今日から始動

 ずっと自宅でのんびりとした時間をすごしていたが、いよいよ今日から仕事である。さすがに昨日から緊張が高まってきていた。
 スタートと言えば、今月から茶道を始めることにした。というのは、郷里に帰省した時、実家の斜め前の家が「京極庵」という名前で御茶室になっており、流れるようなお点前によるお茶を一服いただいた時、そうだ、以前、習っていた茶道をもう一度、学び直そうと思った次第である。
 茶釜から聞こえてくるしゅんしゅんという湯気の音を「松風」というそうだ。東京の喧騒の中にいた時分がいっぺんにして吹き飛んだ。
 静寂なる庭。その空間の美。何かが私に呼びかける。
 「またいらっしゃい。お茶を楽しんでください。お庭を楽しんでください」
 江戸時代から続くその御屋敷。そこにまたちょくちょくお伺いしたい。

メンター(mentor)

箱根大学駅伝は青山学院大学の完全優勝で終わった。各区間を走った選手が全員1位で走り、その結果、1区間から最後の10区間まで、1位という順位が並んだ時の美しさ! 39年ぶりの快挙だそうだ。
 監督も、選手も、そして、裏方さん達も、全員すばらしい。印象に残る勝ち方であった。
 だが、最近の箱根駅伝には競り合いが見られず、面白みにかける。もう少し、他校が頑張ってほしい。
 ところで、昨日、読書していたら、「メンター(mentor)」という単語に出くわした。調べてみると、メンターとは、支援者、理解者、教育者、後見人、指導者、等々の意味があるようだ。監督もその範疇に入るのであろう。だから青山学院大学の原監督はメンターだ。そして、選手達の食事の世話をしている奥様もメンター的存在と言えよう。
 メンターの語源は、ホメロスの『オデュッセイア』に出て来る人物の名前で、王から頼まれて王子の養育係をしたそうだ。
 現代に於いては、企業の人材育成制度に使われているようだが、企業だけではなくて、いずれの場所に於いても、メンターは必要だと思う。

今年の年賀状

今年もたくさんの賀状を頂いた。相対的に、いずれの年賀状もおとなしめで、奇抜なものはなかった。そういう私自身の賀状も、例年になく無難に済ませた。理由は、あまり元気そうなことをあれやこれやと書く年齢でもないなあと悟ったからである。したがって、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の絵入りにした。
 今年、一番に驚いたことは、区役所の高齢者福祉課から年賀状をもらったことだ。「振り込め詐欺にご用心!」と書かれてある。そして、①毎日の生活に心配なことがある、②高齢者向けサービスについて知りたい、③介護予防について知りたい、④認知症について相談したい、⑤地域のために貢献したい….こんなときは、高齢者相談センターへ、と追記していた。
 私に関係あるのは最後の⑤くらいだ。区役所は65歳以上の人達に一律に年賀状を送ったのであろうか。だとすると、税金の無駄づかいのような気がするが….。
 ずっと会っていない従姉に電話をしてみた。彼女は言った。「私は94歳。元気です。呆けてません。呆けてませんよ」と、澄みきった声で明確に言い切った。彼女と同じDNAを持つ私。ということは、私も大丈夫。

ぽち袋

 今年もたくさんのお年玉を出した。ただし、受験生には「お年玉」というぽち袋は使わなかった。なぜならば、「落とし玉」に聞こえて、縁起が悪いからだ。
 ところで、ぽち袋の「ぽち」だが、これは関西方言で、特にお茶屋遊びに関係していることを知った。「これっぽっちの気持ち」から来ているとのこと。フランス語の「プチ petit」だとばかり思っていたから、いと恥ずかし。
気持ちを表わすということは大切である。それも、さりげなく…..。しかし、そこに<粋な美>が隠されていれば、お洒落、お洒落!
 現代は自分の生活だけで精一杯だから、気持ちを表わすことなど、なかなかできない時代だ。特に、懐(ふところ)具合も潤沢ではなくなって来ているわけだから、無理は禁物。
 でも、何かのかたちで気持ちを伝えたい。さあ、それにはどういう手段を取ればよいか?
 そうだ、言葉だ。機知(wit)とセンス、それに、ユーモアに満ちた言葉の魔術師になろうではないか。
 

謹賀新年 2016

新年おめでとうございます。
 2016年 タイ語開眼の年にしませんか?
 一人で勉強するも良し、友と共に勉強するも良し。
 タイ人パワーはすごいです。我々もそのパワーに応えましょう。
 タイへ行くも良し、東京でタイを探すも良し。いずれも楽しかりけり。
 泰日文化倶楽部は1月7日からスタートします。今年もどうぞ宜しく。

2015年における泰日文化倶楽部の総括

2015年の泰日文化倶楽部の総括をします。
 前半(1月~6月)は入会と退会の生徒数にいろいろと動きが有りましたが、後半(7月~12月)はゆるやかな波で推移しました。男女比は男性55%、女性45%。
 オリンピックに向けてタイ語を勉強し、タイ人観光客のお役に立ちたいという方達が増えるかなあと期待していましたが、まだその動きは見られません。唯一、昔の生徒さん1名がガイドになりたいということで5年ぶりに復学されました。
 タイ人講師について言えば、留学を終えてタイへ本帰国されたのがアイス先生とトン先生の2名。その替わりに、ピカピカ先生とミカン先生が着任されました。
 すべてのクラスにタイ人講師を配置していますから、ネイティブの発音を聞くことができる最高の環境を提供しております。しかし、厳しい批評を下すならば、皆さん、やっぱり、どこまでも日本人ですね。もう少し、タイ人チックになって、タイ語をたくさん喋ってほしいです。2016年は、もっともっとタイの全てに近づいて行きましょう!

