アジア文化社からいつも謹呈本が送られて来る。編集・発行人である五十嵐勉氏は昔の生徒さんだ。
『文芸思潮』(第55号 2014年4月発行)の中に、岸積氏(元徳島新聞論説委員長)が書いた「生き残った真珠湾攻撃士官 坂巻和男」というドキュメントが掲載されていた。
そこには、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗っていた酒巻少尉(徳島県出身)が開戦2時間前に米軍に見つかり、<捕虜第一号>になってしまったことの経緯が書かれている。この話は戦後になるまで日本国民に知らされることはなかったそうだ。
さて、捕虜第一号となった坂巻少尉は、やがて捕まって来た捕虜達と共に、収容所を転々とさせられ、行き着いた先がウィスコンシン州のマッコイ収容所であった。捕虜になってからの2年間、彼は戦陣訓を守り通すために、沈黙し、正座謹慎を続けた。米側は困惑して、「欲しい物があれば言え、何でも支給するから」と言ったところ、彼は初めて、「毎日の新聞、筆記具、辞書などの図書」を要望。それから以後、彼は所内の学校で開かれる教育講座を欠かさず聴講。英語、米国史、米国事情一般を学ぶ。そして、収容所内きっての英語力で、捕虜達と米側の間に於ける折衝を一切引き受け、名実共に捕虜の指導者となった。
著者の岸氏はこう評価しておられる。坂巻は「捕虜第一号」と言うより、優れた「ナンバーワン捕虜」であったと。
岸氏のまとめられた文章から私が学んだこと、それは、どんな逆境であるにせよ、言葉を学ぶことは極めて大切であり、言葉は我が身を助けるだけではなくて、友をも助けることができるということだ。
旧岩崎邸庭園 と ボランティア・ガイド
昨日は仕事も用事もなく、実にのんびりとした一日であった。出かけるあてもないまま山手線に乗る。一周しながら考えようと思ったが、結局、上野駅で降りた。上野で開催されている台湾の故宮博物館展は人が多そうなので避ける。桜並木の横手にある花園稲荷にお参りし、おみくじを引く。中吉なり。おみくじの裏面には英語の訳文が書いてあった。中吉は、”very good”と訳されていた。
不忍池は蓮、また、蓮。池之端沿いに出ると、旧岩崎邸庭園の案内板が目にとまったので、矢印に従って行くと、大きな門と壁。チケット売り場までの坂道は静寂そのもの。坂を上がると、威風堂々たる洋館が目に飛び込んできた。明治29年(1896年)の建築物で、ジョサイア・コンドルが設計したものだそうだ。
洋館内部を見てまわっていると、ボランティア・ガイドの老人が現れ、数人に向かって岩崎家の家系図を説明し始めた。一通り説明が終わると、次に洋館と隣接している和館の建物まで移動させられた。そこでも歴史的な話をたくさん聞かせてくださった。月に2回、ボランティアで解説しているそうだが、年代も、系図も、すべて詳しい。80歳くらいの方とお見受けしたが、頭脳明晰。それに話の展開がすばらしい。
帰宅後、さっそく岩崎家の系図をネットで調べて、明治から現代までを勉強。ちらしの表には「時の風が吹く庭園」と書かれている。また行ってみたい。
澤田美喜 と エリザベス・サンダース・ホーム
旧岩崎邸のサンルームには、そこで撮影された岩崎家の家族写真が置かれてあった。真ん中に立っているのは、岩崎久彌氏(御当主・三菱財閥第3代目総帥)の長女である美喜。外交官と結婚してからは澤田美喜。
彼女が戦後まもなくしてエリザベス・サンダース・ホームを開設し、米軍兵士との間にできた混血児を引き取り、混血児救済に精魂を傾けた彼女の活動には、私も戦後生まれだけによく耳にした。
外交官夫人としてイギリスにいる時、彼女はロンドン郊外にある孤児院の施設を訪問し、「すべての子ども達が人として生きる権利を擁護する働き、<中略>、子ども達が貧困や虐待、差別から解放されること、逆境や障害に出会っても立ち向かい…<以下割愛>」という理想を学んだことが、エリザベス・サンダース・ホームの設立につながったそうだ。
澤田美喜は東京女子師範(注:現在の御茶ノ水女子大学)を退学し、津田梅子女史に直接、英語を教わったとのこと。それは外交官夫人の時、大いに発揮され、錚々たる友人を得た。外交の場所で視野を広げ、血となり肉となった精神を、46歳から78歳で亡くなるまで孤児救済に向けた。彼らの学ぶ学校まで創設し、働く場所としてブラジルに農場まで開いた。
