昨日、タイ語の個人レッスンを受けている台湾青年からご招待を受けて、「第15回 Street Jam」というダンスの発表会に行った。
主催者は、BEAT BOXを主宰する工藤貴弘氏。安室奈美恵やAKB48のダンス指導をしている方である。
出演した男女比は男性が3、女性が7といった感じであった。いやはや、若者パワーのすごいこと。 特に女性の動きには圧倒された。若者にとっては、狭い部屋で語学を勉強するよりも、ダンスのほうがはるかに面白いことがよくわかった。
公演後、台湾青年とロビーで会った時、たまたま隣りにいた工藤氏を紹介された。「彼、中国語もできますよ」、と。
それを聞いて、なるほど、だから中国人の心もつかめるのだなあと思った。
日本赤十字病院の診療費領収書
若者のストリート・ダンスの公演を2時間、真面目に見たところ、私には照明がどぎつかったらしく、その時は気がつかなかったが、元生徒さん達との夜の会合が終わる頃、急に頭が痛くなった。
心配した皆さんが、是非とも病院へ行ったほうがいいというので、レストランから近くて急患を受け入れる病院を探し出してくれた。病院は、日本赤十字医療センター。
問診の結果、念のためにということで、頭のCTを撮った。特に異常がなかったので、薬ももらわずに帰宅した。
翌日、日赤病院の領収書を見てみた。すると、すべて英語訳付きであった。私が感心したことは、赤十字の創設者であるアンリ・デュナンの言葉が裏面に書かれていたことであった。
「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い生命は救われなければならない」
尾道の真珠さん
結婚以来、ご主人の仕事の関係で尾道に住んでおられる真珠さんから暑中見舞いの絵葉書が届いた。絵は彼女の自宅で栽培した麦を友人のアーティストが描いたものであった。
「อาจารย์โยชิกาวา、お元気ですか? 私はタイ人研修生の通訳と、フィリピン人研修生の英語通訳の仕事が増えてきました。技能講習です。吉川先生とお話したくなることが度々あります。次回、東京へ行った際には是非お会いできたらと思っています。先生も、万が一、尾道近辺にお越しの際は、是非ともご連絡をくださいね。いろいろとご案内したいです。暑い日が続きますが、ご自愛くださいませ」
東京つ子である真珠さんが、すっかり瀬戸内の生活に馴染んでいるようで一安心。彼女の場合、日本の田舎に行こうが、タイの地方に行こうが、そして、インドに住もうが、全く関係ない。持ち前の行動力と語学力で、周囲の人達を明るく抱擁するパワーを持っている。
瀬戸内でタイ語や英語の通訳をするということは、瀬戸内沿岸にタイ人やフィリピン人が働いていることになる。たしか造船関係だと聞いたことがある。
昨日は、浜松の海でベトナム人が亡くなった。そして、千葉の銚子ではタイ人が飲酒運転をして、日本人が亡くなっている。もはや、日本全国、どこにでも外国人が住むようになった。犯罪も事故も外国人がらみが多い。少しでもお役に立てるよう、語学力をつけておこう。
捕虜第一号
アジア文化社からいつも謹呈本が送られて来る。編集・発行人である五十嵐勉氏は昔の生徒さんだ。
『文芸思潮』(第55号 2014年4月発行)の中に、岸積氏(元徳島新聞論説委員長)が書いた「生き残った真珠湾攻撃士官 坂巻和男」というドキュメントが掲載されていた。
そこには、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗っていた酒巻少尉(徳島県出身)が開戦2時間前に米軍に見つかり、<捕虜第一号>になってしまったことの経緯が書かれている。この話は戦後になるまで日本国民に知らされることはなかったそうだ。
