2020年の授業総括

今日(12月22日)が来ることを待ちに待っていた。何故ならば、明日から3週間弱、授業を持続していかなければならないという責任感からしばし解放されるからである。2021年の授業は1月9日(土曜日)からスタートする。
 今年は1月中旬よりコロナのニュースに踊らされ、非日常に近い空気感におとしいれられて行った。だが、4月と5月に於ける東京都の休業要請の期間を除き、なんとか頑張って授業を続けることができた。これはひとえに講師達と生徒達の頑張りによるものである。
 高齢者が減った。だが、それを補うかの如く若い人達が増えた。教室の空気が変わった。タイ語を勉強したいという若者を見ると、彼らからの熱意と刺激が跳ね返って来る。何ごとにも言えよう。勢いには「時」が関係している、と。
 若いだけが良いのではない。年をとったらもう駄目、というのでもない。自分自身に与えられた「時間」をいかに生かすかが大切だ。講師達は誠実に指導した。生徒達も自分なりによく頑張った。今年の総括は99点なり!

『もの食う人びと』

『もの食う人びと』(辺見庸 角川文庫 1997)の冒頭部分である「旅立つ前に」の最初の文章を引用させていただく。
 「人びとはいま、どこで、なにを、どんな顔をして食っているのか。あるいは、どれほど食えないのか。ひもじさをどうしのぎ、耐えているのであろうか。日々ものを食べるという当たり前を、果たして人はどう意識しているのか、いないのか。食べる営みをめぐり、世界にどんな変化が兆しているのか。うちつづく地域紛争は、食べるという行為をどう押しつぶしているか….それらに触れるために、私はこれから長旅に出ようと思う。」
 巻末に、執筆当時の期間は1992年末から1994年3月であったと書かれてある。ということは、まだインターネットが流行る以前の時代だ。作者はジャーナリストだから、単なる料理の話を書いたわけではない。
 2020年、コロナで、世界中の人達があえいでいる。「食べる」ということは、まず、「口探し」から始めないといけない。働いて収入を得、スーパーで買い物をし、料理を作って、家族で食べる。この繰り返しが、この先、果たして確実にできるのか否か?

今日の作文

「問(とい)」という漢字には「口」が入っている。そして、「答(こたえ)」にも同じく「口」が入っている。
 今年、我々はコロナによりマスク生活を強いられているが、来年もまたマスク、マスク、の毎日であろう。よくよく考えれば、食べるという行為以外に於いて、果たして我々は「口」という器官を思いっきり使ったであろうか? 「問」や「答」の漢字から考えるに、「口」は食べる以外に、自分の考えや意見を発する器官でなければならない。
 いささか、理屈っぽいことを言ったが、では、以下の日本語をタイ語に訳してみよう。

(1)問:会社人間とは何か?答:(自分の考えを述べよ)

(2)問:結婚生活とは何か?答:(自分の考えを述べよ)

(3)問:人間関係とは何か?答:(自分の考えを述べよ)

(4)問:語学を学ぶ利点は何か? 答:(自分の考えを述べよ)

日本語の清音・濁音

 昨日、生徒さんの翻訳を添削していると、「通りかかる」という動詞が出てきた。私はふと、「通りがかる」ではないかと思い、ネットで調べてみた。ネットではNHKが採用している「日本語発音アクセント辞典」から、次のように説明していた。
 動詞は、「通りかかる」と発音し、名詞では、「通りががり」と濁音になる。
 他にも例が上がっていた。「帰りかける」vs 「帰りがけ」、「着替える(キカエル/ キカ゜エル」vs 「着替え(キガエ)。
 興味深く思ったのは、「着替える」の読み方で、「キカ゜エル」と書いてある部分だ。「カ」の右上に小さな〇をつけて、「カ゜」と表記しているが、こんな発音表記を見たことがない。これって、タイ語で言うところの「無気音」だ。
 翻っておも我々日本人も「濁音」の一歩手前の「無気音」を発音している。それは方言によく見られる。悪い言い方をすれば、なまっているとも言われるが、「清音」ばかりを発音していると、音がカチカチになって、発声上、疲れてくる。「濁音」や「無気音」も必須の音なのである。
 

シンガポール便り

シンガポールの歯科医院に勤務しているY子さん(元生徒)から、このところ、「仕事がくたくた」というラインがよく届く。その理由はこうである。
 「日本で夫婦別姓が議論されていますが、クリニックの客はいろんな民族や国籍で、夫婦も親子も別姓が当たり前。名前が5つや6つの単語で構成されており、どれが姓やら、そして順番もめちゃくちゃ。そういう人達が家族3~5人で、同時に2~3人の歯科医師を予約して、連れ立って歯のクリーニングに来ます。発音不可能な子音の羅列とかもいっぱい。みんな、名前が長すぎ。こういう人達を次々とさばいていると頭が疲れます」
 外国人の名前は難しい。だが、外国人にとっても、同じく日本人の名前は難しいはず。いずれにせよ、人の名前は正しく発音できないことが多い。カタカナに書いた場合も、書く人によって統一が見られない。