Wikipediaでは、彼女の肩書を社会事業家と書いてある。彼女の精神は今も継承されている。新聞紙上をにぎわしているタイの代理出産ビジネスとは、そもそも理念が異なるのだ。
イベット・ジロー
昨日は台風が四国と関西に上陸したため、全国的にいろいろな祭りや催事が中止された。東京湾の花火大会も順延無しの中止と発表された。
昨晩、友人達と食事をしながら、私は言った。「イベントが中止になると、弁当屋が儲からないわよね」
私としては、イベントと弁当(ベントウ)の両方の音を列挙し、音遊びをしたつもりである。さらに続けた。
「そうそう、イベット・ジローが亡くなりましたね」
これを聞いて、若い人が、「イベント・ジローって誰ですか?」と言った。
「違いますよ。イベット・ジローですよ。フランスのシャンソン歌手。日本によく来ていたのよ」
イベット・ジローは行年97歳。イブ・モンタンと同世代で、「愛の賛歌」が得意であった。
校歌 vs ポップス
昨日から甲子園で第96回夏の高校野球が始まった。甲子園球場は、今年、御年90歳を迎えたとのこと。
高校野球が開催されると、代表高校の校歌が流される。いささか軍歌調ではあるけれど、山紫水明の文言が歌詞に組み込まれているので、全国の代表的な山や川の名前を聞くことができる。
そして感心する点は、ほとんどの歌が合唱して歌われているにもかかわらず、まるで一人の歌手が歌っているかの如く、歌詞が鮮明に聞き取れることである。
最近、私から日本語を習っているタイ人が、「この歌、訳してください」と依頼してきた。まずは歌詞を聞き取る作業から始めたわけだが、その肝心の歌詞が聞き取れない。何度聞いてもわからない。
最終的には、タイ人がネットで調べてきたが、とてもそのようには聞き取れなかった。たとえば、「ただただ」という表現が、「たらたら」にしか聞こえなかった。私は自分の耳を疑ったが、若い歌手の歌い方にも問題があると言いたい。
さらに、歌詞の意味を訳そうとすると、主語が曖昧な上に、人間関係における言葉の使い方も昔とは異なるので、非常に訳しにくかった。
鴻巣の由来
昨日、急な仕事で鴻巣へ行った。池袋から湘南新宿ラインでわずか47分。乗り換えも不要だから、らくらく行ける。ホームに降り立つと、草の匂い。おお、なつかしい。
鴻巣の人口は約11万6千人。そのうちの16%が東京へ通勤しているそうだ。東京から50キロ圏内なので、住宅がいっぱい。
私の関心は「鴻巣」という漢字にある。ネットで調べてみると、昔、ここに「国府の州 こくふのす」が有り、それがやがて「こふのす」と呼ばれるようになったが、時間が経つうち、「鴻巣」と書かれるようになったそうである。めでたいコウノトリにあやかったみたいだ。
旧中山道を車で通ってみたが、夜はチェーン店の灯りばかり。人は全く歩いていない。日系ブラジル人がたくさん働いているとのこと。
昨日のことを思い出しながら、ベトナムの蓮茶を一服。何故ならば、中国人やベトナム人の名前には、「繁盛」を意味する「鴻 ホン」という漢字がたくさん使われているから…。
ポチ と ハチ公
『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央著 文藝春秋刊 1998年)の中に、次なるくだりがある。
「二葉亭の犬猫を好むことは尋常ではなかった。官報局に勤めはじめたばかりの頃、役所からの帰り道についてきた狐に似た醜い犬を飼い、ポチと名づけてかわいがった。居留地のフランス人が飼い犬を<プチ>と呼び、そのなまりの<ポチ>が明治日本に広まり、以来日本の犬の代表的な呼称となったのである」
なるほど、明治の人には、<petit>というフランス語が、<ポチ>に聞こえたというわけか。だが、「a, i, u, e, o」という母音しか無い日本語においては、そう呼ぶしかなかったのであろう。文明開化の明治時代、フランス人が話すフランス語は相当におしゃれに聞こえたはずである。
ところで、昨日のニュースで、渋谷駅周辺の開発が本格的に始動し始めたものの、ハチ公の今後の設置場所が決まっていないそうだ。純日本風の立派な名前のハチ公。今では、珍しい名前になってしまっているが、忠犬ハチ公よ、永遠なれ!
