ボクサーの来訪

昨日の「タイ語入門 土曜日11:00」のクラスは、生徒達に諸事情が生じたために、出席者はわずかに2名であった。2名となると、セミ・プライベートの授業に等しい。参加者は大いにお得感を持ったことであろう。
 タイ人講師と私における情熱的な授業が終わったあと、私は一人、707号教室で座っていた。すると、携帯が鳴った。「ホームページを見ると、土曜日12時半から新しいクラスが始まるそうですね」
 私は答えた。「はい、その予定でしたが、希望者が出なかったため、開講できませんでした」
 「今、新宿にいます。泰日文化倶楽部の授業についてどうしても聞きたいので、これからそちらに行ってもいいですか?」と、彼は言った。
 電話の主を待つこと15分。教室に招き入れて、いろいろと話をした。「生徒が集まらなかったので、開講できませんでした」と正直に話をした。だが、彼は引き下がらない。どうしてもタイ語を勉強したいとのこと。
 彼は精悍な顔をしたキックボクサーであった。来月、タイへ武者修行に出るそうだ。6年間、キック・ボクシングの練習を積んできたが、タイにはまだ一度も行ったことがないので、来月中旬の出発前までにタイ語の基本を把握しておきたいとのこと。
 「わかりました。それでは、あなたのために、土曜日12時30分のクラスを開いてさしあげましょう」と、私は思い切りよく言った。新年早々、私にも闘魂の火がついた。

戻って来た年賀状

今年、出した年賀状が2枚、戻ってきた。1枚は、名宛人が外国へ行ったものと思われるが、もう1枚はどうして戻ってきたのであろうかと首をかしげた。だが、去年の年賀状の筆跡がきわめて危うい感じを呈していたため、もしやと危惧しながら、ネットで調べてみると、やはり…..。
 私の年賀状を受取るべき女性は社会学者として大いに活躍なさった方である。特にアジアの女性の地位に関する研究をしておられた。その彼女が昨年2月に亡くなっておられたとは。
 10歳年上の彼女とは今から46年前、下宿が同じであった。その下宿にはフランス文学の研究者も住んでいて、ものすごくアカデミックな下宿であり、皆で知的な話に花を咲かせたものだ。彼女がタイへ会議に行かれる時には、助言を求められたので、私の知識を提供した。すると、赤坂見付のレストランで美味しいロースト・ビーフを御馳走してくださった。
 彼女は生涯、独身をつらぬき、研究に没頭された。互いにずっと年賀状を交わしてきただけに、戻ってきた年賀状を見ながら、淋しさを覚えた。

象使いのプム君

昨日、タイ語の勉強に見えた象娘3人のうちの一人が悲しいニュースを教えてくれた。「先生が乗った象の象使いのプム君が去年9月に亡くなったそうですよ。象は2日間、泣いたとか」
 そのニュースを聞いた時、私はすぐには信じられなかった。しかし、彼女は年末にランパーン県の国立象保護センターへ行き、その話を直接、象使いの仲間から聞いて来たわけだから嘘ではない。
 象使いの名前はプム君。私が彼のお世話になったのは約7年前。彼は愛くるしい目を持ち、そして丸顔をしていたので、私には田舎の少年そのものに見えた。その時、彼は22歳。
 象保護センターには2回行ったが、2度目も彼のお世話になった。象に乗った彼の雄姿を何枚も写真に撮らせてもらい、そのうちの1枚を手帳に挟み、この7年間、ずっと持ち歩いていたというのに…..。
 酒を飲み過ぎて肝臓を悪くしたために死んだということを聞いても、またまた信じられなかった。あの少年が? 私の脳裏の中にあっては、彼はいついつまでも少年なのである。

たくさんのお土産

泰日文化倶楽部では1月7日から授業を開始したが、タイ人講師や生徒達からいろいろなお土産を頂戴した。スウェーデンとフランスとフィリピンへ旅行しておられたボン先生からは、フランス菓子のゼリーとレモングラスの香りがする石鹸、そして、フィリピン製の白いレースが張られた扇子がプレゼントされた。美しい扇子なので、早く使いたい。今から夏が待たれる。
 生徒達からは、タイのお菓子を数種、そして台湾の干しパイナップル(鳳梨干)、等々を頂いたが、昨夜はさらに思いがけないお土産が…….。
 「タイ語入門 木曜日20:30」のクラスには一人の欧米人が生徒として、昨年10月からタイ語を勉強しておられる。その彼が年末年始にタイへ旅行され、昨夜、クラスの皆さんにお土産を持ってこられた。そして、「まずは吉川先生におみやげです」と言って、私に特別なるお土産を手渡した。
 それは、バティック模様の布で作られた馬のキー・ホルダーであった。彼は今年が午年であることを意識して選んだに相違ない。そのキー・ホルダーには、他に象の木彫りや貝もくっついているが、象の大きさは馬の1割にも満たない。午年ということで、タイの象さんも遠慮しているようだ。

