日本語の助詞は、日本人であれば自然に使っているので、別に何でもないと思っていたが、『好楽日和』(三遊亭好楽著 晶文社 2012年)の中にとても傑作な話が書かれてあった。
三遊亭好楽の娘さんが失恋して泣いている時、父親としてなぐさめようと思ったいきさつを次のように書いている。
「なあ、おまえ、人間は顔じゃないんだから」と言おうとしたのだが、どうも少し酒が入っていたせいか口が滑って、「なあ、おまえは人間の顔じゃないんだから」と、言っちまい、よけいに泣かれましたよ。日本語って難しいですねえ。ちょっと言葉が逆さまになっただけで、とんでもない意味になっちゃうんですからねえ。
父親が噺家だから、娘さんも許したと思う。だが、このような実例を知ると、日本語も注意して話さないと人間関係がおかしくなる。
オープン・ガーデン
郷里の友人に数十年ぶりで電話をしてみた。すると、彼女はオープン・ガーデンというものを実施しており、大勢の方達が見学に来られていると言った。
オープン・ガーデンのことは雑誌やテレビで紹介されたのを見たことがあるが、まさか私の友人もやっているとは!
聞くところによると、一年中、何らかのお花を咲かせているそうだ。
「お花に囲まれて素敵な生活ですね」と私が言うと、彼女は答えた。
「お花に遊ばれているだけよ」
<花に遊ばれる>という表現。何とまた風流で、奥が深いことであろうか。
「触る」というタイ語
ゴールデン・ウィーク中に大阪へ行った生徒さんから面白い話を聞かせてもらった。「駅の地下道に、<痴漢あかん>という貼り紙が貼ってありましたよ」
それを聞いて、大阪弁ならではの標語だなあと思った。響きがいい。そして、実にわかりやすい。
そこで、「皆さん、<触る>というタイ語は何と言いますか?」と、生徒達に尋ねてみた。
一番、最初に、<จับ ジャップ>と答えた方がいたが、それだと、少し力が入りすぎている。腕をつかむという感じだ。因みに握手だと、<จับมือ ジャップ ムー>。
次に、<แตะ テェ>が出たが、これだと力が入らず軽すぎる。例:「แตะหน้าผาก 額に手をあてる」
その中間で、自分の愛情を相手に感じてもらう触り方は、「สัมผัส サムパット」であると、タイ人講師は説明した。
このような単語の使い方の違いを知ることができるのは、やはり生きたタイ語教室ならではのことだ。
喫茶店の伝票
昨日、仕事の帰りに練馬の古書店に行ってみた。だが、閉まっていた。女店主は元気にしておられるであろうか?
そこで喫茶店に入り、新聞を読む。ふと伝票の裏に目がとまった。
「生涯の願い私の生涯の願いは タッタ一人でよい
この店は 私にとって だいじな店です
と いって下さる お客様という名の 友人をつくること」
と書いてあった。「店」を「塾」、そして、「お客様」を「生徒さん」に置き換えると、OK。我が泰日文化倶楽部も、その精神で行こう。
前置詞「สำหรับ ~にとっては」
泰日文化倶楽部は昨日から再び始動。B先生はまだタイでバカンス中であるため、私が代講。生徒達の出席率は80%。まずまずだ。由としよう。
ところで、自分のテキスト(非売品)はよく出来ていると思っている。自分が作ったから、この課では、このポイントを是非とも覚えてほしいという願いがこもっている。
昨日は、前置詞「สำหรับ ~にとっては」というのが出てきた。「私にとっては、何でもいい」という基本文型だ。タイ語入門のテキストでは、「何でもいい」という簡単な表現しか教えないが、タイ語初級になると、「私にとっては~」、「私の場合は~」の表現を追加して覚えさせる。なんと大人っぽいことか!
この前置詞を多用すると、いくらでも表現の幅が広がる。「私にとっては、タイ語の勉強が難しい」から始まり、「私にとっては、この部屋は広すぎる」も言える。究極的には、「私にとっては、健康第一!」も言えるようになる。もちろん、私だけではなくて、「日本国にとっては~」と、時事ネタも話せるようになる。
教科書に出てくる文型はほんの一例だ。応用表現を駆使して、1時間くらいお喋りマラソンをしてほしい。。
五月の言葉
昨日、雑司ヶ谷界隈を散歩した。そして、大鳥神社にお参りして、東京都神社庁が発行している「生命の言葉 五月」の紙片をいただいた。
「是非の初心を忘るべからず 時々の初心を忘るべからず 老後の初心を忘るべからず 世阿弥」
解説=物事をはじめた未熟なころの初心を忘れてはいけない。それぞれの成長段階における初心を忘れてはいけない。老境に入った時の初心を忘れてはいけない。人生は常に新しい初心との遭遇で、これら初心の積み重ねが無限の可能性につながるのである。
ゴールデン・ウィークは終わった。今日から泰日文化倶楽部は再始動する。各自、新たなる気持ちでタイ語力を向上させよう!
