箱根一泊旅行(往路)

3月27日午前11時30分、新宿からロマンスカーに乗り、箱根湯本まで行った。私が乗った車輌は外国人ばかり。私の隣りに座った女性はツアーの一人。最初、ベトナム人のグループかと思って、彼らの会話を聞いていたが、私が知っているベトナム語の単語が一向に出て来ない。そこで、隣りの女性に尋ねてみると、インドネシア人であった。
 私はかつてインドネシア語を習ったことがあるが、ほとんど覚えていない。そこで英語で会話することにした。箱根湯本までの1時間30分、たくさんのことを聞き出した。
 1)女性ばかりのツアーは、子供が同じ学校に通うママ友であること。 2)欧米系の銀行に勤務していること。3)イスラム教徒ではなくて、仏教徒であること。4)父親が中国系であること 5)初めての日本旅行で感じたことは、電車の発着が時間通りであること。6)バンコクへ遊びに行ったことがあること。
 しかし、彼女は次のように言った。「英語が話せる日本人が少ないですね」

骨休み・口休み

私は1969年4月に社会人になって以来、今日まで48年間、健康に恵まれてずっと働いて来た。45年間の節目を迎えた時、今後は仕事量を半分に減らそうと決めた。したがって、無理なことは何にもしないまま、3年があっというまに経過。まだまだ余裕はあるものの、古稀を迎えた今、世間でいうところの林住期に入ったわけであるから、それに逆らわないようにして生きて行こうと思っている。
 今日はこれから箱根へ一泊しに行く。骨休みのためである。そして、いつも激しく情熱を持って指導しているので、口休みも兼ねている。私の場合、はっきりとした物言いをするタイプであるが故、人からは誤解されることが多い。だが、教師という職種に属す人間は、褒める時は褒める、駄目なら駄目、と教室でてきぱきと言うべきだ。
 最近、スマホのアプリでタイ語を勉強することができるが、それはそれとして、タイ語教室に通って、人間対人間でタイ語を勉強してほしいと常に願っている。

稽古場の確保

昨日、有志による生け花教室(月に1回)が707号教室で開催された。生けた花材は、吉野桜、しゃが、貝母百合。とても上品な色調に仕上がった。
 稽古後、華道講師が困った顔で次なる話をされた。「横須賀教室で借りている生け花教室が大変なんです。花屋さんのビルの3階を借りているのですが、花屋さんから閉店したいので教室を貸すことがもうできませんと言われ、次なる稽古場をあたってみたのですが、そこはエレベーターが無いので重い花器を運ぶのが一苦労。さらに、小原流専用の花材を提供してくれる花屋がみつからないのです」
 それを聞きながら、稽古場を常に確保するのはなかなか大変であることがわかった。最近、至るところで閉店のお知らせを見かける。私の行きつけの近所の割烹店も3月31日で57年の営業を終える。ビルの老朽化による建てなおしが理由だ。大好きな女将は引退とのこと。

永遠の留年状態

昨日、知人に我が家に来てもらって、本の移動を手伝っていただいた。同じ部屋の中だけの移動なのに、何故、自分でできないのか。その理由は一人で運ぶのが億劫だったこと、そして、重いものを運ぶのがつらいという思いがいつしか頭に停滞してしまっているからである。
 力持ちに手伝っていただくと、30分で片付いた。ただし、これは蔵書の1割に過ぎない。「今日はこれだけ。またお願いしますね」と知人に言って、本運びは打ち切りにした。知人の顔を見ると、「早く処分したほうがいいですよ」と、言っているのがありありとわかった。
 夜、『知の仕事術』(池澤夏樹 集英社インターナショナル新書 2017年1月刊)を読むと、「出会って、ちょっと覗いて、合わないと思えば他に行く。そういうわがままな読みかたでも大事な本にはいつかは行き着く。むしろ広く浅く読むほうがたくさんの本に会えるし、浅くと思っても相性によっては深く引き込まれ、それが一生の付き合いになることもある。読書にはカリキュラムはないし卒業もない。永遠の留年状態」、という文章を見つけた。

契約の「契」

 昨日、必要が有って、「契約」という漢字を手書きで書こうとした。ところが、「喫茶」の「喫」という漢字を書いてしまった。「契約」の「契」は、<口編>だと思ったのがそもそもの誤り。書きながら、途中から変だと気づいたが、もうおそい。
 契約なんて滅多にしないから、いかにこの漢字を書いていないかがわかり反省した。
 こうなると、それ以外の漢字もだんだん自信(ความมั่นใจในตนเอง 又は ความเชื่อมั่นในตนเอง)が無くなってきた。せめて、<口編>の漢字だけでも全て書き出そうかしら…..。
 最近、不動産(อสังหาริมทรัพย์)を<負動産>と書いている広告(โฆษณา)を目にする。最初は違和感を持ったが、何度も見ていると、世の中の趨勢から次第になるほどと思うようになった。PCやスマホに入力するならば、漢字の間違いは修正できるが、手書きの間違いは白い紙を汚すだけだ。

