またタイ語を習いたい方達

習い事は1月から始めたほうが気持ちが新たになっていて非常にいいと思うのだが、我がタイ語教室の場合に限って言えば、新しい生徒はあまり来ない。おそらく避寒のため、あるいは、花粉症を避けて、タイへ行かれる方が多いからである。
 では、4月はどうかと言うと、人事異動や引越し等の身辺変化に伴い、落ち着かないらしく、以前に比べると、入会する方はそれほど多くはなくなった。
 第3期である7月から9月はタイへ旅行される方があまりにも多すぎて、これまた新しい生徒達を多く望むことはできない。
 だが、第4期の10月から12月は違う。気温が下がってくると、日本人は精神的に引き締まってきて、何かを学ぼうという気持ちが高じるようである。この時期になると、来年が迫って来ているから、特に人生について考えるらしい。
 ここ数日で、タイ語を勉強したいという方達からメールや電話をいただいた。彼らに共通して言えることは、「かつてタイ語を習ったことがあるのですが…..。また、習いたくなりました」という内容だ。泰日文化倶楽部はそういう方達を、いつでも、大いに歓迎する。

御会式 と 盲導犬

雑司ヶ谷の鬼子母神の御会式は10月16日から18日の3日間、行われた。同じマンションに住むご夫婦が御会式の行列に参加すると聞いたので、沿道から声援を送ろうと思って、最初(19時半)から最後(22時半)まで彼らを探した。だが、あまりにも大勢の人がいて、残念ながら見つけられなかった。
 3時間の間に、今年も老若男女のすばらしい絆を目にすることができた。世話係の年寄りも立派にお役目を果たされてよかったが、何よりも若者のパワーに大いなるエネルギーをもらった。若い女性がこんなにも威勢がいいのかと、頼もしくなった。イナセナなお兄さん連中も、もちろん目の刺激になった。毎年、外国人が行列に参加しているが、今年も楽しそうに日本人に同化して、小さな太鼓を思いっ切り叩いていた。
 さらに、目の不自由な人が盲導犬と共に行列に加わっているのが目にとまった。驚いたことは、盲導犬がとても立派であったことだ。鉦や太鼓や笛や、そして、黄色い声が飛び交い、ものすごい騒音が3時間も続いているのに、普段通りの任務を果たし、おとなしかったことである。大きな音に対しても、驚かない、動じないという訓練がなされているのであろう。まるで神様のお使いのように見えた。

タイ人的な顔

一昨日、泰日文化倶楽部が入っているビルに事務所を構える男性から電話が有った。「少々、タイのことをおたずねしたいのですが….」
 私は「電話で済むものならお答えしますよ。どうぞ、何なりとおたずねください」と、答えた。しかし、彼は電話では済まないから、どうしても会って話したいというので、時間を作ってお会いした。
 話し始めて20分くらいしたところで、「あれっ、日本人ですか? タイ人だと思っていました。電話で話した時、日本語が流暢だなあと感心しました」と、彼は言った。
 私の場合、その手の話は、これまでにたびたび経験しているので慣れている。
 問題は、タイ語教室だから、タイ人が経営しているものという先入観念を彼が持っていたことだ。
 彼はタイやミャンマーとのビジネスに興味が有るらしい。私にはビジネス・マインドはゼロだが、お役に立てるようであれば、タイのことだけは教えてあげることができる。

新しいフランス語講師

 フランス語講師のレイラ先生が留学を了えてパリに帰ってしまわれた。そこで新しいフランス語講師を探すことになった。泰日文化倶楽部の生徒に「誰かフランス人のお知り合いはいませんか?」と、尋ねてみたところ、先月から入会されたばかりのK氏がすかさず言った。「知ってます!」
 その後は、話がとんとん拍子に進み、一昨日、新しいフランス語講師とお会いすることができた。スペイン女性だが、フランスでフランス語を勉強したから教えることができるそうだ。彼女と私の会話は英語であるが、英語の先生をお願いしても大丈夫なくらい上手であった。アメリカで英語を勉強されたそうだ。
 彼女は「泰日文化倶楽部まで自転車で来てもいいですか?」と私に訊いた。「駐輪場もあるのでかまいませんが、東京は坂が多いですからね」と、答えた。
 そして、話が進んでいくうちに、私がタイ人、もしくは、ハーフだと思ったらしい。「れっきとした日本人です。でも、もしかすると、祖先はタイから来たかもしれません」と言うと、彼女は納得した。
 新しい講師の名前はテレサ先生である。

