久々に宿題を出す。以下に列挙するタイ語に相当する部類の単語をタイ語で書いてみよう。初級レベルの生徒は5語ずつ、そして、中級レベルの生徒は10語以上を目指すこと。
(1)เครื่องปรุงรส
(2)เครื่องมือ
(3)เครื่องดนตรี
(4)เครื่องเขียน
(5)เครื่องสำอาง
久々に宿題を出す。以下に列挙するタイ語に相当する部類の単語をタイ語で書いてみよう。初級レベルの生徒は5語ずつ、そして、中級レベルの生徒は10語以上を目指すこと。
(1)เครื่องปรุงรส
(2)เครื่องมือ
(3)เครื่องดนตรี
(4)เครื่องเขียน
(5)เครื่องสำอาง
昨日、NHKのBSで、「第一回左手のピアノ国際コンクール」(於:箕面市 2018年11月2~4日)が再放送された。ピアノの音色を聞きながら編物をしていたところ、突然、私の手が止まった。何故ならば、そのコンクールにタイ人青年が参加しており、タイ語が聞こえてきたからである。
NHKは出場者の数人に関して、彼らの精神的苦悩を生活の場にまで入って取材していたが、その中の一人として、タイ人青年のガン・チャイキティワタナさん(21歳)も含まれていた。
したがって、映像はバンコクに飛び、ガンさんがマヒドン大学の恩師を尋ね、恩師から「左手のピアノ国際コンクール」に出ることを勧められる様子が映し出された。その恩師は日本人女性で、バンコクに20年も居住し、タイ人にピアノ指導をしておられるとのこと。コンクール当日にも応援に駆けつけておられた。すばらしい指導者であることか!
ガンさんは2位であった。彼はヨーロッパのオーケストラと一緒に演奏したこともあるので、高度な技術と精神力の持ち主であることが素人の私にもわかった。局所性ジストニアという病気(=脳が誤作動を起こし動かしたい部位が思うように動かなくなる)を抱えた彼。しかし、同じ病気をかかえる日本人ピアニストと同じく、ピアノにかける情熱はプロ級であった。
泰日文化倶楽部が入っている雑居ビルに、独り住まいの高齢者が二人(男性と女性)おられる。そのお二人とエレベーターホールでお会いすると、積極的に声をかけてあげることにしている。特に、女性とは立ち話をして、健康へのエールを送ってあげる。先日、彼女はこう言った。
「娘が自分の家の近くに介護施設を予約してくれており、いつ行ってもいいことになっていますが、私は行きません。施設に入ったら、買物に行けなくなりますからね」
彼女の御主人は税理士(นักบัญชี)であられた。7年前に他界されたが、かつて私はそのご主人と一緒に管理組合の理事をしていた。したがって、税理士事務所にもお邪魔したことがあるが、その際、奥様がしっかり計算をしておられる姿を見た。
15年後の今、彼女は91歳。もうすぐ92歳だそうだ。一回も骨折をされたことがないとのこと。骨格が強いのであろう。
いずれにせよ、数字に強いことはいいことだ。まだまだ一人暮らしはできる。
ひるがえって語学を習う我々は単語を覚えることで脳を鍛えよう。そして、90代を目指そう。
昨日、泰日文化倶楽部の初代のタイ人講師から次なる文面と30年前の写真がラインで送られて来た。美しい文章だ。タイ語作文のお手本として、最後の段落だけ紹介させていただく。
ในคราวที่ฉันเดือดร้อนในชีวิต อาจารย์โยชิกาว่าเข้ามาเปลี่ยนแปลงการเดินทางแห่งชีวิตเสมอค่ะ ไม่ทราบว่าจะได้มีโอกาสตอบแทนอาจารย์อะไรได้บ้างค่ะ ที่แน่ๆคือความรู้สึกขอบคุณจากหัวใจและความรู้สึกภูมิใจที่ได้มีโอกาสรู้จัก สัมผัสกับคนดีอย่างอาจารย์ค่ะ
文章もさることながら、驚いたのは、30年前の私の顔がものすごく若くて、明るくて、活き活きとしていること! いやあ、実に若かった。感激したあまり、数人の人にラインでその写真を転送したところ、初代の先生を知っている生徒さんからすかさず返信が有った。「懐かしいです!」
タイからは、「สาวสวยมากเลยค่ะ」という嬉しいレスポンスが有った。
最近の私は守りに入り終活のことしか考えていない。これではいかん。30年前の溌剌とした私に戻ろう。
「เข้มแข็งดังเหล็กกล้า」という意味を教えてくださいという生徒さんがいたので、「鋼鉄のように強い」とまずは直訳をしてあげた。文語調に訳せば、「強きこと鉄の如し」である。
鉄(เหล็ก lek レック)という単語はあまり使う機会がない。ゴルフ好きの方には「アイアン」としてよく使っている単語ではあるが….。私がよく例に挙げるのは、「母(แม่)+鉄(เหล็ก)」=磁石。母が出て来るところが面白いと思うからだ。
「鉄(เหล็ก)+硬い(กล้า)」=鋼鉄(steel)。กล้า(klaa グラー)という単語は一般的には「勇敢な」とか、「敢えて~する」という意味で使われることが多い。それ以外に、「強い、硬い」という意味があることを知った。
「เข้มแข็ง ケムケェング 強固な」という単語を発音すると、いかにも強くて硬い感じがする。自分に気合を入れるのにピッタリ。