泰日文化倶楽部 スタート

泰日文化倶楽部の2014年がスタートした。2週間、すなわち、半月も休みがあると、生徒達は元の感覚に戻すのが大変だ。もうこのままやめてしまおうかという気持ちになるのも分かるような気がする。
 だが、心配は杞憂であった。生徒の皆さんは待ちきれなかったような顔で教室に現れた。安堵した。
 タイ旅行から帰って来たばかりの生徒達は、いずれも皆、ハイ・テンションである。楽しかったタイ。それを思い出す顔は紅潮している。「また行きたい! すぐ行きたい! よし、今年はタイ語の勉強、頑張るぞ!」 
 昨日は、教室を借りて自主的に運営している韓国語クラスもスタートした。ものすごく仲がいいクラスである。私も生徒の一人として末席に座っているが、レベルが高すぎて全くついていけない。だが、やめないでいる。ただただ座っているだけにすぎないが、韓国語の空気を吸うことで、何かが身につけばいいと思っている。
 ソウルへ行って来た幹事さんが、おみやげに韓国の餅を温めて持って来た。淡いピンク色の餅。豆がたくさん入っていて、まことに目出度い気分になった。よし、今年も、餅の如く粘り強く、そして、豆の如くまめまめしく動こう、そして、働こう!

学生達のアルバイト先 と タイ人

昨日から大学が始まった。2週間ぶりに会った学生達に訊いてみた。「皆さん、この冬休み中にタイ人と会って、タイ語をしゃべりましたか?」
 すると、H君が最初に手を挙げた。「ユニクロでバイトをしているのですが、タイ人がたくさん来ました。僕の知っているタイ語の単語が聞きとれたので、タイ人だと確証しました」
 次に、N子さんが語り始めた。「長野のスキー場近くのホテルで泊まり込みのバイトをし、料理のお運びをしたのですが、タイ人達を見かけました。アロイ マイ ? と言っても、最初は反応が無かったので、もう一度、アロイ マイ? と言うと、私がタイ語で話しているのに気がついたようです」
 昨日の授業では、偶然にも客人を招いた時の表現を習うことになっていたので、N子さんは、長野へ行く前にこれらを勉強しておけばよかったと悔しがった。
 T君は携帯電話店でバイトをしているそうだ。「東南アジアの人達がたくさん店に来ました。タイ語だと思って聞いていても、さっぱりわからないんです。ものすごくタイ語に似ていたんですけど」 彼は書類を書いた客の名前を見て、初めて気がついたとのこと。タイ人ではなくてベトナム人であったということが。
 いずれにせよ、嬉しそうに語る学生達を見て、私も嬉しくなった。

日本列島始動

今日から日本列島は仕事始めです。昨日は<小寒>。寒いのは当たり前。タイから帰って来られた方達は特に寒く感じることでしょうね。しかし、早く気分を切り替えて、ゴールデン・ウィークの休暇が来るまで、頑張って働きましょう!
 泰日文化倶楽部の授業は、明日7日(火曜日)からスタートいたします。今日からではありませんよ。どうか間違えないでくださいね。ボン先生もヨーロッパから無事に帰京され、授業に対してスタンバイしておられます。
 生徒さんから頂いたメールの中には、「2015年、どうか頑張ってください!」というのがありました。おそらく打ち間違えたのでしょう。でも、私といたしましては、2014年と2015年の2年間、頑張れという激励を受けたような気持ちになりました。
 昔、茶道を習っていたことがありますが、その茶道の先生が百歳をお迎えになられたということを友人から知らされました。見倣いたいものです。
 泰日文化倶楽部の生徒達の中で最高齢は81歳の男性です。すでに3月末までの授業料をお納めになり、意欲満々でいらっしゃいます。2ヶ月毎のチェンマイ詣でも、いまだ欠かしたことがありません。彼に負けないで、後続組もテンションを上げて、タイ語を勉強しようではありませんか。