「首がすわる」というタイ語

昨日、今年の4月から産休に入っていたノン先生が、赤ちゃんを連れて、教室に挨拶にみえた。赤ちゃんは4ヶ月。泣くこともなく、女性の生徒達の人気者になった。「首、すわってますね」という誰かの声に、ノン先生が「はい、すわってます」と答えた。
 タイ語では、「首がすわる」を、「首が硬い คอแข็ง」と言うそうだ。それを聞いて、「あらあら、酒が強い คอแข็ง という表現と全く同じですね」と、私が言うと、皆、大笑いとなった。男の赤ちゃんだから、将来、酒が強くなっても決しておかしくはない。女の赤ちゃんだと、少々困るけれど….。
 辞書を見ると、「คอแข็ง」には、他に、「参ってしまい言い返すことができず黙っているさま」、とか、「寝違えて首が回らぬ状態」、とか、「夜会服などの硬いカラー」、という意味もあると書いてある。
身体名称を使ったいろいろな表現をノートに書きつけることはとても勉強になるので、時間があればたくさん調べてみるといい。特に、「口」、「手」、「目」、そして、「心」に関するタイ語表現は、タイ人のものの考え方が分かって面白い。

大阿闍梨の酒井雄哉師の『一日一生』

大阿闍梨の酒井雄哉師が先月(9月23日)に逝去された。千日回峰行を1980年と1987年の2度に亘って達成された大阿闍梨に関しては、その精神の強靱さがどこにあるのであろうかと、常々、不思議に思っていたが、聞き書きしてまとめられた『一日一生』(朝日新書 2008年刊)を読んで、疑問がとけた。
 大阿闍梨は若い頃から歩くのがお好きであったようだ。東京で住んでおられた時、三鷹から日本橋まで、毎日、歩いて往復していたのを知ると、千日回峰行で毎日30キロ~70キロを歩くのは、その延長線上であったものと思われる。
 本の中でご自分の来歴をわかりやすく述べられているのを読んで、何事を成すにも、その前の準備段階が要ることをあらためて教えられた。ひたすら歩く。それを毎日続ける。師の言葉をお借りすれば、「毎日、くるくる、同じことを繰り返す」ことだそうだ。
 語学の勉強も同じ。毎日、こつこつ単語を覚えれば、小さな成果が得られるであろう。その小さな成果と成果をパッチワークの如く結びつけながら、日々、繰り返していけば、何かが見えてくる。見えなければ、見えるまでとにかく、くるくる、こつこつ、繰り返すしかない。

「聞く」、「聴く」、「訊く」というタイ語

 日本語にも、「聞く」、「聴く」、「訊く」というように、その使い方によって、漢字が異なるが、そういうことは、タイ語でもみられる。
 「聞く」、「聞こえる」は ได้ยิน 、「~と聞いている」は、ได้ยินว่า
「聴く」は、ฟัง 、 「歌を聴く」は、ฟังเพลง
「訊く」は、ถาม、 「彼に訊いてみる」は、ถามเขาว่า
その他に、「~という情報を得ている」は、ได้ข่าวว่า 、「~という噂を聞いている」は、มีข่าวลือว่า もある。
長く勉強していると、これらの動詞の使い分けはきちんとできるようになるが、初心者にはむずかしい。
 さらに、よく間違える動詞が有る。それは、「わかる」という単語である。これには、「理解する เข้าใจ」、「知識として知っている รู้」、「経験を通して知っている รู้จัก」などというふうに、タイ語では分かれるので、初心者はこんがらがる。
 混乱を防ぐには、なるべく応用例を覚えて使ってみることだ。そして、失敗を繰り返し、講師から何度も訂正されながら、覚えて行くことをお勧めする。

