27 と 30

昨日、2通の手紙を出しに新宿郵便局へ行った。家から貼って行った¥82円の切手(แสตมป์)だけで果たして足りているか否かが心配だったからである。郵便局員に重さを量ってもらうと¥92。やっぱり、不足だ。先方様にご迷惑をかけずにすんだのでやれやれ。
 追加の切手を買いながら、ふと近くを見ると、年賀はがきの当せん番号を知らせる紙片が置いてあった。ここ数年、当たっていてもわざわざ取りに行ったことがない。ほんの数枚しか当たらないからだ。干支の切手の絵柄にも魅力を感じない。
 因みに、3等の当せん番号は、下2桁が、「27」と「30」。少々、暇を持て余しているので、今年もらった年賀状をもう一度、見直しながら、この2つの数字を探してみることにしようか。それよりも、書き損じの年賀状や未使用のはがきを¥5を払って交換しないと、たまる一方である。
 いずれにせよ、郵便局へ行くのは面白い。人間模様がよくわかるからだ。ところが、私の家の近くに在る小さな郵便局に今月初め、なんと強盗(โจร)が押し入った(บุกรุก)。くわばら、くわばら。

新人講師と泰日文化倶楽部

新人講師であるピカピカ先生は23歳。6月17日から出講していただいているので、そろそろ1ヶ月になる。タイ語を教えるのは初めて。そのため、発音を中心にやっていただくことにし、授業の展開と文法の説明は私がやっている。真面目に頑張ってくれているので一安心だ。
 帰る時はいつも一緒に帰る。高田馬場駅のホームに立って電車を待ちながら、昨晩、私は次のように言った。
 「泰日文化倶楽部はそろそろ満27歳。あなたは23歳。ということは、あなたが生まれる前から、私は高田馬場でタイ語教室をやっていたことになるわね」
 赤ちゃんどころか、影も形もなかったタイ人が、今、こうして私を手伝ってくださっている。なんとまあ有難いことか。
 タイに関わってから46年。泰日文化倶楽部の講師達よりも私のほうが古き良きタイを知っている。しかし、郷愁にひたっているだけではいけない。未来に向かって進もう!

夏休みのお知らせ

泰日文化倶楽部の夏休みについてお知らせいたします。ここ数年、猛暑続きなので、今年は思い切って夏休みを2週間、もうけることにしました。8月7日(金曜日)から20日(木曜日)までの2週間です。約27年間、タイ語教室として実働してきましたが、こんなこと初めてです。
 理由はいろいろ。大きな理由は、タイへ旅行される生徒の皆さんが多いということ。とてもいいことです。今年3月に帰国されたアイス先生の結婚式もあることですし。
 会社が休みだと、夜の授業のために、わざわざ家から出かけて来るのが億劫だという方達もおられます。その気持ち、よくわかります。
 最近、泰日も高齢化してきておりますから、高齢者達の健康にも気遣いをしなければなりません。救急車を呼ぶわけにもいきませんから。
 お子さんがいらっしゃる主婦達はお子さんと出かけたいですしね。
 というわけで、2週間、お休みいたしますが、私は休めません。タイ人がホームステイに来ますから。

校正ミス

本を読んでいると、ほとんどの本に校正ミスがあることに気づく。一昨日、購入した『鴨居玲 死をみつめる男』(長谷川智恵子著 2015年)の中にも有った。
 「玲さん。貴方は、その時どきの‟自画像”や、数々の‟静止した刻”を、私達に残してくれました。これからも、それ等の作品が私達をゆすぶり、励まし続けてくれましょう。私達は、貴方の絵によって、独り生きることから、救われるのです。あとがとう、玲さん」
 上記の文章は鴨居玲に対する親友の弔辞である。本の最後のほうに出てくる。感動を持って読んできたのに、<あとがとう>はない。ああ、どうして、もっと校正を数人の目できちんとしなかったのであろうか。「ありがとう」という言葉はあまりにも当たり前すぎて、誰も注視しなかったに違いない。
 何故、そのように言うかというと、私自身が校正を何度もやったことがあるものの、100%、完成を見たことがないからだ。著者達の残念な気持ちが痛いほどわかる。校正作業、恐るべしかな。

東京ステーションギャラリー

昨日、東京ステーションギャラリーへ行った。「鴨居玲展」を観るためである。
 新装なった東京ステーションギャラリーに入るのは初めて。東京駅丸の内北口に在る。
 一般的な画廊よりは大きいが、美術館と呼ぶには小さい。即ち、ミニ美術館。そこが気に入った。そして、何よりも気に入った点は、駅直結ということだ。
 「鴨居玲展」の息詰まるような作品群を鑑賞した後、2階にある回廊から北口の改札口を眺める。いろいろな人生を背負った人々が足早に歩いては改札を通り抜ける。
 ギャラリーの中の作品群も人生を教えてくれたが、所用を済ませた人々からも生きた人生芸術が垣間見えた。
 地方から来て、新幹線の時間待ちをする方達には、是非ともお勧めの場所である。