今日の翻訳

今朝(5時)の東京の温度は零下2.6度。とても寒いが、気合いを入れて勉強しよう。
 以下の2つの段落を翻訳しなさい。その際、タイ語の構文をそのまま直訳するのではなくて、訳文を3回くらい練り直し、こなれた日本語にしてくみてださい。(出処=タイ国小学校国語教科書5年生)

ผู้ใหญ่จะต้องมีหน้าที่แนะนำ สั่งสอน ช่วยเหลือเกื้อกูล และมีความเมตตาต่อเด็ก พร้อมที่จะให้อภัยเมื่อเด็กทำผิด ดังพระราชดำรัสในพระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัวที่ได้พระราชทานได้ว่า

“ผู้ที่เกิดมา ผ่านชีวิตมาก่อน จะต้องสงเคราะห์ผู้เกิดตามมาภายหลัง ด้วยการถ่ายทอดความรู้ ความดี และประสบการณ์อันมีค่าทั้งปวงให้ด้วยความเมตตา เอ็นดูและด้วยความบริสุทธิ์ใจ ให้เด็กได้ทราบได้เข้าใจ และที่สำคัญที่สุดให้รู้จักคิดด้วยเหตุผลที่ถูกต้อง จนสามารถเห็นจริงด้วยตนเองได้ในความเจริญและความเสื่อมทั้งปวง

無事是貴人(ぶじこれきにん)

茶道教室では12月に入ると、「無事是貴人」の軸がかけられる。これを見ると、一年の反省をしなければという気になる。
 ネットで調べてみると、禅語でいうところの「無事」とは、「平穏無事の無事ではなく、何事も無いということでもありません」と書いてある。また、「貴人」とは、「貴族の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち悟りを指しているのです」とある。
 すなわち、禅宗で目指すところの悟りは、「心の平安」、「安心」と解釈されるとのこと。
 他の解説によると、「為すべきことが最早無い者こそ、貴い人であるということ」と書いてあった。
 とかく禅語は難しい。短い漢字表現をにらみつつ、いかようにも解釈ができそうだ。
 さて、この「無事是貴人」をタイ人にタイ語で説明するならば、どのように言えばいいのであろうか?

全米女子オープンゴルフ

渋野日向子選手を応援したが、残念ながら4位に終わった。第一日目と最終日の天候の違いに驚いた。摂氏6度でゴルフをするのはつらい。身体が動かないからだ。そういえば、3日目も悪天候により試合が中止された。ゴルフはつくづく自然との闘いだ。
 興味深かったことは、最終日の最終組で、渋野選手がタイ人と一緒にプレイしたことだ。他にアメリカ人選手がいたが、私は渋野とタイ人を応援した。そのタイ人の名はモリヤ・ジュタヌガーン。彼女は妹のアリヤ(米国ツアーで優勝経験有り)と同じ組で第3日目を回った。タイ人パワーに乾杯!
 そのほかに、アメリカへ移住したラオス人を両親(モン族)に持つメーガン選手が第5位になったことも素晴らしい。
 優勝者は韓国女性。第2位も韓国女性。彼女達の勝負魂は抜群。いずれにせよ、アジアの女性がアメリカのゴルフ場を席捲している。来年も楽しみだ。

今日の作文

次の文章をタイ語に訳し、更に自分の考えをタイ語で書きなさい。ただし、同じ答え方は避けること。

(1)① 医者になるための条件は何ですか?
 ②

(2)① 弁護士になるための条件は何ですか?
 ②

(3)① 建築家になるための条件は何ですか?
 ②

(4)① 漫画家になるための条件は何ですか?
 ② 

(5)① 役者になるための条件は何ですか?
 ②

(6)① 実業家になるための条件は何ですか?
 ②

ライン電話で英会話

昨日、「英会話 土曜日14:30」のクラスを実施している時、アメリカ在住の姪から美しく飾られたクリスマスツリーの写真がラインで送信されて来た。そこで、彼女の都合を尋ねた上でOKをもらったので、ライン電話をした。
 理由は二人の生徒さんに英会話の実践をさせたかったからである。顔も知らない人と電話で話すのは躊躇するはずである。しかし、私の姪ということで、生徒達にも安堵感が有ったらしく、意外や意外、結構、会話がはずんだ。
 内容は、まさしく初心者レベルのもので、年齢、職業、そして旅行の話であったが、ハワイやラスベガスの話まで出て、姪も快く喋ってくれた。
 生徒の一人が、「僕の名前はしんちゃんです」と最初に言った時、姪が「あら、私の親戚にもしんちゃんがいます」とすかさず呼応した。こういう偶然の一致こそが、会話に妙味を添える。
 ライン電話は15分で切り上げた。しかし、その後、とてもいい雰囲気が流れた。本場の発音をするアメリカ人(姪)と話して、我れらがしんちゃんはとてもいい表情になった。とかく日本人は謙遜ばかりしがちだ。だが、英語を喋る時、謙遜は不要。どんどん喋ればいい。そして、自分に自信をつけていくことだ。