原宿のポスト
一昨日、原宿へ出かけた。私の家から副都心線に乗ると明治神宮前までは15分で行ける。
いやはや人の多いこと。そして、外国人の多いこと。アジアパワーは日々、確実に更新されていること間違い無し。
私は一通の手紙をかかえており、どうしても早く投函しなければならなかった。そのため、ポストを探した。だが、なかなか見つからない。「ポストよポスト、あなたはどこ?」と心で問いかけながら歩く。ポストが無いはずはなかろう。だが、スマホの時代だからなあ….。
よし、執念で探してやるぞと気合を入れた途端に、目の前にポストが! だが、そのポストはペンキが剥げて、褪せた赤色をしていた。おまけにたくさんの落書きがされており、街のアート作品かと見まがうほどであった。本当にポストかしらと半信半疑で投函する。場所は竹下通りと明治通りが交差するところだ。
大勢の外国人が歩いているというのに恥ずかしい。ポストの落書きだけはやめてほしい。
寮友からのメール
昨日、寮友から同窓会に参加するというメールをもらった。彼女とは卒業以来、3回しか会っていない。ということは、平均して15年に1回の計算になる。
「おかげさまで医者知らずのビンボー生活を満喫しています。今頃、社会運動に目覚め、デモやら集会に行っております、その合間をぬって、ペンキ塗りやら、韓国語の勉強をしています。毎年変わるのですが、今年の私のテーマは沖縄とソウルです」
彼女と個人的な話はしたことがない。それだけに、これだけ書いてくださったことに感激。そして、韓国語をやっていることにも声援を送りたくなった。
それにしても、毎年、テーマを決めて活き活きと生きておられるとは! さすが我が寮友だ。
5月8日に無料体験クラスを開講
5月8日に、「タイ語入門 金曜日19:00」クラスを、706号教室に於いて、無料体験クラスとして開講する。
一般的に何かの勉強を始める場合、日本人は4月から始めるという習わしがあるが、最近はあまりにも忙しく、4月はそれどころではない。何故ならば、会社が忙しすぎるから。
だが、ゴールデン・ウィークでやっと一息つくと、周囲は新緑だし、何かを始める気持ちの余裕も出てくる。五月病を防ぐためにも、日常生活において、週に一度は異なる環境に自分を置くのはいいことだ。そのうちの一つとして、外国語はいかが?
『<新ことば>の課外授業』(西江雅之著 白水社刊 2012年)の中に、次なる文章がある。
「その人自身が日常的に、たとえば五千単語以下しか使っていないとしたら、外国語を学習しても、それぐらいの数までしかいかない。第二言語だけ急に一万語身につくということはあり得ないことなのです」
これを読んで、なるほどと思った。外国語の上達以前に、日本語の語彙力、表現力をつけなければ。そして、それと並行して、外国語を学べば、平衡感覚のある自分を創造できること、間違いなし。
会話力をつけたい!
目下、タイへ旅行中の生徒さんからLINEが送られてきた。それには、「会話力の無さを実感している」という内容が書かれてあった。私はすかさず、「สู้ สู้ สู้ 頑張って! タイ人とたくさん話してください!」と書いて返信した。
はてさて、会話力を高めるにはどうしたらいいか?
それには、おしゃべり屋さんであることだ。積極的にしゃべる性格に自己改造しなければすべては始まらない。そして、好奇心の塊であることだ。一番いいのは恋愛だが、そういう恋の季節を通り越してしまった年齢層の方達が意外にもたくさんタイ語を習っている。とすると、タイへ行き、自分ひとりで武者修行の旅をすることである。親しい友人に甘えていてはいけない。友人はあなたのタイ語力を向上させてあげようとは思っていない。一緒にいるだけで自然な時間が流れるわけだから、あまり勉強にはならない。
友人に頼ることなく、知らないタイ人の中に自分を置き、言いたいことを言って、聞きたいことを聞く。そうすれば、会話する勇気と自信がおのずから身につくはずだ。