M子さんは横浜出身。何故、尾道にやって来たのかと尋ねると、「土のある暮らしがしたかったのです。たまたま大学の先輩がやっているNPOの仕事が尾道にあり、その活動に誘われたものですから、ここに定住することを決めました」と、彼女は力強く答えた。
尾道周辺の島には造船所がたくさん有り、そこにフィリピンやタイからたくさんの研修生がやって来ており、彼女は英語とタイ語の通訳でひっぱりだこだ。
「先生、尾道でタイ語がこんなに役に立つとは考えてもおりませんでした」と言うM子さんの傍らで、私のほうがもっと驚いた。地方でもタイ語の需要がこんなに有るとは!
語学は身を助ける。何語でもいいから外国語を勉強していると、その能力を要求される日は必ず来る。
尾道探訪(3)
今回、M子さんの子育てぶりを見ることが第一の目的であったが、初めて見る二人のお子さん達は、元気に育っていた。ご主人が農業関係の雑誌の取材をしておられるので、そして、M子さんも、大地に根付いた暮らしをしたかったということで、二人のお子さん達のお名前は、麦ちゃんと穂君。
5歳の麦ちゃんは、0歳の時から欧米人のお子さんと遊んでいるから、英語の発音がきれいだ。M子さんの友人であるタイ人がお土産に持って来たというタイ語の絵本が本棚に収まっている。二人の子どもにとって、タイ文字も見慣れたもの。
麦ちゃんは、宮沢賢治の「雨にも負けず」を全部、暗記している。そして、私の前で暗誦してくれた。私は昔にタイムスリップしたかの如く、聞き入っていた。それにしても、5歳の子どもの暗記力はすごい!
尾道探訪(2)
「すみません。ガソリン入れていたので遅くなりました!」と言って、M子さんが桟橋に現れた。そして、すぐに抱きついてきた。学生時代のままの素直なM子さん。お互いに14年前に戻った瞬間であった。
向島は想像していたよりも大きかった。洋ランセンターの看板が目にとまった。すると、M子さんは、「それではちょっと寄って行きましょう」と言って、すぐに連れて行ってくれた。洋ランの苗はタイから取り寄せているとのこと。東京の値段の半額であった。庭にはバナナの葉が大きく広がり、黄色い花が咲いていた。まるでタイにいるみたい。温暖を通り越して、熱帯だ。
向島で一番高いという高見山に案内されたが、瀬戸内海は霧がかかっていた。幻想的な島々。また、来よう。
M子さんの家は小高い丘の上。リビングから海が見える。その景色が気に入って購入したそうだ。庭にはヤギが草を食んでいる。レモングラスを栽培して、福山市内のタイ料理店に卸しているM子さん。なかなかのやり手だ。
尾道探訪(1)
10月2日午前6時、のぞみ1号に乗って福山下車。それから山陽本線に乗り換えて尾道に着いたのは10時13分。電車を降りると、「昔は帰って来るのが一日仕事だったけど、本当に早く帰れるようになったものだわ」と、どこかの奥さんがご主人に話す声が聞こえた。彼らも東京から来たのであろう。思わず、林芙美子を思ってしまった。彼女は尾道から東京へ行った人だ。
尾道駅のすぐ近くから渡し船に乗って向島に渡る。M子さんはまだ来ていなかった。桟橋のベンチで座っていると、初老の女性が話しかけて来た。「ご旅行ですか?」 私は答えた。「教え子に会いに来ました。観光は以前、来た時に終わっています」
私はM子さんにタイ語で電話をかけた。すると、横で聞いていたその女性が、「あら、外国の方だったのね。日本語、お上手ですこと!」と言った。私は尾道で外国人にされてしまった。
泰日文化倶楽部 満28周年 達成!