最近、タイ語を習いたい方達からの問い合わせが増えてきた。もしも習うのであれば、「เข้มแข็งดังเหล็กกล้า」の精神で入会していただきたい。
経済小説を読んでいたら、”There is a tide in the affairs of men.”という表現が出て来た。そして訳文は「人のなすことにはすべて潮時あり」と書いてあった。
同じような意味を持つ表現として、”Time and tide wait for no man.”というのがある。こちらのほうが日本人には親しく感じられるかもしれない。要するに、「歳月人を待たず」ということである。
私は日曜日に個人レッスンをやっているが、生徒さんは英語が苦手らしい。だから、あえて英語の話はしないようにしている。しかし、”Time and tide wait for no man.”くらいなら知っていてもいいのではないかと思って教えてあげたところ、彼女は言った。「歳月人を待たずという日本語の意味がわかりません。」
それを聞いた私はびっくりした。世代の違いから来るもの? 「ぼやぼやしていたらだめ。早く自分のやることを決めて切磋琢磨しよう」と言いたかったが、余計なお世話であった。何故ならば、彼女は十分に頑張っておられるから。
昨日、雪の情報が有ったため、私は教室へ行くことをやめて家にいることにした。とはいえ、宅急便を送る必要があったので近くのコンビニまで出かけた。底冷えがする寒さであった。なにをするにも億劫。
ところで、「億劫」とは? ものすごい漢字をあてはめるので、ネット(語源由来辞典)で調べてみた。
「億劫は元仏教語で、非常に長い時間を表した。億劫の<劫>はサンスクリット語で[kalpa]の音写で、古代インドで最長の時間の単位。<中略> 一劫の一億倍が億劫で、考えられないほど長い時間を表す。そこから、億劫は、{時間が長くかかるためやりきれない}という意味や、計り知れない時間がかかることは容易ではなく面倒に感じることから、{面倒臭い}の意味で用いられるようになった。
億劫の読みは[おくこう]であったが、促音化して[おっこう]となり、[おっくう]となった」
タイ語に โกฏิ(koot)という単語がある。『タイ日辞典』(冨田竹次郎)によれば、「(S.P. 極点。頂点)一千万(文学的単位で実用単位ではない)」と書かれているが、これも「劫」につながるものである。
経済小説を読んでいたら、”There is a tide in the affairs of men.”という表現が出て来た。そして訳文は「人のなすことにはすべて潮時あり」と書いてあった。
同じような意味を持つ表現として、”Time and tide wait for no man.”というのがある。こちらのほうが日本人には親しく感じられるかもしれない。要するに、「歳月人を待たず」ということである。
私は日曜日に個人レッスンをやっているが、生徒さんは英語が苦手らしい。だから、あえて英語の話はしないようにしている。しかし、”Time and tide wait for no man.”くらいなら知っていてもいいのではないかと思って教えてあげたところ、彼女は言った。「歳月人を待たずという日本語の意味がわかりません。」
それを聞いた私はびっくりした。世代の違いから来るもの? 「ぼやぼやしていたらだめ。早く自分のやることを決めて切磋琢磨しよう」と言いたかったが、余計なお世話であった。何故ならば、彼女は十分に頑張っておられるから。
昨日、雪の情報が有ったため、私は教室へ行くことをやめて家にいることにした。とはいえ、宅急便を送る必要があったので近くのコンビニまで出かけた。底冷えがする寒さであった。なにをするにも億劫。
ところで、「億劫」とは? ものすごい漢字をあてはめるので、ネット(語源由来辞典)で調べてみた。
「億劫は元仏教語で、非常に長い時間を表した。億劫の<劫>はサンスクリット語で[kalpa]の音写で、古代インドで最長の時間の単位。<中略> 一劫の一億倍が億劫で、考えられないほど長い時間を表す。そこから、億劫は、{時間が長くかかるためやりきれない}という意味や、計り知れない時間がかかることは容易ではなく面倒に感じることから、{面倒臭い}の意味で用いられるようになった。
億劫の読みは[おくこう]であったが、促音化して[おっこう]となり、[おっくう]となった」
タイ語に โกฏิ(koot)という単語がある。『タイ日辞典』(冨田竹次郎)によれば、「(S.P. 極点。頂点)一千万(文学的単位で実用単位ではない)」と書かれているが、これも「劫」につながるものである。
昨日、デパートへチョコレートを買いに行った。大勢の女性に気おされたこと、そして、チョコレートの値段の高さにうんざりしたので、しばしトイレ近くのイスに座って休憩した。すると、すぐそばに雛人形を飾っていた。もちろん売り物である。
フランス人らしき女性が赤ちゃんを抱いて雛人形を見てまわっている。そばに日本人の女性がいた。おそらくご主人のお母さんであろう。
お母さんは雛人形を孫娘に買ってあげたそうであった。だが、外国人のママはかなりしらけた表情……。何故ならば高すぎるからである。日本の伝統文化に対して、果たしてどのように思ったか?
生活形態や居住空間が狭くなった現在、何十万円もする雛人形を購入し、一年に数週間だけ飾るのは考えものである。しかしながら、雛人形にたずさわる作家達や工芸士の伝統技術の保存を願うと、やはり買ってあげたくなる。