智頭急行

4月28日13時43分、岡山駅から「スーパーいなば7号」に乗って鳥取へ行った。津山を通過するものと思っていたら、そうではなかった。JRの山陽本線を経て因美線に入り、山郷駅から智頭(ちず)急行と若桜鉄道という路線で行くということを初めて知った。
 調べてみると、智頭急行は1986年にできた第三セクターであった。中国山地の山間(やまあい)の新緑とせせらぎが美しかった。そして何よりも興味を覚えたのは、「宮本武蔵」という駅を通過したことだ。宮本武蔵の生誕地とのこと。
 智頭急行の路線の駅名の中には「恋山形」というのが有る。これは若いカップルに似合いそうだ。
 ところで、智頭急行の智頭駅は、「ちず」と表記し、智頭町の町名は「ちづ」と表記することになっていることを知り、どことなく奇異を覚える。
 「ず zu」と「づ du」は、発音上、区別がつかない。「じ ji 寺」と「ぢ di 痔」を区別して発音できないのと同じかな?

新幹線ひかり

4月29日7時6分、東京駅から岡山行きのひかりに乗った。本当はのぞみに乗りたかったが、黄金週間なので指定席が取れなかった。しかし、それがかえってよかった。何故ならば、停車駅ごとに外国人の旅行客が入れ代わり立ち替わり乗り降りしてきて、いつものひかり号とは雰囲気が異なっていたからだ。
 静岡に停車した時、後ろの席の女性が隣りの欧米人に向かって、「私は浜松で降ります。ですから、席を替わってください」と言っている。だが外国人は何のことかわからず、座席のテーブルの上にPCを置いたまま、じっと画面を見ている。
 75歳位のその女性は何度も同じことを言った。彼女としては、浜松に着く前に降りる準備をしたいわけだ。
 そこで、私が通訳をした。すると、欧米人は立ち上がってすぐに席を交替してあげた。外国の旅行客へのおもてなしというよりも、日本人のための通訳が必要だ。

真実一路

『真実一路』(山本有三著・昭和25年の作品)を読んだ。昔、読んだことがあるが、歳月を経て読むと新たなる発見が有り、人間の心情と機微がよくわかって面白かった。
 世界情勢においては、「一帯一路」という言葉が紙面をにぎわせている。シルクロードも海のシルクロードも中国語がすさまじい勢いで飛び交って行くことであろう。
 さて、平成最後の宿題は、ユーモアや冗談を交えて、「○○一路」という造語をつくってみよう。例:「美食一路」
 そして、それらの造語をタイ語訳してみよう。訳文にあたっては、決して、直訳をしないように。
 タイ人に素直に、早く理解してもらうように心がけよう。
(備考)4月30日と5月1日はブログを休筆します。

それぞれの人生

今月は仕事の上ではひまであった。平成最後の月だから、のんびりするのもよし。50年も働いて来たのだから、少しは休もう……。
 そう思っていたら、恩師の訃報。恩師の生涯の知られざる苦悩を知り、人生を考えた。
 黄金週間が始まったが、珍しく予定欄が空白。何にもしないでもいいと思うと、小さな幸せを覚える。
 最近は午前3時半頃から目が覚める。メールを開くと、元生徒さんからメール。近況報告を読んで、彼女の心境が深淵にたゆたっているのを知る。
 午前7時半、鳥取在住の元教え子から奥様の訃報。「6:32に永眠を確認してもらいました…最期までよく頑張ってくれました」
 それぞれの人生にいろいろなことが降りかかる。これまでにいろいろなことを学んで来たつもりだが、平成最後の4月はずしりと来る月となった。

平成最後の授業

泰日文化倶楽部は、今日、平成最後の授業を実施する。
 昭和63年(1988年)10月から週2回の授業を開始したが、その3ヶ月後には平成(1989年)へ。
 その平成30年間を駆け抜けて来た。バブルの崩壊、阪神淡路大震災、オーム事件、バーツの切り下げ、世界貿易センタービルの倒壊、リーマンショック、東日本大震災、タイの洪水、等々、内外の情勢が変わるたびに、大なり小なり、泰日文化倶楽部にも影響が有った。具体的に言うと、生徒達の退会が目にみえてわかった。
 なかでも、終身雇用が終わり、派遣労働の形態が増えるにつれて、それまで定着していた生徒数が動いた。そして、現在もその流れは続く。
 落ち着いて暮らしていけない時代、金がかかり過ぎる時代、時間が無い時代、人間関係がより冷たくなった時代、親戚関係が縁遠くなっていく時代、目標が定まらない時代…..。
 先日会った元学友(72歳)はこう言った。「いつもリストラばかりに遭ってきた。最後くらいは、自分から辞めます、と言って辞めたい」
 他者に振り回されない働き方をするにはどうすればいいか。令和への移行期間に、じっくりと考えようではないか。

