神楽坂を散策する

昨日の午後、高田馬場から東西線で2駅の神楽坂へ行った。まずは毘沙門天善國寺にお参りし、泰日文化倶楽部の繁栄を願う。その後、神楽坂の坂を下って「和更紗あそび展」へ。江戸時代末期に一世を風靡した和更紗をたっぷり紹介したものである。作品はいずれも高いので、見るだけにとどめ、『和更紗 江戸デザイン帳』(熊谷博人著 2018年刊)を購入。
 再び、東西線神楽坂駅を目指して坂を上る。途中、台湾女性が経営している洋品店で春物の洋服を一枚選んだ。リサイクルの着物店にも寄ってみた。男性用の着物が豊富に置いてあるのにはいささか驚いた。
 着物店のすぐ近くにタイマッサージ店の看板が有り、「プラカイルン」と書かれてあった。果て、その意味は? 幸いタイ語表記も有った。「ประกายรุ้ง 虹の輝き」という意味だ。
 だんだん神楽坂駅に近づいて来ると、フランス人達がレストランから出て来た。フランス語を聞くのも乙なもの。
 どうにか駅前までやって来ると、古びた店からトントンという音が聞こえて来た。窓ガラスに自転車修理の店であることが、日本語と中国語とフランス語で書かれてあった。その店には古本も置かれてあった。私は『随筆 一隅の記』(野上弥生子著 新潮社 昭和43年)を買った。

明治150年の記念切手

昨日、郵便局へ行った折り、待ち時間中、記念切手を見ていたら、「明治150年」というのが目にとまったので購入。絵柄は5種類で、1)東京汐留鉄道館蒸気車待合之図(部分)、2)横浜郵便局開業之図(部分)、3)東京名所之内(部分) 上野公園地桜花盛之景(部分)、4)東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図(部分)、5)欧州管弦楽合奏之図(部分)。
 勝手に想像するだけだが、明治時代の文明開化の頃はさぞかし街の空気が楽しかったであろう。娯楽も盛んであったし、人々の付き合いも今よりも濃かったと思われる。
 私は54年前から東京に住んでいるので、半世紀前の景色をちゃんと覚えている。何も無くなった汐留を見て殺風景だなあと思っていたら、いつのまにかおしゃれなビル群の街になった。銀座の最後の花電車も覚えている。友人のお母様は銀座生まれの銀座育ちで典型的なモガ。お亡くなりになるまで高級服を身につけられ、人の接待にはそれはそれは気を配られた。

神楽坂を散策する

昨日の午後、高田馬場から東西線で2駅の神楽坂へ行った。まずは毘沙門天善國寺にお参りし、泰日文化倶楽部の繁栄を願う。その後、神楽坂の坂を下って「和更紗あそび展」へ。江戸時代末期に一世を風靡した和更紗をたっぷり紹介したものである。作品はいずれも高いので、見るだけにとどめ、『和更紗 江戸デザイン帳』(熊谷博人著 2018年刊)を購入。
 再び、東西線神楽坂駅を目指して坂を上る。途中、台湾女性が経営している洋品店で春物の洋服を一枚選んだ。リサイクルの着物店にも寄ってみた。男性用の着物が豊富に置いてあるのにはいささか驚いた。
 着物店のすぐ近くにタイマッサージ店の看板が有り、「プラカイルン」と書かれてあった。果て、その意味は? 幸いタイ語表記も有った。「ประกายรุ้ง 虹の輝き」という意味だ。
 だんだん神楽坂駅に近づいて来ると、フランス人達がレストランから出て来た。フランス語を聞くのも乙なもの。
 どうにか駅前までやって来ると、古びた店からトントンという音が聞こえて来た。窓ガラスに自転車修理の店であることが、日本語と中国語とフランス語で書かれてあった。その店には古本も置かれてあった。私は『随筆 一隅の記』(野上弥生子著 新潮社 昭和43年)を買った。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る

1月があっというまに過ぎた。今日から2月だ。「1月は行く。2月は逃げる。3月は去る」という言葉が脳裏によぎった。ただし、私の郷里の言葉で言うと、「1月はいんで、2月は逃げて、3月は去る」と言う。
 念のため、ネットで調べると、「一月(いちげつ)往(い)ぬる二月(にげつ)逃げる三月(さんげつ)去(さ)る」とも書いていた。
 そして、ネットで面白かったことは、「どういう意味でしょうか? タイ人ですので、よく知りません」という質問がタイ人から出されていたことだ。
 なるほど、どんなに日本語が堪能なタイ人でも、日本語の頭音遊びまで理解するのは難しいであろう。ましてや、その意味が、「やることが多いのに思うように進まない」ということであると知るには、相当長く時間をかけて日本に同化しないと無理。
 毎日のようにタイ人と会っているが、彼らの時間に対する感じ方は全く違う。いつも驚かされている。

高崎だるまの女性職人

今朝、NHKのニュースで高崎だるまの女性職人のことが放送された。その女性の名前は中田千尋さん(29歳)。4代続くだるま工房の娘さんだそうだ。
 私が感心したのは彼女が独学で英語と中国語を習得し、だるまを売り込む場面において、彼女の熱意が多くの外国人を惹きつけていることだ。インスタグラムを見た多くの外国人(年間1万人)が高崎に足を運んでいるとのこと。ニュースの中で紹介された客はタイ女性であった。
 語学と商売が合体すると、勉強にも弾みがつく。単なる趣味だけで勉強している程度では上達度が遅い。彼女のように商売繁盛を願うと、おのずから語彙数を増やそうとしたり、新しい文型を駆使したいと思うようになる。
 蘇州で行われた催事で「高崎だるま」の素晴らしさを中国語で積極的に喋る中田千尋さんに対して、中国人が言った。「彼女のアピール度はすごい!」