インドネシア語を習った学生

インドネシア語を前期に習ったという学生が10月からタイ語を受講することになった。「インドネシア語をやめて、何故、タイ語を受講することにしたのですか?」と尋ねると、彼は答えた。「後期からは、取りたい授業とインドネシア語のクラスが重なったため、やめました」 
 彼の理由が納得できたので、代わりにタイ語を選んでくださったことに感謝し、前期の授業分を少しでも取り戻すべく、タイ語を易しく、そして、優しく、教えている。そうすることで、前期から継続して勉強している学生と後期からの学生のレベルがかなり接近するのではないかと思っている。
 幸い、その新しい学生は素直で、何でも興味深そうに聞いてくれる。すぐに発音ができるようにはならないけれど、タイやタイ人について話すことで、タイ語を覚えようという気持ちにさせたい。その私の趣旨を、彼は自然に受け止めてくれているので、教えやすいし、かつ、教えがいがある。
 来年から社会人になる彼は就職先も決まっている。入社予定の会社はバンコクにも支社があるそうだ。それを聞いて、彼に対してタイ語を教える熱がさらに高まった。

ご近所さん

 私は住んでいるマンションの大規模修繕委員をしている。先日、管理組合理事会と合同で会議をした時、お向かいに住んでおられる方が、タイ文字の入ったTシャツを着て出席されたので、大変に驚いた。何故ならば、まさかご近所さんがタイに関心があるとは思われないので、非常に不思議な気がしたからである。そして、最近、わかったことは、お向かいの息子さんがタイへ赴任されたということである。タイのTシャツを着ているということは、おそらくご家族でタイへ遊びに行って来られたか、あるいは、息子さんのおみやげかもしれない。
 隣りに住んでおられる方からも、「私の同級生があなたからタイ語を習ったと言ってますよ」と言われ、どきりとした。その彼とはいまだに年賀状を交わしている。
 泰日文化倶楽部が入っている雑居ビルでも私は理事をしているので、いろいろな話題が入ってくるが、何らかのつながりがある方が数人おられる。東京広しといえども、世間は狭い。人間関係はややこしいが、対人関係はうまく取って、つかず離れずでいかなければならない。

契約書? それとも 処方箋?

昨日の「タイ語中級 土曜日14:00」のクラスを見学すると、発音の違いから生じた面白い場面が有ったので、以下に書いてみる。
 生徒のK氏はタイの不動産に関心が有る方だ。したがって、不動産関連の語彙がかなり増えてきている。授業中、タイ人講師に向かって、「ใบสัญญา 契約書」と発音したが、講師には一向に通じない。来年、タイに帰って医者になる予定のアイス先生には、K氏の発音が、「ใบสั่งยา 処方箋」に聞こえるということで、話の内容が全くかみ合わない。
 契約書は、bai-san-yaa、そして、処方箋は、bai-sang-yaa である。問題点は、日本人が不得手とする末子音の n と ng の発音だ。さらには、声調の違いが問題となった。契約書の中にある真ん中の音節である sanは上声で、処方箋の中にある真ん中の音節 sang は、低声でなければならない。
 日本人の発音に慣れた講師であれば、あまり気にせず、発音も直さないと思われるが、医者の卵であるアイス先生には、完全に処方箋と聞こえたため、K氏に向かって、丁寧に発音を直しておられた。
 あるいは、逆も考えられる。もし、病気になって、タイの医者に診てもらった時、「処方箋をお願いします」と言いたいのに、「契約書をお願いします」と間違って発音するならば、タイの医者は、「この患者、どこかおかしい?」と首を傾げることであろう。