沈丁花の香り

 沈丁花の香りがただよってからもうすでにかなりの時間が経っている。しかし、三寒四温の日々が続いているので、沈丁花は枯れることなく、白い花弁(กลีบสีขาว)をしっかりと広げ、道行く人々に優しく呼びかける。
 沈丁花が咲き始めると、シンガポールで頑張っておられる元生徒のYさんに「沈丁花が咲き始めましたよ」と、毎年、私は報告することにしている。彼女はここ数年、日本に帰国しておられないので、沈丁花が大好きな彼女に、昨日はラインで写真を送ってあげた。
 海外生活が長くなると、季節を感じさせてくれる日本の花々とおわかれだ。香りを届けることができないのが残念ではあるが、それでも情報を送らないよりはましだと思い、日本の四季(สี่ฤดู)を伝え続けている。

大江戸線で会ったタイ人観光客

昨日、大江戸線に乗っていたら、汐留駅からタイ人観光客が大きな荷物を抱えて乗車してきた。彼らがタイ人であることはすぐにわかった。4人のうち、一番年上のタイ人が私の横に座った。そこで私はさっそく話しかけた。
 「サワッディー・カ! 観光ですか?(สวัสดีค่ะ มาเที่ยวหรือคะ)」 タイ人はすぐに答えてくれた。「観光です(มาเที่ยวค่ะ)
 そのあと、5分ほどいろいろな質問をしたところ、彼女はてきぱきと答えてくれた。日本に初めて来たこと、富士山がはっきりと見えて感激したこと、5日間の旅行だから、これから成田へ行って一泊し、そして、明日バンコクへ帰ること、職業は建築関係であること、等々……。
 わずか5日間の短い滞在。だが彼女の感激ぶりは表情によく表れていた。「あと一週間すれば桜が満開ですよ」と私が言うと、彼女は残念な顔をしてみせた。

蔵王昇龍

昨日、池袋にある大型家電店へ出かけた。4月からの新年度にそなえ、大勢の人が真剣に家電を選んでいた。店員達のテンションが上がっているのが十分に感じ取れた。
 そのあと、宮城県のアンテナショップに入った。ここもひっきりなしに人が出入りしている。豆腐、干物、昆布、缶詰、ヨーグルト、そして、日本酒を買った。
 日本酒は「純米大吟醸 蔵王昇龍」という銘柄にした。昇龍に願掛けをしたかったからである。
 帰宅後、干物を焼き、蔵王昇龍を呑んだ。そして酒瓶のラベルを見ると、白石市東小路一二〇の一 蔵王酒造株式会社と書いてあった。白石市の酒だったんだと思いながら味わっている時、テレビのニュースで、午前中に東北新幹線が一時ストップしたことが報じられた。白石蔵王駅で人身事故が有ったとのこと。複雑な気持ちにおちいった。

錆鼠の着物

昨日、高田馬場駅で着物姿の女性をたくさん見かけた。泰日文化倶楽部の前を通って10分ほど西に向かって進むと、早稲田通りから少し入ったところに茶道会館がある。彼女達はお茶会に出席するため、友人達と高田馬場駅で待ち合わせをしていたわけである。
 私も「タイ語上級 日曜日11:30」の授業を済ませた後、自分が所属するお茶の稽古場へと向かった。茶道講師は黒地の泥大島を、そして、73歳の生徒は家紋の入った錆鼠色の着物を着ておられた。春が来るというのに、黒色の色調? 
 錆鼠色の女性が口を開いた。「この着物は年に2回しか着ません。春分と秋分のお彼岸に着ることにしています」
 それを聞いて、「なるほど、お彼岸だから黒っぽい着物を着て、故人を偲ぶんだなあ」と納得。
 すると、茶道講師が補足した。「3月27日に利休忌があります。だから、皆さん、地味目な色の着物を着るのよ」

遠藤周作のタイ取材旅行

遠藤周作が『王国への道』を上梓したのは1981年。そのために1979年2月25日から28日まで、アユタヤへ取材旅行に出ている。そのことは「五十五歳からの私的創作ノート」(河出書房新社 2003年)の中で明白だ。
 「バンコックの二月の午前は日本の真夏で、しかもトラック、自動車、人が雑踏し、市を出るまで一苦労である。ようやく街道(アジア・ハイウェイというが街道なり)に出れば、延々たる畠は刈入れがすみ、ブーゲンビリヤの花赤く、路ばたに西瓜屋あるいはジャスミンの花を売る露店あり。暑さ甚だしく、この暑さのなかで生きた十七世紀の日本人たちの生活を思う。<中略> ふたたび、メナム河をわたってアユタヤに出る。昼食をとり、王宮跡を見物。ここで山田長政が陰謀術策にまきこまれたと思うと感慨無量なり。寺を二、三まわり、暑さのなかをふたたびバンコックに。<中略> ホテルのかべに家守(やもり)をみる。虫の音きこゆ」
 遠藤周作が描写した1979年2月のバンコクとアユタヤ。私はわかる。何故ならば、同様なる光景を体験しているから。