『青べか物語』に出てくる漢字

 山本周五郎の『青べか物語』を読んだ。冒頭部分は以下の如くである。
 「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣場とで知られていた」
 浦粕町の舞台は浦安、そして、根戸川は旧江戸川であることは本の解説でわかった。
 私が驚いたのは、作者の山本周五郎が、難しい漢字を多用している点であった。鮠(はや)、鯊(はぜ)、鱸(すずき)、獺(かわうそ)、鼬(いたち)、葭簀(よしず)、蓆(むしろ)、莨入(たばこいれ)、半纏(はんてん)、襷(たすき)、吝嗇漢(りんしょくかん)、皺(しわ)、厩(うまや)、鬱陶しい(うっとうしい)、お饒舌し(おしゃべりし)、金轡(かなぐつわ)を嚙(か)ます、冒瀆的(ぼうとくてき)、顎(あご)、等々。
 作家なのだから、この位の漢字を原稿用紙に書き連ねるのは当たり前かもしれないが、PCソフトが無い時代だから、当然、手書きで書きまくったわけだ。昔の作家は画数が多い漢字でも、すらすら書けたということになるから、漢字を忘れることはなかった。現代は便利すぎるが故に、漢字が書けなくなっている。

サルトル と カフェ

世の中、カフェをやりたいと思う人は多い。カフェ・ブームだ。しかし、『カフェ 副題:ユニークな文化の場所』(渡辺淳著・丸善ライブラリー 平成7年)を読むと、フランスのカフェは歴史と文化が充満しており、単なる「お茶する場所」ではなかったことがわかる。
 サルトルやボーボワールが愛した「カフェ・ド・フロール」。だが、店主はこう言ったそうである。
 「サルトル! 彼は、最悪のお客だった。朝から晩まで、何か一杯注文するだけで、絶対お代りはせず、紙になぐり書きしていた」と。
 ところが、サルトルが実存主義の帝王として有名になると、客が殺到し、店主はホクホク顔。が、サルトルはそれが嫌で店に来なくなった。
 以上は上記の本を要約して引用したものだが、状況は十分に想像できる。
 今朝のニュースで京都が観光都市世界第一位に選ばれたと報じられたが、押し寄せる観光客を見て、京都人はどう思っているのであろうか。中には逃げ出す人も出ることであろう。

浴衣デー

昨日、上智大学に出講すると、キャンパスがいつもと違う。ゆかたを着た女子大生が多いのだ。女子大生に交じって、男子学生もゆかたを着ている。7月7日の七夕を、「浴衣デー」としていることを初めて知った。
 留学生達も着ている。タイ人留学生はピンクのゆかた。草履の鼻緒までもがピンク。手提げもピンク。とても可愛らしい。
 バージニアから来たという女子学生が私にシャッターを押してと頼んできたので、日本の男子学生とのツー・ショットを撮ってあげた。
 とにかく、みんな、可愛い! そして、清楚に見える。明治時代に戻った感があった。
 ゆかたの模様は様々だが、日本の伝統的な模様と色合いを見て、あらためて日本の良さに感服した。

数字のジンクス

今日は平成27年7月7日で七夕だ。この一週間、曇りか小雨の天気だから、今日も夜空のお星さまを眺めることはできそうもない。だが、いずれにせよ、27.7.7。なんだか平和な気がする。
 先日、馬場の生徒さんが彼の友人である台湾人に同行して、新築マンションのモデルルームを見に行くというので、私も一緒について行った。都心のマンションは馬鹿馬鹿しいほどの値段だが、実によく売れている。残っていたのは西向きの部屋ばかり。南向きの部屋も有るには有ったが、勧められたのは、「404号室」であった。
 台湾人はすかさず嫌な反応を示した。何故ならば、「4」は「死」に通じると思われているから。そのくらい、私にもわかった。「404号室」が売れ残っているということは、日本人も数字に敏感ということだ。病院の病室も、「4」や「9」をはずしている。「死」や「苦」が想像されるという理由によって…..。
 数字を選ぶ場面はほかにもたくさん有る。その人の人生だから、<ジンクス(jinx)=縁起の悪い言い伝え>を信じて、良い数字を呼び込むことは大いに大切!

或る歌人の人生

泰日文化倶楽部の隣りのビルに24時間営業の書店がある。昨日、そこで『無名の人生』(渡辺京二著 文春新書 2014年)を購入。
 著者の渡辺氏が熊本在住ということで、熊本の歌人のことが紹介されている。
 「戦前の熊本に<宗不旱>という歌人がいました。….中略…. その彼は、かなり豊かな商人の息子として生まれたのですが、朝鮮半島や中国大陸、台湾を放浪して硯づくりの技術を身につけ、日本に帰国後は硯工(けんこう)として生計を立てながら歌作に励みました。亡くなったのは、昭和十七(1942)年。かねて行方不明だった彼は、熊本の乗鞍山中で遺体が発見されました。まさに野垂れ死にです」
 著者は<陋巷に生きる>というテーマとして、この歌人を紹介しているわけだが、私は違った角度からこの歌人に興味を持った。大陸に渡り、硯づくりの技術を身につけたことはすばらしい。単なる大陸浪人として放浪しただけではなかったのだ。