さて、捕虜第一号となった坂巻少尉は、やがて捕まって来た捕虜達と共に、収容所を転々とさせられ、行き着いた先がウィスコンシン州のマッコイ収容所であった。捕虜になってからの2年間、彼は戦陣訓を守り通すために、沈黙し、正座謹慎を続けた。米側は困惑して、「欲しい物があれば言え、何でも支給するから」と言ったところ、彼は初めて、「毎日の新聞、筆記具、辞書などの図書」を要望。それから以後、彼は所内の学校で開かれる教育講座を欠かさず聴講。英語、米国史、米国事情一般を学ぶ。そして、収容所内きっての英語力で、捕虜達と米側の間に於ける折衝を一切引き受け、名実共に捕虜の指導者となった。
著者の岸氏はこう評価しておられる。坂巻は「捕虜第一号」と言うより、優れた「ナンバーワン捕虜」であったと。
岸氏のまとめられた文章から私が学んだこと、それは、どんな逆境であるにせよ、言葉を学ぶことは極めて大切であり、言葉は我が身を助けるだけではなくて、友をも助けることができるということだ。
旧岩崎邸庭園 と ボランティア・ガイド
昨日は仕事も用事もなく、実にのんびりとした一日であった。出かけるあてもないまま山手線に乗る。一周しながら考えようと思ったが、結局、上野駅で降りた。上野で開催されている台湾の故宮博物館展は人が多そうなので避ける。桜並木の横手にある花園稲荷にお参りし、おみくじを引く。中吉なり。おみくじの裏面には英語の訳文が書いてあった。中吉は、”very good”と訳されていた。
不忍池は蓮、また、蓮。池之端沿いに出ると、旧岩崎邸庭園の案内板が目にとまったので、矢印に従って行くと、大きな門と壁。チケット売り場までの坂道は静寂そのもの。坂を上がると、威風堂々たる洋館が目に飛び込んできた。明治29年(1896年)の建築物で、ジョサイア・コンドルが設計したものだそうだ。
洋館内部を見てまわっていると、ボランティア・ガイドの老人が現れ、数人に向かって岩崎家の家系図を説明し始めた。一通り説明が終わると、次に洋館と隣接している和館の建物まで移動させられた。そこでも歴史的な話をたくさん聞かせてくださった。月に2回、ボランティアで解説しているそうだが、年代も、系図も、すべて詳しい。80歳くらいの方とお見受けしたが、頭脳明晰。それに話の展開がすばらしい。
帰宅後、さっそく岩崎家の系図をネットで調べて、明治から現代までを勉強。ちらしの表には「時の風が吹く庭園」と書かれている。また行ってみたい。
澤田美喜 と エリザベス・サンダース・ホーム
旧岩崎邸のサンルームには、そこで撮影された岩崎家の家族写真が置かれてあった。真ん中に立っているのは、岩崎久彌氏(御当主・三菱財閥第3代目総帥)の長女である美喜。外交官と結婚してからは澤田美喜。
彼女が戦後まもなくしてエリザベス・サンダース・ホームを開設し、米軍兵士との間にできた混血児を引き取り、混血児救済に精魂を傾けた彼女の活動には、私も戦後生まれだけによく耳にした。
外交官夫人としてイギリスにいる時、彼女はロンドン郊外にある孤児院の施設を訪問し、「すべての子ども達が人として生きる権利を擁護する働き、<中略>、子ども達が貧困や虐待、差別から解放されること、逆境や障害に出会っても立ち向かい…<以下割愛>」という理想を学んだことが、エリザベス・サンダース・ホームの設立につながったそうだ。
澤田美喜は東京女子師範(注:現在の御茶ノ水女子大学)を退学し、津田梅子女史に直接、英語を教わったとのこと。それは外交官夫人の時、大いに発揮され、錚々たる友人を得た。外交の場所で視野を広げ、血となり肉となった精神を、46歳から78歳で亡くなるまで孤児救済に向けた。彼らの学ぶ学校まで創設し、働く場所としてブラジルに農場まで開いた。
Wikipediaでは、彼女の肩書を社会事業家と書いてある。彼女の精神は今も継承されている。新聞紙上をにぎわしているタイの代理出産ビジネスとは、そもそも理念が異なるのだ。
イベット・ジロー
昨日は台風が四国と関西に上陸したため、全国的にいろいろな祭りや催事が中止された。東京湾の花火大会も順延無しの中止と発表された。
