王宮前広場へ(7)

12月9日(バンコク2日目)は夜、御火葬殿へ行った。というのは、泰日文化倶楽部の元講師であるニタット先生が、「夜のほうがきれいですから」と言うお誘いに従うことにしたからである。
 午後4時、ニタット御夫妻(いずれも弁護士)がホテルに迎えに来てくださった。彼らは「アイスクリームを食べましょう」と言って、王宮近く(プレンプートーン แพร่งภูธร)にある「ナッタポーン นัฐพรล」というアイスクリーム店に私を案内。その界隈はラーマ5世時代の名残りをとどめていた。
 ニタット先生が女店主に「この先生は『王朝四代記』を翻訳した方です」と言って、私を紹介した。すると、女店主が急に饒舌になった。祖母の時代から正式に開店して約70年。彼女が引き継いでから30年。それを聞いて、泰日文化倶楽部より1年早いと思った。70年と言えば、ラーマ9世の御代と並行している。
 ラーマ5世当時の雰囲気を維持するために、店の改装は禁じられているそうだ。おかげで当時の様子が想像できてよかった。大奥の中で、無聊をかこつ側室達が涼を求めて、いまだ店の形態をなしていない当時から、次から次にこのアイスクリーム屋に来たに相違ない。

王宮前広場へ(6)

小学生や中学生が御火葬殿をバックにして、クラスごとに記念写真を撮っていた。生徒達に対してはゲートで手渡された説明書を一人一人がきちんと胸のあたりに掲げ持つようにという指示がなされた。たまたまどこかへしまい込んでしまった生徒には、先生がすかさず自分のものを手渡した。そして全員そろって、ラーマ9世の御顔が入った説明書をきちんと持ち、カメラにおさまった。彼らにしてみれば、この時に撮った写真は末代まで語り尽くしても決して尽きることはないであろう。
 御火葬殿の最中心は非常に聖なる空間であった。天井から九層の白い傘がぶら下がり、それが微風を受けて静かに揺らいでいた。まさしくそこは「ร่ม(傘)+ เย็น(涼しい)=平和な」場所であった。そして、落ち着いた赤色の緞帳には金糸が精緻に刺繍されていた。タイに於いて最高の技術を持った芸術家が無償で造り上げたものであるそうだ。
 御火葬殿の真正面に立ち、案内人のバナナ君に頼んで、私も記念の写真を撮った。太陽光線があまりにも眩しくて目があけられない。そこでチャオプラヤー河方向に視線を向け、遠くにはためくタイ国旗に敬意を表する気持ちでカメラにおさまった。1969年からタイと関わった私。それはちょうど23歳の誕生日であった。あれから48年間、タイ、タイ、と言って暮らして来た。御火葬殿に向かってタイとの出会いに深く感謝の念を表した。

王宮前広場へ(5)

 ゲートを通過した時、車イスのサービスが有るのがわかったが、私は杖をついて歩くことにした。御火葬殿(พระเมรุทาศ プラメールマート)とその四方に配置された付随殿の敷地には石板(スレート)が敷き詰められ、雨が降ってもぬかるみが出来ないようになっていた。
 付随殿の両側に水田が造られて、長く伸びた稲が植えられていた。それを見て、稲の神様がこの王宮前広場をしっかりと守っていることがよくわかった。スコータイ時代に残されたあの碑文の冒頭がすかさず思い出された。やはりタイの精神には水と稲は切っても切れないものなのである。
 御火葬殿の周囲には池が配置され、その水の中で穢れ無き動物達がたくさん遊んでいた。なかでも多かったのはやはり象群だ。頭と胴が象で、尻尾が魚という半象半魚の物体も有った。牛、鹿、馬、いずれもとても忠実な従者になっていた。
 上壇に進むにつれて、龍神(ナーガ)の頭が三頭、五頭、九頭と次第に増えて行くのがとても力強く思われた。四方に配置された天女(テワダー)のお顔が神々しく光り、御火葬殿全体に優しさを添えていた。