恩師の召天

昨日、恩師の葬儀式に参列した。牧師様の司式に基づき、黙祷、序詞、賛美歌、旧約聖書、新約聖書、祈祷、式辞、祈祷、賛美歌、主の祈、頌栄、終禱、黙禱、遺族挨拶が粛々と取り行われた。故人の94年間における長い人生の旅について、牧師様からご紹介が有った。誰も知らなかった恩師の苦悩、悔悟、そして懺悔に、参列者の誰しもが涙した。
 恩師は1925年(大正14年)、台北生まれ。とてもさばさばされた方でユーモアの持ち主。12歳で受洗。そして、2019年、平成最後の月に召天された。
 葬儀後、参列した元寮生は恩師をしのぶために喫茶店へ。恩師は高級老人ホームに82歳から入居。数年前から介護病棟に移られたということは伺っていたが、次なる話を元寮生の一人から聞いた。
 「すばらしい介護なので、皆さん長生きをしておられます。しかし、いかんせん、話し相手がおらず、認知症になった方達が多いみたいよ。先生は信仰がお有りだったから最期まで頭がしっかりしておられました。やはり、何か刺激が無いとだめね」

美女の写真

泰日文化倶楽部の元先生から、ビーチで筋肉美を披露している若い女性の上半身の写真が送られて来た。英文を読むと、ジョークであることが一目瞭然。
 ”I have 5 kids. I don’t go to the gym. I eat everything I want. I’m super lazy to move around. My secret? None!
I’m the one in the background!”
写真をよく見ると、確かに後方にはジャンボ級の女性が小さく写っている。
 最近、英語を勉強したいという生徒達にこの写真を送った。しかし、皆さん、英文の説明を読まず、筋肉美の若い女性しか見ていない。前方にある被写体に視点が奪われると、後方の被写体にはまったくいかない。軌道修正がきかない。
 世の中、いろいろな情報があふれかえっているが、神経が集中するのはほんの一点だけなのであろう。

タイ語サロン待望論

昨日、「タイ語初級 火曜日13:00」のクラスに於いて、生徒達から「東京ではタイ語をしゃべる機会が有りません。タイ人としゃべりたい!」という声が次から次に上がった。このクラスは「タイ語入門」のテキストが終わり、「タイ語初級」に昇格したばかりである。
 たしかにタイ語を使う機会がない。だから、せっかく勉強してもすぐ忘れてしまう。そんな悩みを以下に列挙するから、タイ語で書いてみよう。
 1)日本ではタイ語をしゃべる機会がない。
 2)電車の中で会ったタイ人旅行客に向かって話しかける勇気がない。
 3)語彙力が足りない。
 4)話題がない。
 5)日本語がわからないタイ人を招いたタイ語サロンを希望する。
 お茶を飲みながらの「タイ語サロン」は面白そうだ。しかし、ボランティアで定期的に来てくださるタイ人をみつけるのは難しい。開催できても、おそらく1回限りであろう。何故ならば、来日したてのタイ人は日本語を学びたいのである。下手なタイ語につきあうのはすぐに飽きるはず。

平成最後のタイ語学習

昨日、「タイ語中級 月曜日18:00」のクラスの授業を補佐した。生徒達は「単語が覚えられない」とぼやく。
 そこで、私は助言した。「それはタイ語を話すチャンスが無いからです。単語を覚えるコツの一つは、一つの単語をポツリポツリ覚えるのではなくて、1(単語)+1(単語)=2(合成語)で覚えて行くといいですよ」
 単語をたくさん覚えることは楽しい作業だ。かつ脳みその活性化にもなる。60歳以上の人には必要な遊びだ。
 ところで、今週は平成最後のタイ語学習の週となった。月曜クラスの生徒達と次回お会いするのは、3週間後。令和に入っている。休暇中、果たしてどのくらいタイ語を勉強してくださるかしら? 果たしてどのくらい単語を覚えてくれるかしら?

お金の家?

生徒さんの一人に、「ゴールデンウィークはどこへ行かれますか?」とたずねると、彼女は「บ้านเงิน」と答えた。
 บ้านは家、เงินはお金。したがって、「お金の家」ということになる。私は興味津々になった。「お金の家って、どこにあるのであろう?」
 しかしながら、次第にわかってきた。彼女は「บ้านเกิด」と言いたかったのだ。บ้านは家、เกิดは生まれる。したがって、「実家」。
 日本人にとって、เงิน(お金)も、เกิด(生まれる)も、発音が難しい。タイ人にはうまく伝わらない。
 4月はいろいろな事故が次から次に発生(เกิด)している。池袋で発生した暴走事故の現場は、事故発生2日前に私はそこを通過したので土地勘が有る。ノートルダム寺院の火災、そして、スリランカのコロンボのホテルと教会の同時爆破テロ。次から次に事件事故が発生だ。