物故者名簿

入院中、テレビも新聞も不要であった。スマホでネット検索ばかりしていると全く退屈しなかった。検索項目の一つとして、2015年から2017年の物故者名簿を見てみた。大学時代に教わったフランス文学の教授が今年3月に90歳で亡くなっておられることを知った。彼女のしなやかなスタイル、キリリと光るセンス、そして、「女性学」の一環として、フランス文学に登場する女性像を熱く語って聞かせてくださったのは50年前のこと。
 物故者名簿には各界で著名な方達が載っているわけだが、どんなに著名であっても、書かれているのはわずかに2行。生年月日と死亡日、及び、何をしたかという肩書がほんの数文字で表されているだけだ。
 それを見ながら、「どんな人であれ人生は2行なり」、と思った。そのうちの1行は生年月日と死亡日で埋まるから、あとの1行こそが勝負だ。濃い人生を行くか、淡々とした人生を選ぶか…..。いずれにせよ、1行なのだ。

神田川日記(追記)

追記したい項目が出てきたので追記する。入院中、獅子文六(1893-1969)と吉行淳之介(1924-1994)を読み、昭和の時代を回顧した。カトリック信徒の高橋たか子(1932-2013)のエッセイでは彼女の観想生活に触れることができた。阿部龍太郎の『等伯』では、安土桃山時代の絵画や茶道の流れを知った。
 考えようによっては、重病でなければ入院生活も悪くはない。何か文章が書ける。そう思った。
 私が入院していた病院は1950年(昭和25年)に開業しているので、建物は極めて古い。だが、ノンフィクション作家である澤地久枝さん(87歳)の昔の随筆を読んでいた時、彼女が若い頃に心臓の病気でこの病院に長く入院していたことが書かれてあったのを思い出した。彼女と同じ空気を吸ったこと、これを機縁に私にも文才よ、甦れ。

神田川日記(終)

33日間、入院していたので、この神田川日記も33回目で終了とする。
 私には病気も怪我も関係ないと思っていた。だが、筋力不足から骨折を招いてしまった。帰宅後、ご心配いただいた皆さんに退院をお知らせすると、尾道にいる元生徒さんから驚きのラインが返信されて来た。彼女のお母様(65歳)が家の中の階段で転倒し、頭蓋底骨折と脳挫傷をおこして入院中だというのである。彼女のお父様(67歳)は実の父親の介護もしておられるとのこと。もはや老老介護はそこかしこで始まっている。
 私は骨折した時、ビルの管理人さんの手を借りてタクシーに乗ったので、退院した旨を伝え、そしてお世話になった感謝の気持ちを伝えようと思い、管理人室に電話をかけた。だが、聞き慣れぬ声の方が電話を取った。事情を説明したところ、臨時の管理員さんは言った。「彼は入院しています」
すぐに管理会社に電話をすると、管理員さん(75歳)の復帰はもう無理であると言われた。川の流れは戻らない。それぞれの人生も川の如し。どこかへと流れて行く……。

神田川日記(32)

毎朝6時起床。熱いおしぼりで顔を拭く。7時40分頃にお茶が来て、8時に朝食。ゆったりとした時間が過ぎる。7時頃、廊下の奥にある窓まで行って、新しい空気を吸った。神田川の水面(みなも)に水鳥が一羽泳いでいる。そこへもう一羽がやって来た。つがいであろう、と思った。ところがまた次なる水鳥がやって来た。子どもかしら?
 そう思いながらしばらく見ていると、鳥の数がどんどん増えて行った。理由はパンくずを投げる赤いジャケットのおじさんがやって来たからである。鳥達は生きる術(すべ)をよく知っている。
 午後3時頃、同じ窓に立つと、水面がきらきらと輝いている。少ししか開かない窓に立って、ひなたぼっこをすると、急に元気になるのを覚えた。太陽は有り難い。ビタミンDを体に取り入れて、骨を早くくっつけようと思った。

神田川日記(31)

白菜の葉っぱで滑って背骨を圧迫骨折した高田3丁目のおばあちゃんが退院した数日後、個室から73歳の女性が大部屋にやって来た。彼女の話によると、長年にわたり、自宅で介護していた母親が去年、103歳で亡くなり、その後、無気力になり、コンビニのおむすびかパンばかりでどうにか暮らしていたら、この11月に突然立ち上がれなくなり、入院することになったそうである。介護の疲れと栄養バランスの悪さが原因であろう?
 コンビニの食べ物ばかり食べていれば体がおかしくなるのは当然だ。実は退院して自室に戻ると、机の上にコンビニで買ったロールパンが2個、袋の中に入ったままであった。よく見ると、買った時と同じような照りが表面に見られ、カビが全く生えていない。防腐剤のせいとはいえ、気持ち悪かった。73歳の女性の話が現実味を帯びてきた。
 71歳の男性は、「あと5年くらいで、もう死んでもいいよ」と言う。しかし、女性達は違う。みんな、どんなに腰がいたかろうが、100歳を目指して、ベッドの上で寝ていた。

神田川日記(30)