昨晩、友人達と食事をしながら、私は言った。「イベントが中止になると、弁当屋が儲からないわよね」
私としては、イベントと弁当(ベントウ)の両方の音を列挙し、音遊びをしたつもりである。さらに続けた。
「そうそう、イベット・ジローが亡くなりましたね」
これを聞いて、若い人が、「イベント・ジローって誰ですか?」と言った。
「違いますよ。イベット・ジローですよ。フランスのシャンソン歌手。日本によく来ていたのよ」
イベット・ジローは行年97歳。イブ・モンタンと同世代で、「愛の賛歌」が得意であった。
校歌 vs ポップス
昨日から甲子園で第96回夏の高校野球が始まった。甲子園球場は、今年、御年90歳を迎えたとのこと。
高校野球が開催されると、代表高校の校歌が流される。いささか軍歌調ではあるけれど、山紫水明の文言が歌詞に組み込まれているので、全国の代表的な山や川の名前を聞くことができる。
そして感心する点は、ほとんどの歌が合唱して歌われているにもかかわらず、まるで一人の歌手が歌っているかの如く、歌詞が鮮明に聞き取れることである。
最近、私から日本語を習っているタイ人が、「この歌、訳してください」と依頼してきた。まずは歌詞を聞き取る作業から始めたわけだが、その肝心の歌詞が聞き取れない。何度聞いてもわからない。
最終的には、タイ人がネットで調べてきたが、とてもそのようには聞き取れなかった。たとえば、「ただただ」という表現が、「たらたら」にしか聞こえなかった。私は自分の耳を疑ったが、若い歌手の歌い方にも問題があると言いたい。
さらに、歌詞の意味を訳そうとすると、主語が曖昧な上に、人間関係における言葉の使い方も昔とは異なるので、非常に訳しにくかった。
鴻巣の由来
昨日、急な仕事で鴻巣へ行った。池袋から湘南新宿ラインでわずか47分。乗り換えも不要だから、らくらく行ける。ホームに降り立つと、草の匂い。おお、なつかしい。
鴻巣の人口は約11万6千人。そのうちの16%が東京へ通勤しているそうだ。東京から50キロ圏内なので、住宅がいっぱい。
私の関心は「鴻巣」という漢字にある。ネットで調べてみると、昔、ここに「国府の州 こくふのす」が有り、それがやがて「こふのす」と呼ばれるようになったが、時間が経つうち、「鴻巣」と書かれるようになったそうである。めでたいコウノトリにあやかったみたいだ。
旧中山道を車で通ってみたが、夜はチェーン店の灯りばかり。人は全く歩いていない。日系ブラジル人がたくさん働いているとのこと。
昨日のことを思い出しながら、ベトナムの蓮茶を一服。何故ならば、中国人やベトナム人の名前には、「繁盛」を意味する「鴻 ホン」という漢字がたくさん使われているから…。
ポチ と ハチ公
『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央著 文藝春秋刊 1998年)の中に、次なるくだりがある。
「二葉亭の犬猫を好むことは尋常ではなかった。官報局に勤めはじめたばかりの頃、役所からの帰り道についてきた狐に似た醜い犬を飼い、ポチと名づけてかわいがった。居留地のフランス人が飼い犬を<プチ>と呼び、そのなまりの<ポチ>が明治日本に広まり、以来日本の犬の代表的な呼称となったのである」
なるほど、明治の人には、<petit>というフランス語が、<ポチ>に聞こえたというわけか。だが、「a, i, u, e, o」という母音しか無い日本語においては、そう呼ぶしかなかったのであろう。文明開化の明治時代、フランス人が話すフランス語は相当におしゃれに聞こえたはずである。
ところで、昨日のニュースで、渋谷駅周辺の開発が本格的に始動し始めたものの、ハチ公の今後の設置場所が決まっていないそうだ。純日本風の立派な名前のハチ公。今では、珍しい名前になってしまっているが、忠犬ハチ公よ、永遠なれ!