阿留辺幾夜宇和

昨日、和歌山県有田郡有田川町からお歳暮が届いた。カネイワ醤油の製品であった。箱の中のちらしの文面に興味を覚えた。
 「明恵上人生誕の地 有田川町 明恵上人の言葉….『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』 自分自身に与えられた事を全うする事が大事であるとの教え」
 私は明恵上人(1232年~1173年)という名前は聞いたことがあるが、この方の人生は知らない。ネットで調べてみて初めて少しだけわかった。もっと知るには、数々の参考書を読む必要がある。これは正月の宿題だ。
 ところで、上記の「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」という表現が面白い。内容が濃すぎて、実践がむずか

22年前の生徒さん

22年前の生徒さんであるMさんと、昨日、ばったり都内で遭遇した。これだけならたいした話題にもならないが、私にとっては不思議でならなかった。というのは、彼とはこれまでに2回、四谷と目白で偶然、出くわしたことがあり、今月初め、Mさんはその後どうしておられるであろうかと思ったばかりであるからだ。こんなにも早く、実現するとは!
 私は彼に言った。「お声をかけてくださらないと、私はわかりませんでした」
 彼は素敵な中年になられていた。私の脳裏には30歳の彼しか残っていない。だが、今や52歳になられ、お子さんも社会人。ふっくらとして、落ち着きがみられた。
 どこか都内できっとすれちがうであろうと念じていた生徒さん。その彼と12年ぶりに会うことができて嬉しかった。

手帳

昨日、大学の中に入っている書店へ行った。目的は2017年度の手帳を買うためだ。しかし、年末恒例の手帳コーナーがみつからない。店員に尋ねると、文具コーナーの一角へと案内された。あまりにも少ない数にびっくり。私が愛用している能率手帳はなかった。
 そこで考えた。なるほど、電子化が進んでいるんだ…..。スマホの中にすべての予定はインプットされて、紙の手帳はもはや不要。そういう時代においては、手帳の販売数も減少しているのは当然至極。
 だが、私の場合は能率手帳を高く重ねて、あるいは、ずらりと並べて、過去の自分を振り返るのが好きだ。10年前のものであろうと、20年前のものであろうと、自分のその時の行動がよく思い出されて、とても面白い。そして、思うこと、それは、ああ、人生って短い。たいしたことなんて出来ない。日々、健康に恵まれて、淡々と生きていくしかない。

優しいバスの運転手さん

急ぎの仕事がある場合、タクシーを利用することが多い。特に、師走だから、私は走ってばかり。ただし私が乗る距離はほんの1~2区間。だから、あまり歓迎されない。昨晩、乗車したタクシーの運転手はわざと遠回りをして、3区間分の運賃を要求した。
 だが、私は怒らない。何故ならば、一昨日の夕方、バスに乗った時に、ものすごく親切な運転手さんを見たからである。車イスに乗った娘さんを父親がお世話しているが、わずか2つのバス停しか乗らないのに、車輪停めをあてがったり、バンドでバスの中にあるスチールの柱と車イスを結んだりと、それはそれは丁寧な仕事ぶりであった。もちろん降りる時も、車イスをかかえ持ってあげていた。そして、何よりも運転手さんの声かけがとてもやさしかった。
 良いことと悪いことの両方に接しながら、12月がどんどん飛んで行く。

年賀状のこと

「70歳になりましたので、来年からは年賀状を失礼させていただきます」という賀状が高校時代の恩師から届いたのが15年前。「80歳になりましたので、これで年賀状は終わりにさせてください」という4年前の賀状は、元大学教授から。「90歳になり、手が思うように動きませんので、年賀状はもう書きませんよ」という2年前のお電話は元大学舎監から。
 教え子が多い教育関係者は12月になると年賀状を書くのが大変だと思う。そのようなお知らせをいただき、淋しいとは思ったが、それは一瞬のこと。逆に、そのほうがよろしいと賛同した。
 ところで、私も70歳の大台に乗った。先輩の諸先生方に見倣い、思い切って、今後は年賀状をやめることにした。あらためて挨拶状を書くべきところだが、まずはこの場をお借りしてお知らせする次第である。タイ国民が喪に服しているので、私も同じく深く沈静している。