フランス人とお茶会

昨日、広島で一泊し、元生徒さん御夫妻と一緒に牡蠣の土手鍋をいただいた。そして、来年の幸福を願って、河豚の「フク刺し」も注文した。昼間は一人でカキフライを食べたので、来年はいろいろなものを掻き出してみることにしよう!
 今朝は瀬戸大橋を渡って郷里の丸亀へ。私の家の斜め向かいの家がお宝屋敷なので、開いていれば見学させていただこうと思って行ってみると、何と開いていた。快く迎えてくださり、折詰のお弁当まで食べてくださいと言われて遠慮なく頂戴した。
 この日、パリからのフランス人と日本人妻、及び、丸亀在住のフランス人と日本人妻のお客様を御招きしてお茶会をするので、どうぞご参加くださいと言われ、これまた遠慮なく末席に坐らせていただいた。
 丸亀でフランス人? これまで聞いたことがなかった。フランス人達は日本家屋の鴨居の低さに、頭を打ってばかりであった。
 昨年6月までフランス語を習ったはずだが、全く出てこない。緊張ばかりしている私。「もう一服、いかがですか?」を、「encore?」とだけ言った。

ボランティア活動を続ける美容師さん

昨日、美容院(ร้านเสริมสวย)へ行くと、新しい美容師さんが私を担当した。お近づきを兼ねて、いろいろと話をした。というよりも、彼女が一方的に喋った感が有る。そして、私は珍しく聞き役に回った。
 「母も美容師です。これまで母の美容院で働いていたのですが、お給料(เงินเดือน)が出なくなりました。母は9月に倒れて以来、弱気になり、店を続けるかどうか、様子見をしていますので、私はこうしてチェーン店に勤務することを決めたわけです。高田馬場はやはりお客さん、多いですね」
 彼女は西武新宿線の小平市に住んでいるので、馬場までの通勤はらくそうだ。
 「私、三陸の方へボランティア(อาสาสมัคร)へ行ってます。もう4年になります。仮設住宅にいる女性が落ち込んでいたので、髪を染める(ย้อมผม)と気分が明るくなりますよと言って、染めてあげると、その女性は急に元気になりました。交通費も含めて全て自腹でやっているので、だんだんきつくなってきました。でも、このお店も、主人も、母も、皆、私のボランティア活動を認め、支えてくれています。三陸に行くと、80人の女性が私を待ってるの。しかし、一日80人はとても無理」
 年末に素敵なお話を聞くことができて、私は彼女に感謝した。彼女の旧姓は吉川だという。祖父から先祖は四国の出だと聞いているとのこと。もしかして、彼女と私は先祖でつながっているかもしれない。

ラッキョウ(辣韭)

今日は御用納めの日である。ゴミの収集も今年は今日が最後だ。そこで冷蔵庫の中にある古くなった食べ物を一掃することにした。
 すると、今年10月末に、鳥取県在住の元生徒さんから頂戴していたラッキョウが目に止まった。いつか食べようと思いつつ、まだ食べていなかった。
 ラッキョウ(辣韭)は「カレーライスのつま」という印象しかない。しかし、いろいろな効能があることを知り、あわてて食べ始めた。
 タイ語で、ラッキョウはหอมบัว(ホーム・ブア)。ブアは蓮のことだから、タイ人にはラッキョウが蓮に見えるようだ。
 今月初め、個人レッスンを受けているSさんがタイ料理のレシピを勉強している時、ニンニク(大蒜)の数え方についてタイ人講師に質問すると、先生は次のように答えられた。
 「หัว フア です。地中にある根菜は、玉ねぎもジャガイモも、皆、หัว で数えます。地上で実をつけるものは、ลูก ルーク で数えます」
 หัวのもう一つの意味は、言わずもがな「頭」だ。なるほど、野菜の根菜、即ち、頭は地中に在って、しっかりと栄養を吸収し、野菜それぞれのかたちを形成していくのであろう。
 個人レッスンの場合は、深いところまで聞けて面白い。

90歳の老人 と PC

昨日、元生徒であるミセス・トシコと電話で話をした。彼女は84歳。年が明ければ、すぐに85歳になられる方だ。東日本震災直後、タイ語の勉強はおやめになられたから、彼女とはもう約5年近くお会いしていないが、年に2回位、お声を聞いて、お元気であることを確認している。彼女はたくさんお話をしてくださった。
 「2週間前に兄が亡くなりました。90歳でした。認知症でしたから、私のこともわかってもらえませんでした。病室に行くと、ベッドの上に大きなコンピューターが置いてあるのにはびっくり。姪に聞くと、お父さんに経理の仕事を手伝ってもらっていたので、コンピューターの前に坐るのが好きなんです。病院側からもう何にも処置することがありませんので、退院してくださいと言われ、兄は自宅に帰らざるを得ませんでした。兄のベッドの前にはまたしても大きなコンピューターが。やがて兄はコンピューターにお辞儀するような姿で息を引き取りました。妹である私は見舞いに行くたびに、トシコよ、トシコ、私はトシコと、連呼。何度も言っているうちに、兄はかすかに私を認識したかの如く、おお、トシコか…..と言いました。こんなことがありましたので、娘に言いました。お母さんが認知症になっても、とにかく名前を呼んでね、あきらめずに」