舞台衣装のデザイナー

2007年1月から開始した「アジア女性のための華道教室」は、10年を区切りとして、昨年1月をもって終了した。しかし、華道講師のご希望を聞き入れて、講師の自主クラスに切り替え、現在も存続している。
 この教室に最初から参加している生徒にS君がいる。彼は横須賀で教えておられる華道講師の元々の生徒であるが、仕事の関係で東京に住んでおり、横須賀教室には通いにくくなったということで、いつも高田馬場の泰日文化倶楽部に来て稽古をつけてもらっている。
 S君の仕事は舞台衣装のデザイナーである。ジャニーズや氷川きよしの衣装を手がけている。したがって、紅白歌合戦の時には、華道講師も私も歌半分で、むしろ衣装のデザインに注意がいってしまう。
 S君はいつも言っている。「中学生から習い始めた華道のセンスがデザインや色彩の取り合わせに非常に役に立っています」、と。彼はそろそろ40歳。彼のすばらしさは華道の勉強をやめなかったこと。そして、磨いたセンスを自分のデザインに活かしていることだ。

娯楽小説

先日、芥川賞の発表が有り、「老い」をテーマにした主婦(63歳)が受賞者の一人として見事、栄冠を射止めた様子がテレビニュースで流れた。岩手の方言を使った小説だそうだから、東北の言葉に弱い者には読みにくいかも……?
 文学賞を狙って小説を書き、応募する素人さんは非常に多いらしい。某出版社の某新人賞の条件を調べてみると、「エンターテインメント小説 ジャンル不問、日本語、自作、未発表、200~500ページ 40字×30行、A4、縦書き、締切3月31日」と書いてあった。肝腎の賞金は200万円+記念品。なら、狙う人達がわんさかいるであろう。
 だが、この「エンターテインメント小説」とはどのようなものであるか? 調べてみると、「エンタテイメント」とも、「エンタメ」とも書いてあった。要は「娯楽小説」であり、「大衆小説」ともいうらしい。アクション、コメディー、官能、サスペンス、感動的な話、等々、なんでもござれだ。驚き、お笑い、泣ける、恐怖、等の要素が入っていればいい。だが、そうそう書けるはずもない。作家を目指して頑張っている方達に脱帽。

ボイストラ(VoiceTra)

「タイ語中級 月曜日18:00」のクラスで、生徒達に「ガムをかむ」というタイ語を言わせようとすると、一人の生徒がスマホに向かって「ガムをかむ」と言った。すると、女性の声で、「เคี้ยวหมากฝรั่ง khiaw maak-farang」というタイ語が聞こえてきた。しかし、[farang]の声調が変であった。
 「タイ語初級 水曜日19:30」のクラスでも同じことをやってみて、タイ語の声調が変であることを指摘すると、「それは人工音声であるからです」と生徒さんから教えてもらった。
 このアプリは東京オリンピックのために国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)が開発した「ボイストラ VoiceTra」というアプリだそうだ。「結婚する」という単語を音声入力したが、やはりタイ語の声調は変であった。
 すべてを否定するつもりはないが、タイ語に限って言えば、声調に問題がある。したがって、そのようなアプリに頼るのは臨時の場合にだけにして、やはりこつこつと真面目に勉強し、正しい発音を磨くこと、それがタイ語への王道だ。

「個人差があります」という広告

「2週間でしわがとれます」という広告を見て、ものすごく高い化粧品を買ったが全く効果は得られなかったという話を友人から聞かされた。それを聞いて、テレビコマーシャルの画面の片隅に「個人差があります」という表示がすかさず私の頭に浮かんだ。
 高い化粧品を否定する気持ちはさらさらない。高いものをつけると気分が高揚して、それだけでもいい表情がつくれる。だが、しわ取りとなると、自分の意志でしわを消すことができないので、いかんともしがたい。
 語学の教材についても同様のことが言えよう。短期間のうちにペラペラしゃべることができるようなキャッチコピーが多いが、その際、しゃべる内容のレベルは問われていない。自分の意見を明確に相手に伝えたり、書類を訳したりするには、かなりの語学力が必要だということまでは言わない。
 いずれにせよ、出来る人もいれば出来ない人もいる。それは事実だから、「個人差があります」という文句はつくづく便利な逃げ口上だと思う。

バンコクのミカン先生

昨晩、シン先生の代講として、「タイ語中級 火曜日19:00」のクラスを教えた。10月から3ヶ月間、組紐の上級資格を取るために休学しておられたY子さんが、念願叶って資格を取得され、予定通り復学されて来られたことは何よりも嬉しいことであった。
 授業をしていると、H子さんが「今日はミカン先生のお誕生日ですよ」と言ったので、さっそくラインの無料電話をかけてみた。ミカン先生は昨年9月に東京医科歯科大学で博士号を取得され、10月からはマヒドン大学で教鞭をとっておられる。
 電話をかけた理由は、生徒の皆さん達に直接タイ語で会話をしてもらいたかったからであるが、残念なことに電話には出てもらえなかった。だが日本時間の零時に返事のラインが来た。「アルバイトをしていたので電話に出ることができませんでした」、と。
 彼女は積極的に日本語を書くように意識している。そうすれば、バンコクにいても日本語を忘れることはない。我々日本人も短文でいいから、いつもタイ語の文章を書こう。