泰日文化倶楽部の1週間
泰日文化倶楽部は、8月12日(火)から18日(月)がお盆休みです。この期間は授業がありませんから、生徒の皆さん、どうかメモしておいてくださいね。
ところで、泰日文化倶楽部の8月度における1週間の状況を簡単にご紹介しましょう。
グループ・レッスンに限って言えば、月曜日2クラス、火曜日7クラス、水曜日5クラス、木曜日6クラス、金曜日3クラス、土曜日5クラス、そして、日曜日1クラス、計29クラスを開講しています。これらの数字から言えることは、火曜と木曜、生徒達が一番集まりやすいということです。逆に、月曜、金曜、日曜は通学して来ることが、何となく面倒くさいということでしょうか…..。
昨日、「タイ語入門 木曜日17:30ー19:00」というクラスを新規に開講いたしました。この時間帯にクラスを開講したのは初めてです。会社勤務の方はまず無理でしょう。しかし、そこを何とか時間のやりくりをして入会された方がおられます。有難いことです。
タイ語の必要性は、年々、増してきています。今、勉強しないと損です。今、この時をを大切にし、<タイ語の貯金>を始めましょう! 利息? それはタイ人の笑顔です!!
タイ女性と代理出産
最近のニュースとして、タイ女性(21歳)の代理出産が話題になっている。代理出産であれば他国でも実施されているであろうから、それだけならニュースにもならない。しかし、タイ女性が産んだ双子のうちの一人がダウン症であったため、依頼主のオーストラリア人夫婦がその子の引き取りを拒否したことに端を発し、オーストラリア首相までがコメントを出し、さらには、多額の寄付が集まっていることに対して、当該のタイ女性が明るく会見している姿をテレビで見て、これから先のことをつい案じてしまった。
30年前の話になるが、その頃、幼児誘拐が多発し、ヨーロッパへ売り飛ばされて行った事件があった。何とかわいそうなことであろうかと思ったが、今回の事件は代理出産業というビジネスが問題だ。依頼する側にとっても、そして、依頼される側にとっても、リスクが大きすぎる。問題が発生すれば、仲介業者はおそらく責任をとろうとはしないであろう。
私は仕事上、複雑な家庭環境で育ったタイ女性と接することが多々有るが、いつも願うこと、それは、タイ人の持ち前の明るさを維持し、普通の生活をしてほしいということだ。代理出産をしたタイ女性は、「貧乏だったから」と答えた。この言葉を私はこれまでにいやというほど聞かされてきた。貧乏から逃れるために、女性であることを売り物にしてはいけない。やむを得ずやってしまっても、十分に反省をし、それを繰り返してはならない。タイの少女達には教育の機会をできるだけたくさん与え、判断力のある女性に育ってほしいといつも願っている。
蝉の大合唱
毎朝6時前に目が覚める。学習院の森から蝉の大合唱が聞こえてくるからだ。窓を開けて空気を換える。すると、蝉がマンションの木に飛んで来て、ミンミンと鳴き始める。
蝉という漢字は、「虫」+「単」だから、イメージ的には静かな感じがするが、なんのなんの、うるさいったらありゃしない。「うるさい」は、「五月蠅い」と書くが、蠅のほうが断然、静かだ。
タイ語で蝉は「จักจัน ヂャッカヂャン」。鳴き声から由来していると思われる。そう思えば、ヂャッカヂャンとも聞こえないでもない。
しかし、8時を過ぎると、蝉の声は聞こえなくなる。朝寝の時間かもしれない。
その代わりとして、車の往来の音が聞こえる。東京の中でも大動脈の環状4号線。すなわち、明治通りだ。外国人観光客に人気のある明治神宮の静寂さとは対照的なる経済活動の音! 一日の始まり、始まり。