101歳のおばあちゃんと同じ部屋にいた93歳のおばあちゃんはもう退院してもよさそうなくらい病状が回復したのに、あえて退院しそうもなかった。理由は家に帰っても一人暮らしだから。時間が来ると三食必ず提供してくれる病院のほうがいいと言うのである。その気持ち、わからないでもない。だが、私の場合、いつまでも病院に甘えていては大きなマイナスだ。
 そのおばあちゃんには息子さんが3人もいるそうだが、近くに住んではいるものの、同居はしていないとのこと。年をとると、息子よりも娘がいたほうがいいなあと思った。
 その他に、子供がいないというおばあちゃんがいた。甥御さんが頻繁に見舞いに来てはいたものの、それはそれで大変なことである。ご主人に先立たれて一人残されたおばあちゃん達も多かった。結婚していようが、独身であろうが、子供がいようが、いまいが、結局のところ、一人で病いを乗り切らなくてはならないのである。

神田川日記(29)

3日間で退院して行った若い女性は病院で手話通訳をしているそうだ。だからお見舞い客も手話ができる方であった。二人は手話で話していたので、話の内容はわからずじまい。
 手話娘が出て行くと、88歳のおばあちゃんが窓際のベッドからそこに移された。彼女は発話が不自由そうであった。だから、私がいつもナースコールを押して上げて、彼女の要望を看護師達に伝えてあげた。
 このおばあちゃんは夜中に荷物をまとめるのが癖になっており、ガサゴソ、シャワシャワ、いろいろな音がカーテン越しに聞こえてきた。看護師達から「何を言っているかわからない」と言われるたびにおばあちゃんはしょげかえり、荷物をまとめ、早く家に帰りたいと言った。
 今回の入院で、どんなに病気をしようが、自分の言いたいことは要点をつかんで、明瞭に話さなければならないと思った。60歳を過ぎて、語学を習うことはいいことだ。たとえ上手にならなくても、いつも発声をしていれば、喉の筋肉が鍛えられて、発話の力が衰えないからである。

神田川日記(28)

私の隣りに寝ていたおばあちゃん(92歳位)はどうやら転院させられるようであった。お嫁さんが3人の子供を連れて来たことがある。介護認定士に向かって、子供の世話だけで手がいっぱいだから、おばあちゃんの面倒は看られないことをはっきり言っていた。小学校1年生の孫がおばあちゃんに言った。「おばあちゃん、歯を磨かないから歯が無いんだね。さあ、今からしっかり歯磨きをしてちょうだい」、と。おばあちゃんはただにこにこするだけ。
 そのおばあちゃんが転院したあと、そのベッドに29歳の女性がやって来た。3日間だけという限定付きである。彼女は落ち着きがなかった。丁度、座間事件が発覚した時と同じ頃だったので、私は眠りを妨げられた。彼女はベッドに入るや否や、充電器が無いかどうか看護師に尋ねている。そして、がばっと起きたかと思うと私のところに来て充電器を貸してほしいと言った。人が信じられないというわりには、3日間、ラインをしまくりであった。

神田川日記(27)

2階にいた女性が3階の大部屋に転室して来られた。病院から借りたパジャマの上に紬の着物をほどいて自分で縫った素敵な上っ張りを着ておられた。早稲田大学の大隈講堂が見える辺りにお住まいだとのこと。83歳。娘時代に新宿の文化服装学院で学ばれたので、ご自分のものは全部縫っておられるそうだ。
 「うちの家、何の商売をしていたかわかりますか?」と訊かれたので、雀荘かと思ったが、失礼があってはいけないと思い、答えなかった。すると、「カクボウよ」と教えてくれた。それが「角帽」であることはすぐにイメージできた。
 「主人は85歳まで角帽を作っていました。先代は神田でお店をやっていましたが、早稲田に移り住んで来て、早稲田の学生さんの角帽を作っており、総長の角帽(卒業式用)も作りました。店をたたんだ3日後に入院。3年前に亡くなりました。角帽作りの様子をテレビ局が取材に来ましたよ」
 私はその話を聞いて、すかさずスマホで調べてみた。すると、早稲田の大学生達とお店の前で一緒に並んでいるご主人の写真が出て来た。温厚そうな方で、いかにも職人気質の男性だ。彼女は言った。「主人のミシンは絶対に売りません」

神田川日記(26)

私よりも5日くらい後に入院して来られた女性は、淋しさのせいであろうか、いつも「あーちゃん」と発していた。病室が離れていたので、一体、何を言いたいのかわからなかった。看護師達やヘルパーさん達もわからないようであった。「あんちゃん? かしら」と言っていた。
 そのうち、「あちゃん」とも聞こえるようになった。もしも彼女が「アーチャーン(先生)」と言えば、私は「はい」と答えようと思っていた。
 そして、ある日のこと、彼女が部屋の前でひなたぼっこをしていたので、リハビリ歩行を兼ねて近くまで寄って行った。そして、彼女に手を差し出すと、彼女はとてもうれしそうな顔をして手を出した。我々はついに握手をした。
 彼女の発声は「かあちゃん」が正しかった。だが、遠くにいると、「あちゃん」にしか聞こえなかった。