無事是貴人

先日、お茶の稽古に参加すると、「無事是貴人」という掛軸が架けられていた。無事という言葉は、「何事も無くて良い」という意味だが、茶道講師からもっと深い説明が有った。
 「無事には、良いことも悪いことも、両方きちんと受容するという意味が有ります。それができる人を貴人と呼びます」
 だが、ストレス社会に住む人には悪いと感じるほうが多いのではなかろうか。良いことはその1割くらい。悪いことを解決させるのは難しい。「そういうもんだ」と優しく受け止め、あとは流して行くに限る。
 泰日文化倶楽部の教室のすぐ近くに茶道具店が有る。そこへ抹茶と懐紙を買いに行ったついでに、茶道具を拝見した。茶杓の裏の絵が来年の干支である「尾長鶏」であったので、これは目出度いと持って購入。店主の話では、「尾長鶏の絵柄は、干支に関係なく、いつでも使えます」とのことだった。「そうだ、ストレス社会に於いては、気長に暮らせよ」という教えだと思うことにした。

哀悼のタイ王国(終)

 ホテルのテレビ画面の前に陣取りながら、プミポン国王の幼少期に思いを馳せていたが、そろそろ旅の時間もあと一日を残すのみとなった。
 国王は御隠れになられた。しかし、国王の存在感がどんどん迫力をもって伝わってきた。国王がお話しになられる御言葉には力がみなぎっておられる。国民を魅了してやまない言霊が潜んでいる。
 王宮前広場でタイ国民が国王讃歌を歌ったあと、テレビのアナウンサーはこうつけ加えた。
 「皆さん、是非、『王朝四代記(สี่แผ่นดิน)』をお読みください。とても示唆に富んでおります」
 それを聞いた私は、この本の翻訳者として、とても光栄に思った。

哀悼のタイ王国(44)

プミポン国王の御一家は、スイスのローザンヌでおだやかな生活を送っておられた。御母君は教育熱心な方であられたから、子供達にはフランス語の上達を第一に願われた。なかなかできないのを見て、宿題を手伝ったりしたが、それが大いに間違っていることを教師から指摘されると、家庭教師をつけて補強をはかられた。御姉君の回想によると、ある日、突然、フランス語がスーッとわかるようになられたそうである。
 プミポン国王の場合は5歳から幼稚園でフランス語に触れておられたわけだから、自然に耳に入ったものと思われる。
 こうしておだやかな日々をお過ごしの御一家に、1935年3月2日、ラーマ7世の退位宣言により、タイ政府から要請が入った。御兄君をラーマ8世にということであった。その日以来、御一家すべての肩書の格が上がり、お住まいももっと広いところに移ることになった。ローザンヌから2つ目の駅(Pully)というところで、「ヴィラ ワッタナー」と称した。
 私はそこへも行ってみたが、解体されて、もはや影も形もなかった。

哀悼のタイ王国(42)

プミポン国王はローザンヌ大学を卒業しておられる。そこで僧侶達と一緒にそのローザンヌ大学を見てまわることにしたが、当時とは異なり、現在は図書館になっていた。大学自体は、手狭なため、もっと広い場所に移っていた。だが、私は国王が上がり下りした階段を、実際に昇降し、そして、館内の空気を味わうだけで満足した。
 その後、スイスにあるお寺が所有しているワゴンでレマン湖畔へ移動した。道路一本隔てた広い敷地にはタイのサーラー(ศาลา)が有った。本来であれば、プミポン国王ゆかりの地として、そこにタイの寺院を建てたかったそうだが、当局の反対にあって、サーラーのみとなった。ちょうど上野動物園の中に建てられているサーラーと同じ規模である。
 そのあたりには、FIFAの本部やオリンピック委員会の本部が有った。幼少時、国王の散歩コースだったと思われる。
 レマン湖畔には、あの偉大なる喜劇俳優であるチャップリン(1889-1977)の銅像が立っていた。彼も国王と同じく88歳で亡くなっている。

哀悼のタイ王国(41)

2006年にマサチューセッツ州ケンブリッジ市へ行った私は、プミポン国王が5歳から20歳までお住まいになっておられた場所の空気に触れたくなり、2009年11月2日、スイスのローザンヌへ行った。
 バンコクからタイ航空でチューリッヒへ飛び、チューリッヒからローザンヌまでは電車で向かった。途中、タイのお寺が見えた時は感動的であった。そして、レマン湖も美しかった。ローザンヌの小高い丘に立ち、街の様子を見ていると、タイの僧侶と案内人に会った。早速、話しかけると、案内人は列車から見えたあのタイのお寺で奉仕している女性だと答えた。僧侶はタイから来られた方であり、プミポン国王のゆかりの地をまわっておられることがわかった。
 「あなたもご一緒にいかがですか?」と誘われたので、一緒について行くことにした。