タイ人が使う英単語に慣れよう

今年に入ってから最初の授業で、生徒がTew先生(水曜日にご出講)に年末年始をどのように過ごしたかと質問した。すると、「タイ人仲間とカウダウしました」と答えた。カウダウは、「カウントダウン」のことだ。
 昨晩、「タイ語中級 月曜日18:00」のピカピカ先生は、「ハーディが壊れたから、正月はどこへも行かず、修復していました」と言った。ハーディとは、「ハードディスク」のことだ。
 日本語は末子音(~k、~t、~p)にすべて母音をつけないと発音できないようになっているので、hard が「hardo ハード」、diskが「disku ディスク」になってしまう。
 タイ人の英語に慣れるのには時間がかかる。そのためにはタイ人とタイ語で会話をする場面を増やすことである。我々日本人が和製英語をよくはさむように、タイ人もタイ・イングリッシュ(→タイグリッシュ)を多用するようになっているから、気がついたら手帳にメモしておくことだ。

四人の旅行

今年の5月に大学の寮時代の仲間と一緒に旅行をしようという話が持ち上がっている。一年上の先輩(K子さん)と、私と同学年のR子さん、そして、私の3人で出かけようというのが最初の計画であったが、その話を聞いたS子さんが自分も行きたいと言い出した。
 旅の企画はR子さんにまかせているが、R子さんから電話がかかってきた。「皆さん各自の都合を聞いていたら、なかなかまとまりません」
 先輩のK子さんは短歌の勉強が有るから、第一と第三の月曜日をはずしてほしいそうだ。S子さんは仕事が有るから終末がいいと言う。しかし週末は宿泊費が高い。結局、日曜日に一泊し、月曜日の朝、早く帰ることになった。
 今回の旅行は先輩のK子さんの旧姓である「五十嵐」という地区を訪ねるのが主たる目的である。他人のルーツではあるが、興味を持って参加してみよう。

授業は第2週目に入る

1月6日(土曜日)から始めた今年2018年の授業は、昨日から第2週目に入った。生徒達はおだやかな表情で教室に通って来られ、いつものように楽しく、時には、自分の記憶力の悪さを責めつつ、90分間を淡々と机に向かっておられる。その姿はいつ見てもほほえましい。
 これですべての生徒さんに会ったかと言うと、それは違う。「タイ語中級 月曜日18:00」の生徒達にはまだお目にかかっていない。何故ならば、先週の月曜日は「成人式」で祝日であったからだ。明日の月曜日が楽しみである。
 いつも同じことを書いているが、また繰り返して書こう。タイ語を勉強してタイへ旅行するということ、それはいろいろな意味で自分にプラスになる。語学を勉強することは頭の体操であり、新しい知識は刺激になる。そして、タイへ行けばストレス解消すること請け合いだ。
 今年もタイ語を楽しく学ぼう! いくら勉強しても卒業はない。次なる山が待っている。トレッキングでもいい。ぐるぐる同じコースを回って、再確認をすることは地固めになって、ひいては自信につながる。

歌会始のお題「語」

昨日、歌会始の様子をニュースで見た。今年のお題は「語」。それだけに大いに関心を持った。なかでも戦後最年少の12歳の少年(中学一年生)が当選したことが取り上げられていたが、素直に感じたままを歌に詠じたことがすばらしいと思った。彼はわずか3分でつくったそうである。
 初釜の時、茶道講師が竹の模様が入った水差しを用意された。そして、次のように言われた。「竹は『竹取物語』に通じます。さあ、皆さん、物語の世界にひたりましょう」
 なるほど、「語」と言う漢字は、単語一語でもあるが、幻想世界へと導いてくれる物語でもあるわけだ。
 昨日は10年ぶりに改訂された『広辞苑』の発売に関するニュースも報じられた。この10年間で一万語を追加し、現代的解釈もさらに列挙したとのこと。高齢者と若い人との間で意味のとらえ方が違う場合を、私も感じる年齢になった。

タイ語で「まだ駆け出しの」は何と言うか?

 昨晩、翻訳をしていると、「โดยสิ้นเชิง」という表現が出て来た。意味は、「すっかり、ことごとく」であるが、私は文脈から考えて、「完全に」と強く訳した。
 ここに使われている「สิ้น sin 下声」を辞書で引き、その他の表現にはどのようなものがあるかと『タイ日辞典』(冨田竹二郎先生編纂)を調べてみると、「ยังไม่สิ้นเขม่าไฟ」というところに目が止まった。意味は、「陶磁器のカマから出したてで、まだススも取れていない」、即ち「まだかけ出しの、まだ新米の、まだまだ経験不足の」と書かれてあった。
 このような比喩を使うということは、タイ人も陶器を愛する国民であることがよくわかる。タイ国、あるいは、それ以前のインドシナ半島には陶磁器の歴史がめんめんと流れているが、なかでも日本の茶人に愛された「宗胡録 すんころく」焼(注:スコータイ県のสวรรคโลก窯産出)は素朴でいい風合いを出している。