1988年(昭和63年)10月にスタートした泰日文化倶楽部は、満28周年を迎えました。今日から29年目に入ります。
スタートして3ヶ月で平成に元号が変わりました。従いまして、泰日文化倶楽部は平成の数字と共に歩んで参りました。すぐにバブルの時代がやって来て、たくさんの生徒さんが習いに来てくださいました。しかし、そのバブルは崩壊。宝石関係の方達はすぐにやめていかれました。その後、アジアの通貨危機でバーツが反落。1999年12月5日にバンコクにBTSが開通。その日、私は早朝からBTSに乗りました。
やがて、リーマンショックと共に、世の中はおかしくなりました。タイ語を習う生徒数も減りました。というよりも、都内にたくさんタイ語教室が出来ましたから、生徒が分散したわけです。
泰日文化倶楽部は他のタイ語学校と比べると、一味も二味も違います。都内のオアシスとして、いつもタイ・ペースです。よろしかったら、いらしてください。さあ、今日から満29周年に向けて、また前進いたします。
注:私(吉川)は、明日と明後日、地方へ参りますので、ブログの更新はありません。
抜本的な見直しの英語訳
英語の勉強を兼ねて、最近はNHKの夜のニュースは英語の副音声にしている。そこで感じることは、英語のほうが分かりやすいということ。日本の官庁は「抜本的な改革」とか、「抜本的な見直し」という表現を使うことが好きな傾向にあるが、英語放送では、”fundamental reform”と訳している。辞書を見ると、他に、”fundamental innovation”、”drastic changes”、”drastic measures”。
ニュースでは、抜本的、抜本的、という言葉だけが聞こえて来るが、聞いているだけでむなしい。何ひとつ解決しないからだ。「善処します」が「何もやらない」ということ、と同じだ。
これらの日本語は単に意味なく発射されるまやかしの弾にしかすぎない。実現する日は永遠に来ないのであろうか。
trip という単語
昨晩、「タイ語入門 水曜日19:30」のクラスのSさんが、18時45分頃に教室に到着。授業までかなりの時間が有ったので、しばし談笑した。
「先週、お休みでしたね。天候が悪かったからですか?」
「いや、違います。職場で問題が発生したからです。タービンがトリップしたものですから」
「タービンがトリップ? それ、どういう意味ですか?」
「タービンの電気系統が落ちたんですよ」
トリップ(trip)という意味は、①旅行、そして、②麻薬で幻覚症状を起こした時のことをいう、の二つの意味しか知らなかった私。機械に関する単語は弱いなあと思った。
タイ語には同音異義語が多いが、英語も然り。文例で覚えよう。
馬油
昨日、「タイ語中級 火曜日10:30」のクラスの女性と2週間ぶりにお会いすると、「先生、これまでで一番輝いておられます!」と褒められた。その言葉を、私は素直に受け止めながら、内心で思った。やはり馬油(น้ำมันม้า)の効果が出て来ているのかもしれない……(嬉)。
今月中旬(กลางเดือนนี้)、深川不動尊の参道にあるお店でジェラートを食べた。お金を払う時、店の女性を見ると、肌がつるつる。これまでに見た女性達の中で、とびぬけて肌が美しかった。私は早速、尋ねてみた。「美しいお肌ですね。お手入れ方法は?」 彼女は気さくに答えてくれた。「風呂上りにまだ水気が残っている顔に馬油を塗るだけですよ」、と。
帰り道、私はすぐに馬油を購入。彼女を見習って、意識して肌の手入れを始めた。そして、オリーブ油も買い、料理を始めた。中国語で「加油!」は、頑張れという意味だ。油を売って、とろとろしている閑は無い。常に自分に油、また、油を加えて、健康美を創って行こう。
独学が得意なS君
昨日、バンコクに駐在している商社マンのS君からメールが有った。「来年からミャンマー勤務になります。目下、バンコクとヤンゴンを行ったり来たりして事務所の開設に忙しいです。ミャンマーは昔のタイ?っていう雰囲気です。バンコクに戻るとほっとします。さっそくミャンマー語の本を3冊、買いました。これから独学します」
S君はタイ語がペラペラ。彼はいつも言う。「僕はタイ語をものすごく勉強しました。先生が教えてくださった5倍、いや、10倍の時間をかけて」
だから、ミャンマー語が話せるようになるのも時間の問題。彼は語学の勉強の仕方を心得ている。大学時代にロシア語できたえられているからだ。もしもバングラデシュへ転勤となればベンガル語、そして、スリランカへ転勤となればシンハラ語を独学する意欲を持っている。語学によるコミュニケーション能力は抜群! 期待が大きい独学青年だ。
人類学者 加藤九祚先生の言葉
アジア文化史を専門とされる人類学者の加藤九祚(きゅうぞう)先生が9月11日に発掘調査中のウズベキスタンで亡くなられた。享年94歳。
昨日の朝、NHK教育テレビの番組「こころの時代」で、加藤先生のことが再放送された。去年もその番組を見た私は、あらためて加藤先生の後輩に対する言葉に心打たれた。「知ること。知ることは大事ですよ」
加藤先生の口から直接語られる彼の履歴たるや、これまたすごい。上智大学でドイツ語を専攻したので、捕虜になった時、ドイツ兵からシベリア送りになることを聞き出し、その後はすぐにロシア語の勉強を開始したそうだ。最晩年、故郷である韓国の大学から講演を頼まれた時は、「皆さん、これからは5ヶ国語は勉強しなさいよ」と韓国の若者達に熱く語っていた。
加藤先生の語学は趣味ではない。生き抜くためのものであり、ひいては、人類を知るための勉強なのだ。