかも、私と同じ中学であった。
 恩師は恩師で、私とさぬき印刷が、東京の中で同じところに住んでいたことにびっくり。隣りのマンションではない。なんと同じマンションだ。恩師はさっそく社長に電話を入れた。そして、私も社長と話した。不思議なつながりについて、3人で再度、驚いた。

私の母校の小学校

二次会は恩師の家で行われることになっていたので、参会者14名全員が宴会場から車で移動した。恩師の家は私が卒業した小学校の近くに在る。恩師から次なる話を聞いた。
 「ずっと丸亀市教育委員長をやっていたけん、学校の建替えに際しては、いろいろと意見を求められたんや。少子化傾向が強いため、将来、廃校になった時のことを想定して、高齢者が集まるための多目的ホールとして設計されてるんやで」
 恩師はさらに続けた。「小学校は、現在、日本人の子供よりも外国人の子供の数のほうが多くなってる。保護者会の時、日本語がわからない親の通訳は、子供がしとるんや。ほんじゃけん、子供は自分の都合の悪いことは通訳せんのや。このすぐ近くにあるマンションも、全員が外国人や」
 それを聞いて、私は驚いた。外国人が嫌いだからという理由ではなくて、城下町である丸亀市にも、外国人居住者の波が押し寄せていることに時代の移り変わりを覚えたからだ。おそらく市内にある造船所で働いているのであろう。

古稀の同窓会

古稀の同窓会には、男性4名、女性10名が出席した。昭和37年(1962年)の卒業以来、54年ぶりに会う男性が2名いた。恩師が「吉川は東京でタイ語の仕事をしている」と、皆に話すと、一人の男性が、すかさず言った。「サワッディー・クラップ」
 発音が良かったので、「どうしてタイ語がわかるの?」と尋ねると、「私が勤務している会社がタイに工場を持っていますから」、とのこと。「どこの会社?」とさらに訊くと、大手の繊維会社であった。
 近況報告を聞く限り、皆それぞれ、何かしら社会のお役に立っており、いい歳の取り方をしていた。それを見た恩師(84歳)が、「皆が元気でいることを見届けるまで、私も元気でいなければならない。宇宙に行くのはまだまだ」とおっしゃったものだから、皆、爆笑。次回は恩師の米寿の祝いで再会することになった。

中津万象園

古稀の同窓会は、7月3日、丸亀市の中津万象園で行われた。前回(5年前)の恩師の傘寿を祝う会も、ここで行われた。
 ホテルからタクシーに乗って3分位で赤信号。止まっている間にふと交差点の近くにある看板を見ると、「タイ古式マッサージ店」の字が目に飛び込んで来た。あれあれと思ったが、タイ人が経営している可能性が大きい。
 中津は昔、海水浴場であった。今は、松林の中に美術館が有る。赤い太鼓橋を白装束のお遍路さんが大勢、渡っている。車椅子のお遍路さんも見かけた。
 「万象園」の命名に、ふと因縁を覚えた。ラオスの旧王国の名前であるラーンサーン王国(1354年ー1709年)は、漢字にすれば、「ラーン=万」+「サーン=象」=「万象」となるからだ。
 そして、遠く金比羅山のほうを見れば、その手前に、象の頭の形から命名された「象頭山(ぞうず山)」が堂々と横たわっている。タイやラオスへ行かずして、讃岐国も、昔から象づくしであった。

真夏の郷里

私は現役人間。同窓会で回顧趣味にふけるのはあまり好きではない。しかし、古稀の記念同窓会だから、けじめとして郷里に帰省した。
 7月2日7時10分、東京発の「のぞみ9号」に乗り、座席番号9号に座る。タイのラッキーナンバーである「9」にこだわったわけだ。岡山に10時25分到着。瀬戸大橋線がポイント故障で止まっていた。猛暑でポイントがばてたのかもしれない。
 ホテルにチェックイン後、行きつけの喫茶店で休む。おしゃれなマダムがいない。従業員にたずねると、「昨秋、交通事故で落亡くなられたんですよ」とのこと。いやもうびっくり。享年78歳。61年続く喫茶店は娘さん達が後を引き継いだようだ。
 郷里はいつ帰っても人が歩いていない。店の営業を終えて、普通に自宅に向かっていたマダムが車にはねられた。なんと残念至極なことか。

90年続いた履物店

2016年の後半が無事に過ごせることを願って、昨日、巣鴨のとげぬき地蔵にお参りした。おばあちゃんの原宿ストリートを歩いていると、閉店セールをやっている履物店が有った。店主の女性に「本当に閉店ですか? マンションでも建てるのですか?」と尋ねると、彼女はこう答えた。
 「父の代からやっていますが、もう私も年ですから…..。90年でおしまいです。主人92歳、私は88歳」
 とても美しい女性であった。長く続けて来た商売に未練はなさそうにみえた。
 ワニ革の草履が目に止まった。遠い昔、ワニ革がタイから輸入されて草履になったのであろう。
 草履のほうから、「私を連れて行ってください」という声が聞こえた。だから、私は草履を買った。
 (お知らせ:今日から郷里に帰省しますので、ブログは5日までお休みします)