王宮前広場へ(4)

王宮前広場を半周して、午前9時にやっと東口にあるゲートに着いた。小学生や中学生がいっぱい並んでいた。引率の先生達を見ると、日本で見る光景と全く同じだ。
 ゲートを通過する際、入場バッチとラーマ9世に関する説明書が手渡された。説明書は相当にお金をかけているものであった。タイ語のほかに英語版も有ったが、残念ながら、日本語版は無かった。
 次はペットボトルの山が待っていた。「水を補給しないと倒れるよ」というわけである。その次にはサンドイッチの山が待っていた。まるで「腹が減っては困るでしょ」と言わんばかり…..。
 テントの下には白いイスがずらりと並べられている。朝早かったので、私は並ぶ必要がなく、すいすいと御火葬殿まで近づくことができた。だが、その前に、「傘を持って行きなさい」と言って、黒い傘を手渡された。水もサンドイッチも、そして傘もいずれも皆、無償の提供者がいる。YAMAHAの文字が書かれた傘も有った。

王宮前広場へ(3)

芸術大学を過ぎて、いよいよ王宮前広場に出た。御火葬殿の西側がよく見えた。入り口は東側の一ヵ所に規制されていたので、エメラルド寺院とは反対側の方へと回らなければならなかった。
  国防省と国礎廟を右手に、そして、御火葬殿を左手に見ながら思った。国王をお守りするのは国軍であり、そして、バンコクの土地の礎の神様なのだ。ラーマ9世はしっかりと守られておられた。
 私はふと振り返った。そして、驚愕した。エメラルド寺院が威風堂々たる威厳を放って迫ってきたからである。これほどまでに美しいエメラルド寺院を感じたことは初めてだ。『王朝四代記』の主人公であるメー・プローイと同じ心境にひたることができて本望であった。
 10月25日、1年余に及んでエメラルド寺院に安置されていた御棺は王宮前広場の御火葬殿へと恭しく移動された。そして、26日午後10時に御遺体は白檀の香りと共に荼毘に附され、須弥山の最高壇へと昇天あそばされた。
 しかし、現地に立って、私は思った。ラーマ9世の魂はすでにエメラルド寺院に御戻りになられておられる! そして、これからもタイの発展をあたたかく見守り続けていかれるであろうと…..。

王宮前広場へ(2)

道路は閉鎖されていた。警備の警察官がバナナ君に駐車場の場所を教えたので、車は王宮前広場をぐるりと回る感じで移動し、ターチャーンにある海軍の駐車場まで行った。チャオプラヤー河はいつものように小船が行き交い、平和そのものであった。
 運転手のバナナ君に朝食をとってもらうために海軍婦人友好協会のレストランに入り、鶏あんかけ飯を注文。私はなまのココナツを頼み、冷たく冷えたココナツ水を飲みながら、目の前にある王宮の白い壁に眼をやった。壁の上にある凸凹上の飾りが菩薩に見えた。235年の長きに亘るラタナコーシン王朝を、白い菩薩達が従者として、国王を、そして、タイを忠実に見守って来たように思われた。
 杖をつきながら歩き始めると、すぐに芸術大学のところに出た。そこに検問所が有り、外国人である私は旅券の提示を求められた。日本人であることがわかると、警察官はすぐに「ありがと」と言った。知っている日本語が単にそれだけであったのか、それとも、「わざわざ遠くからやって来てくれて御礼を言いたい」という意思表示なのかはわからなかった。

王宮前広場へ(1)

