愛須先生

土曜日に3クラスをご担当いただいているアイス先生の授業もあと3週を残すのみとなった。
 昨日、そのアイス先生が面白いものを見せてくださった。それは「愛須」という印鑑であった。留学している大学で、サインはダメ、印鑑が必要ということになり、大学の教授が作ってくれたらしい。
 生徒達はそれを見て、漢字の使い方に少しばかり違和感を覚えた。
 「愛という漢字はわかるけど、須という漢字はね? 須という漢字は音(オン)からきた当て字だ。しかし、果たして意味は?」
 すると、アイス先生は答えた。「須は、必然という意味です。そう聞きました」
 そばで聞いていた私は、「そういえば、必須単語とか、必須課目とかいいますね」と、口をはさんだ。
 生徒達は、まるでタイ人から漢字の意味を教わった気分になった。

バンコク→東京→鹿児島

今月中旬から個人レッスンを受講されているM子さんが、2年前にバンコクから届いたという葉書を見せてくださった。M子さんの友人の友人からのものであった。用件は、「タイ語を習いたいのであれば、高田馬場駅近くに泰日文化倶楽部というタイ語教室があります」と書いてあった。どうやらバンコク在住の元生徒さんが紹介してくださったようだ。
 ところで、M子さんは3月、4月は郷里の鹿児島にお帰りになるとのこと。習い始めたばかりのタイ語がどこかに飛んで行ってしまいそうな危惧を覚えた私は、鹿児島在住の元生徒さんであるY子さんに早速にも電話をかけ、数回でもいいから、M子さんにタイ語を教えて差し上げてほしいとお願いした。
 そして、M子さんとY子さんに直接、話し合ってもらった。すると、なんとおふたりの家はかなり近い距離にあることがわかった。
 Y子さんは鹿屋市でタイ料理を教えておられる。野菜やフルーツのカービングが得意なM子さんの作品がY子さんのタイ料理を彩る日もそう遠くはないであろう。

タイ語の読み方

昨晩、生徒のS子さんからタイ語の判読に関する質問が有った。昨年6月から泰日文化倶楽部に入会された彼女は、目下、タイ文字だけで書かれた教科書に挑戦しておられる。質問が次から次に出るということは、大歓迎だ。
 タイ語は、表記されている母音の長さよりも短く読む場合もあれば、その反対に、長く発音する場合もある。
A.短くなる場合= お金(เงิน)グァーン → グァン、 部屋(ห้อง)ホーン → ホン上手な(เก่ง)ゲーン → ゲン
 B.長くなる場合= 水(น้ำ) ナム → ナーム、 できる(ได้)ダイ → ダーイ、 合掌する(ไหว้)ワイ → ワーイ
 これらの単語はいずれも日常生活でよく使われる単語だ。よく使われるうちに発音の変化が生じたのであろう。
 いずれにせよ、発音は理屈ではない。読み方の規則を思い出しながら発音するのはやめたほうがいい。そのまま自然に覚えていくことが肝心である。

英語の末子音

タイ語を教える時、末子音の発音に注意をする。たとえば、「rak รัก 愛する」 、「rap รับ 受け取る」、「rat รัด 縛る」、「rang รัง 巣」、「ran รัน 打つ」というように、末子音によって、意味が全く異なるからだ。
 そういえば、英語にも同じようなことが言える。「leak 漏れる」、「leap 跳ぶ」、「lean 傾く」、「lead 導く」、「lease 賃借する」、等々。
 これらの単語を覚えるには、やはり短文で覚えるほうがいい。そうすれば、状況がわかり、単語を思い出しやすい。
 語学の勉強は効率的にやらないと間に合わない。さもなければ、単語を覚えることが苦痛になり、勉強がいやになってしまう。
 何とか早く単語を覚えたい人は、「彼女を愛する รักแฟน」、「お金を受け取る รับเงิน」、「体を縛る รัดตัว」、「鳥の巣 รังนก」、というように、2つの単語を並べることから始めて、単語に親しもう。

瀬戸内寂聴の作家魂

『文藝春秋』(2015年3月号)を買った。芥川賞受賞作品を読むためであった。読後の感想はまあまあ。
 むしろ、瀬戸内寂聴の「九十二歳の大病で死生観が変わった」という文章が面白かった。91歳から書き始めた『死に支度』を死ぬまで書こうと思っていたが、途中で霊感が働いた結果、連載を12回で打ち切ったこと、そして、そのあとすぐに大病に見舞われたが、治療を受けているうちに、またしても書く意欲が湧いてきたことが、とても分かりやすく書かれてあった。
 「どう書けばいいかはまだ頭のなかでまとまっていませんが、『死に支度』を瀬戸内寂聴最後の小説にはしたくないという強い思いがあります。何かそういう湧き出てくるものがある。これが小説家としての才能だとすれば、まだまだ自分の才能は枯れてないと思うのです」
 瀬戸内寂聴は四国(徳島県)出身。彼女が大学時代を過ごした学寮に私も住んでいた。彼女は目白台に住んでたくさん小説を書いていたので、それにあやかり、私も目白に住んでいる。彼女は私よりも干支が2周り上の戌年。ここまではかなり共通点があるが、彼女が51歳の時、出家し、京都へ移った時は本当に驚いた。