ワイ(合掌) と おもてなし

今年の年賀状の中からとっておきの1枚をご紹介させていただきたい。それは元生徒A子さんからのものであった。彼女は昨年10月に2歳半位の娘さんを教室に連れて来られた。娘さんの名前は、はなちゃん。私ははなちゃんが退屈をしてはいけないと思って、『タイ語文字練習帳』の本をプレゼントした。書かれている鶏や魚の可愛い絵に色をぬって遊んでもらいたかったからだ。
 年賀状の文面を要約すると、こうである。「娘は実の祖母以外、ばあばとは呼ばないのですが、タイ語の本を指し示しながら、<ばあばがくれた>、と言ってます。何か感じたのでしょうか。ワイ(合掌)をしている絵を見ると、おもてなし、と言うんですよ」
 なるほど、昨年の流行語となった言葉とあのジェスチャーは、はなちゃんにはとても印象的だったようだ。それにしても、ワイ(合掌)の絵を見て、「おもてなし」とは!
 年賀状の写真は七五三の記念写真であった。「娘が着ている着物は、私の曾祖母がつくってくれたもので、私が3歳の時に着たものです」とA子さんは添え書きをしていた。 とすると、はなちゃんにとっては、ひいひいおばあちゃん(高祖母)。
 A子さんのご実家は日本橋で代々続く呉服店。はなちゃんが着ている着物は赤。それはそれは美しい。百年以上前の着物。日本の伝統美は永遠なり。

走るということ

元日は全国実業団駅伝、そして、2日と3日は箱根駅伝を見て過ごした。東洋大学の安定した走りはどのスポーツ関係者も絶賛。東洋、強し!
 その他に、走る番組をもう一本、見た。それは、メキシコのコッパーキャニオンに住む「ララムリ=走る民」を取材したものだ。男も女も、大人も子供も走る。いやはや、とにかく走る。競技の時でも、普段着で走る。だから、女性はギャザー・スカートのまま走る。
 一番速く走り、競技大会で数々のメダルを獲得している男性をカメラがずっと追って撮影を試みたが、彼は実によく走った。「競技大会に備えて、どんなトレーニングをしているのですか?」と取材する側が尋ねると、「いや、別に何もしてはいないよ。朝夕、水汲みをしに山を下りたり上ったりしているからね。ただそれだけ」
 私はスポーツはからきしダメ。したがって、走るのも嫌いだ。だが、ひるがえってよくよく考えてみるならば、1969年4月に社会人の仲間入りをしてからというもの、失業することもなく、好きな仕事に恵まれて、ひたすら働いてきた。あと3ヶ月で満45年になる。「働く」ということを、「走る」と同じ次元と見るならば、私も「ララムリ=走る民」に負けず劣らず、走り続けてきたことになる。

泰日文化倶楽部が懐かしいというメール

新年のご挨拶メールを何通か頂戴したが、その中に、「泰日文化倶楽部で勉強していた頃がとてもなつかしいです」というのが有った。そのメールの主は15年位前に東京から横須賀にある実家に戻り、そこで新たなる出発をなさったY子さんである。教室に小学生のお嬢さんを連れて来られたこともある。
 千葉県在住のN子さんから頂いた年賀状も嬉しかった。6ヶ月の息子さんを連れて来て、教室の机の上にお座りさせたことがあるが、その息子さんも22歳。今春は社会人だ。
 神奈川県、千葉県、そして、埼玉県でも、タイ語の勉強をしようと思えばできないことはないが、意外にもタイ語教室は少ない。したがって、泰日文化倶楽部に通って来られる生徒達も、これら3県からの方達が多い。さらには、茨城県からの生徒さんもおられる。電車賃のほうが受講料を上回っているから、タイ語を勉強したいという意欲に頭が下がる。
 1回、1回ごとの授業ではほとんど何も分からないであろう。しかし、点と点をつないで線にしていこうではないか。そして、線と線をたくさん繋げて「面」を作っていくのだ。
 泰日文化倶楽部の存在を懐かしがってくださる方達は、きっとおそらくタイ語というパッチワークの布を大切に持っておられるにちがいない。時間があれば、是非ともタイ語の勉強を再開し、自力で「タイ語の面」を増やしていってもらいたい。