12月8日0時20分、羽田空港からタイ航空TG661便でバンコクへ飛んだ。到着時間は午前5時15分。スワンナプーム空港では車椅子を用意してもらっていたので、入国に要した時間はわずかに10分。泰日文化倶楽部の元先生が手配してくださっていた運転手のバナナ君との待ち合わせ時間は6時半。イスに座ってのんびりと待った。
 初対面のバナナ君はすぐにわかった。いつもお世話になっていた運転手のジャスミンさんは定年で郷里に帰ったことは知っていたが、バナナ君はそのジャスミンさんの甥であることがわかり、すぐに打ち解けた。「伯父はスコータイで豚を飼っています」と聞いて、のんびりとした光景が浮かんだ。
 高速を飛ばして王宮前広場へ向かった。民主記念塔までやって来ると、ラーマ9世の御写真が黄色い花が咲く中央分離帯に20メートル間隔で置かれており、以前と全く変わりがなかった。やがて王宮前広場へ出ると、御火葬殿の尖塔が視界に入った。時計を見ると、丁度午前8時。国歌斉唱の時間であった。

王宮前広場へ行って来ます!

数日間、時間が取れたので、今日の深夜、羽田を立ち、12日(早朝)に成田に帰って来るタイ航空でバンコクへ行くことにした。最後の一席に思いをかけて予約を入れたという次第。10月にキャンセルした取材旅行。王宮前広場の御火葬場(พระสุเมรมาศ)の解体が11月末ではなくて、12月末まで延長になったというニュースを聞いてから、実物をどうしても目におさめておきたいと思っていた。チャンス到来!
 私の足を気づかって、泰日文化倶楽部の25年前の先生達(いずれも弁護士)が、私の接待と案内をかって出てくれた。有り難いことである。
 今回は自重して取材はしない。ラーマ9世からラーマ10世へと御代が変わったタイの空気を感じ取ってくるだけにとどめよう。。

一年が過ぎるのは早い

昨晩、「タイ語中級 火曜日19:00」のクラスにお邪魔した。このクラスは10月から2名の生徒に対して、チュラロンコン大学出身で東京医科歯科大学に留学中のシン先生が教えてくださっている。彼は授業後、また大学に戻って、今日行われる研究発表のための最終調整をしなければならないと言ったので、わざわざ時間を割いて教えに来て下さったことに対してなんだか申し訳ないような気がした。
 ところで、「一年が経つのは早い」をタイ人はどのように表現するのであろうか? そこでシン先生に尋ねると、次なる文章をホワイトボードに書いてくれた。
 หนึ่งปีผ่านไปไวเหมือนโกหก (一年はまるで嘘のように早く過ぎる)
 最後につけられた「เหมือนโกหก 嘘のように」の表現に、いささか違和感を覚えたが、よくよく考えれば、日本人も「嘘みたい」という言葉をしばしば発しているから、タイ人と日本人の間に気持ちの持ち方において、そんなに差が無いということになる。
 いずれにせよ、翻訳は直訳ではタイ人に通じない。逆も然り。なにか一言、味付けをすれば、生きた文章になる。

個人レッスンのM子さん

そろそろ2017年も終わり。そこで今年の生徒数の集計をしてみた。すると、前半よりも後半に個人レッスンを受講される方達が増えているのがわかった。これは景気と関係していること? だが、必ずしもそうではなさそうだ。やはり集中して勉強したいという意欲の持ち主がやって来られるというわけだ。
 先週から10回限定で個人レッスンを選ばれた女性(M子さん)がおられる。理由を尋ねると、ちょうど仕事に一区切りがつき、来年から始まる次の新しい仕事に就くまでの間、以前から勉強したいと思っていたタイ語を思い切って勉強することにしたとのこと。
 10回(15時間)では『タイ語入門』の半分しか消化できない。しかし、M子さんは韓国に留学し、韓国語をマスターしておられるだけあって、語学の学習の仕方を会得しておられる。したがって、集中する能力が高い。語彙数を増やすのは毎日、自分で努力すれば増える。だが、タイ語の声調と発音の仕方だけは自分一人ではどうしようもないので、それらの重要性を強調しながら、授業は順調に進んでいる。