セミ・プライベートのレッスン

昨日から、セミ・プライベートのレッスンが始まった。ただし、回数はゴールデン・ウィークまでの5回だけ。
 生徒達は若いカップル。タイ旅行で少しだけタイ語を話したいそうだ。
 だが、女性のほうは、ご自分から早めに自己紹介された。「私のママはタイ人です」、と。
 ママに連れられて毎年、タイへ行っているから、タイ語の音に馴染んではいるけれど、話せない。タイのおじいちゃん、おばあちゃんとタイ語で話したい! そういう気持ちが強く芽生えてきたので、タイ語を勉強することになったそうだ。
 それを聞いて、私はさっそくにも彼女の中に眠っているタイ語を引き出してあげた。
 「私、タイ料理の話なら、わかります」、と、彼女も乗ってきた。料理名はしっかりと覚えていた。
 その様子を見て、彼氏も俄然、意欲を見せ始めた。次回が楽しみだ。

ミカン? or   かかと?

 日本語は、「あ、い、う、え、お」の母音しかないから、外国語を学ぶ日本人は、末子音の発音がきわめて苦手だ。
 先日、お会いした元タイ語講師から、泰日文化倶楽部で教えていた時の思い出話を聞かされた。そのうちの一つを紹介すると、こうである。
 「生徒に作文を書かせると、ある生徒が次のように書きました。ผมอยากกินส้น 私はびっくりしました。何故ならば、<私はかかとを食べたい>と、書いていたからです」
 その話を聞いたとたん、私はすぐに分かった。<私はミカンを食べたい>、と言いたいのであることを。
 日本人は、末子音の、m音、n音、ng音 が弱い。だが、ミカン(ส้ม ソム)が、かかと(ส้น ソン)になってしまうと、タイ人にはさっぱりわからない。
 ついでに言うと、男性の一人称である私(ผม ポム)の発音も要注意だ。ผง(ポング)になると、埃(ほこり)や、粉(こな)になってしまうから気をつけてほしい。

大丈夫じゃない

 昨日、久しぶりにタイ人に日本語を教えた。私の教え方はひたすら語りかける方法を取っているので、生徒の聴力が向上し、自らも話そうという意欲がみられるようになったのが分かって、とても嬉しい。
 彼は質問が有ると言った。「<大丈夫です>の反対は、どう言えばいいですか?」
 「それでしたら、<大丈夫じゃない>、あるいは、<大丈夫ではありません>、と言います」と、私はすかさず答えた。
 だが、どのような状況なのかと彼に説明を求めると、電車の中で足を踏まれることが多く、その時、日本人から「大丈夫ですか?」と訊かれるそうだ。
 私はあわてて次のように言い換えた。「その場合には、<大丈夫です>というほかありませんね。もしも、<大丈夫じゃない>というと、その後が気まずくなりますから」
 日本語を教えている時、単純に否定文の作り方を教えてしまうが、状況や環境を考慮して話すことも教える必要があるなあと思った。

直訳よりも意訳のほうがわかりやすい。

 昨日は風が冷たかった。冷たいは、タイ語で「イエン เย็น」。だから、タイ人の先生に向かって、「ロム イエン ลมเย็น」と言うと、タイ人はそうは言わないと言われた。正しくは、「風が寒い。ロム ナーウ ลมหนาว」と言うそうだ。なるほど、なるほど。直訳はダメだ。
 授業中、日本語からタイ語に翻訳する作文が有ったが、「土日と重なるならば」という表現で、生徒は頭をかかえていた。「重なる?」 どう言えばいいのであろうか?
 これこそ直訳してはさっぱりわからなくなる。「重なる」という表現は、日本語のニュアンスであって、言い換えれば、「一致する」という意味に切り替えてからタイ語に訳さないと、タイ人にはさっぱり通じない。
 一番、いいのは、「土日ならば」とだけ訳せば通じやすい。
 日本語からタイ語に訳す場合は、極力、日本語のもってまわったような表現は、すっきりした文意に切り替えてから訳すほうがよろしい。

呵呵大笑

『禅的生活』(玄侑宗久 ちくま新書 2003年)の中に、禅を習いに来たアメリカ青年のことが書かれてある。17歳でやって来たマーチン君は、禅寺で出される毎朝の食事のお粥がどうも苦手であったので、紙パックの牛乳をこっそりお粥に入れて食べていたそうだ。住職は彼の行動を最初から見破っていたが、呵呵大笑するだけで、彼を叱責しなかったとのこと。
 何ものにもとらわれない住職の姿。アメリカ青年は何かを学びとり、住職の笑いを憶いだすだけで生きていく上でのつらさを乗り越えられた、と、著者は紹介している。
 呵呵大笑! これは人生に必要だ。大きな声で思い切り笑う。すると、体の奥に溜まりに溜まっていた澱が吹き飛んでくれるような気がする。
 さて、ここからは手前味噌になるが、語学の勉強も目だけで勉強してはダメだ。耳だけの勉強も足りない。やはり、大きな声で発声しないとね。
 そのためには、食事もしっかり摂り、顔も洗ってさっぱりとし、道場ならぬ教場へ向かうべし。