サボテンの植え替え

約4年前に買ったサボテン(กระบองเพชร ダイヤモンドの棒=金剛杖)がいつのまにか大きくなり、子供までできている。小さな鉢ではかわいそうと思い、鉢替えをすることにした。ベランダに長らく置いてあった口が広いタイ製の鉢に植え替えてみたものの、いかんせん土が足りない。そこで、昨日、植木屋へ行ってサボテン専用の土を購入した。
 土が入った袋の裏に書いてある使用方法は以下の通りであった。植え替えは3月から6月の間、施肥は3月から5月の間。水やりは12月から2月は月に1~2回、3月から6月は2~3日に1回、7月から11月は週に一回が良い。置き場所は11月から2月は室内、6月から9月は日陰。
 この説明書きを読んで、これまで私はこの通りに従って来なかったことに気づいた。あえて言えば、逆ばかりやっている。現に植え替えもそうだ。今は植え替えの頃ではなかった。勝手にやってはいけない。知識不足を恥じた。

ダチョウ

 タイへよく遊びに行かれる生徒さんが、何らかの話の流れから、急にダチョウの話を持ち出した。
 「何回もタイへ行っていると、何か面白いことをしてみたくなったの。そこで、チェンライへ行った時、ダチョウに乗ったのよ。その時、ダチョウという言葉を覚えたわ。นกกระจอกเทศというそうよ」
 私はタイ語でダチョウをนกกระจอกเทศというのを知らなかった。使うチャンスが無いからである。นกจอก(雀 ノッカジョーク)+ เทศ(外国の テート)=ダチョウ という組み合わせはなかなかに面白い。タイ人にはダチョウが外国からやって来た大きな雀に見えるとは! ユーモアが有っていい。
 เทศ(テート)には「国」とか、「場所」という意味のほかに、「外国の」という意味がある。มะเขือเทศ(トマト)、 มันเทศ(さつまいも)、 เครื่องเทศ(香料)、 ม้าเทศ(外国産の馬)の単語を見ると、なるほど外国から到来した匂いがぷんぷんしてきた。

タイの若者6名

昨日、午前中の個人レッスンをするため教室に向かおうとして、目白駅の階段を降りていたら、背後からタイ語が聞こえて来た。後ろを振り向くと、タイの青年が6名、冬のコートも着ず、カジュアルな服装でなにやらしゃべっている。いずれも皆、手ぶらであった。
 私は手摺りに手をあてながらゆっくりと階段を降りたので、彼らのほうが当然私を追い越してホームに立った。だが、彼らは山手線の外回りに乗るべきか、内回りに乗るべきかで迷っている。一人がスマホでチェックし始めた。
 そこで、私は6名のうち、一番背が高くて恰好よさそうな青年の横に立った。そして尋ねた。「どちらの方面へ行くの?」 彼は「タイ人なの?」と訊いてきた。私は「ちがいます」と答えた。彼らには私が東京在住のタイのおばあさんに映ったようだ。
 彼らは秋葉原へ行くところであった。「このあたりに泊まっているの?」とさらに尋ねると、首を縦に振った。
 ほんの30秒だけの会話であったが、お役に立ててよかった。

花奏

昨日は、月一度の「アジア女性のための生け花教室」が開催された。2007年1月からスタートしたので、今年で丸12年を迎えたことになる。
 昨日の生け方は、「花奏(はなかなで)」と「直立型」。「花奏」の花材は、雪柳、金魚草、スイトピー、そして、ミリオグラダス。雪柳と金魚草(ピンク)を三地点(不等辺三角形)から挿して交差させ、根本にスイトピー(黄色がかった白)とミリオグラダス(緑)をあしらって、全体の色の調和をとるものであった。
 いつも思うこと、それは、華道講師の手が入ると枝や花がしゃんとして、花器の中にうまくおさまる。生徒がやると、花におちょくられてばかり。いくらやっても上手にならないのであれば、もうここいらでやめてもいいと思うこともある….。
 しかし、花を生けると楽しい。疲れた頭もすさんだ心も少し上向きになり、新鮮な空気が身体に入って来てくれたかのよう….。
 生け花を習っていると、一年がものすごく早い。何故ならば、花材は1~2ヶ月先のものを取り扱うからである。来月は桃、あるいは、早咲きの桜が教室にやって来るらしい。

小倉遊亀(画家)さんの本より

文化勲章受章、日本芸術院会員であった小倉遊亀さん(1895~2000)に、「~さん」付けはないだろうが、親愛の情をこめてそう呼ばせていただきたい。
 古書店で『小倉遊亀 画室のうちそと』(聞き手=小川津根子 読売新聞社 1984年)を買って読んだ。その中に、師と仰ぐ安田靫彦氏に弟子入りを請うた場面が出て来る。
「安田先生ね、いくつだとおっしゃるから、二十七です、といったら、[二十七でよかったな]とおっしゃた。人間も三十を越えると、なかなか心が頑固になって、人の言うことが耳にはいらない。それから自分の悪いところが直せない。まだあなたは二、三年ある。むずかしいかも知れないけれども、人から言われたんじゃなくて自分で自分の悪いところに気がついたんだから、一生懸命にやってください、とおっしゃいました」
 小倉遊亀さんは2才から絵筆を持ったそうな。そして、知らず知らずのうちに、一つのタイプができているのを見破った安田氏は、「それにはいっぺん、全部ご破算にしなさい。しかしむずかしいよ、どうしても手慣れた癖が出るからね。それを一度捨ててごらん」と助言されたそうである。