バンコク散策(8)

バンコク第2日目の夜は、泰日文化倶楽部の元生徒さんとお会いすることになっていた。彼が教室で使用していた通称は一休さん。バンコクに就職されたのが去年の4月。彼と会う場所は、エカマイのゲートウェイ。彼から「夕方6時頃のBTSは、山手線並みの込みようですよ」と言われていたので、午後3時半に現地到着。
 ゲートウェイに入って驚いた。日本料理店ばかりであったからだ。2階に上がると資生堂系列の美容院が有った。時間つぶしのために髪でも切ろうかなあと思ったが、600バーツだったのでやめた。そして、ゲートウェイを出た。周辺にあるタイ人向けのローカルな美容院へ行くことにした。
 美容院は道路1本隔ててすぐに見つかった。シャンプー台は昔のままで、水を使っている。爪を立てて、ガリガリ。すでに客がいたので、私はベンチに座って待つことにした。すると、美容師がタイ字紙を無造作に私につきつける。「新聞でも読んでてよ」、と言わんばかりに。
 私の横にいた若いタイ女性は足を盥にひたし、手にマニキュアをしてもらっている。古風な美容院。ここは常連の客達でもっているようだ。因みに、カット代は250バーツ、そして、マニキュア代は100バーツ。
 古ぼけた小型テレビ。その画面を見ると、2日前にビッグシーの前で爆弾に遭って死んだ二人の子供の父親がテレビ出演していた。美容師は客に向かってすかさず言った。「お父さん、いい男だね!」
 幼い姉と弟が死んだことは大きなニュースになっていたので、そのようなことを言う美容師をあれあれと思った。だが、悲しみを打ち消すために楽観的な見方にすり替えること、それがタイ人の知恵なのかもしれない。

バンコク散策(6)

さて、2月にオープンした「桜や」であるが、当初は高級和牛ステーキ店の予定であった。だが、高級タイ料理+ディープな東北タイ料理を提供する店として出発していた。
 マネージャーのS氏は昨年9月からバンコク入りをし、開店に向けて全精力を投入。したがって、15キロもやせておられた。もともと大男であったから、体の引き締まり具合は丁度よくなった感じ。
 ウェルカム・ドリンクとして、「桜カクテル」がフリーで提供された。とても美しい色のカクテルであった。
 おすすめは東北タイ料理の「ジムジュム」。その他のタイ料理も上品なお味で、なるほど、トンロー周辺に住む金持ちタイ人を対象としているコンセプトがよくわかった。
 宮崎牛のステーキも注文した。S氏が自ら炭火で焼いているのがガラス越しに見える。だが、そのガラスは一見したところ、木の枝が四方に伸びているかの如く、透明テープが貼られていた。「どうしたの?」とS氏に尋ねると、彼は答えた。「耐火ガラスを注文したのに、普通のガラスを入れられたんですよ」
 タイ人の業者はガラスさえ入っていれば、それでいいと思ったのであろう。
 「近々、入れ替えさせます」と、彼は言った。だが、果たして次なるガラスの強度や、いかに?

バンコク散策(5)

バンコクの「桜や」で会う約束をしていた教え子のS君が午後7時過ぎに予定通り店に現れた。
 開口一番、「僕、今日、会社を休んだんですよ。毎晩、帰りが遅いので、とても間に合わないと思ったから」
 彼の勤務先がチョンブリ県のアマタナコン工業団地であることを知り、私は非常に申し訳なく思った。
 「いや、いいんですよ。たまには休まないと」
 道理で、休養を十分にとった彼はスカッとしており。おしゃれも決まっていた。
 「先生、僕は大学時代、先生が教えてくださったことを10%とすると、残りの90%は僕自身で勉強しました。とにかく、めちゃくちゃ勉強したんですよ」
 それを聞きながら、なるほど、S君はやっぱり違うなあと思った。
 「僕はこのまま一生、タイに住んでもいいと思っています。まだまだ頑張りますよ」
 有能な彼をヘッドハンターが見逃すはずはない。提示される給料も破格だ。だが、彼は決してぎらついていない。現在の会社に忠誠心を示しながら、タイという国をしっかりと把握し、理解しようとしている。

バンコク散策(4)

初日の昼の外出は4時間にとどめて、午後2時半に一旦ホテルに戻った。思ったほど暑くもないバンコクなのに、非常に疲れた。午後5時まで爆睡する。
 午後6時、ホテルからアソーク駅に向かって歩く。閉鎖されたアソークの交差点。なんだかバンコクの血流が止まってしまった感じだ。アソーク駅からトンロー駅へ。トンローのソイ12にあるレストラン「桜や」へ向かう。この店は、泰日文化倶楽部の元生徒がマネージャーをやっている。つい最近、オープンしたばかりなのでお祝いに行くという目的が有った。
 のんびり歩いていると、いずれ着くだろうと思っていたが、トンロー通りはきわめて長い。果物売りのおばちゃんに、「ソイ12はあとどのくらい?」と尋ねると、「歩いて行くのは無理、無理。バイク・タクシーで行きなさい」と言われた。午後7時にその店で、上智大学で教えた元学生と会食をすることになっていたので、だんだんあわて始めた。バンコクでは一度もバイク・タクシーに乗ったことがないが、「よし、乗ろう」と決めて、バイクのおっちゃんの腰に手をまわしてしっかりつかむ。
 夕方のラッシュ時だから車が多い。その車の中を縫うようにして奇数側から偶数側へと右折する際には、さすがにひやひや。対抗車線の車は止まってくれても、バイクは止まってくれない。衝突したらおしまいだ。バイク代は20バーツ。かくして、会食時間の10分前に「桜や」に到着。泰日文化倶楽部の元生徒さんに開店のお祝いを述べた。

バンコク散策(2)

ナナ駅でBTS一日乗車券(130バーツ)を買い、サーラーデェーン駅へ行く。タニヤの入口辺りで5人の日本人男性を見た。1人は現地で働いている人、あとの4人はバンコクに初めて出張してきたばかりの人達という様子が彼らの会話や風体からすぐに分かった。スリウォンのジム・トンプソンでコットン生地を買い、20年来、利用している洋裁店へ行くため、再びBTSに乗り、サパーンタークシン駅で降りた。チャルンクルン通りの賑わいはいつも通り。
 洋裁店に着くと、店主のマダムとサブのマネージャーが歓迎してくれる。1年8ヶ月ぶりだ。タイ・シルクの洋服を2着、そして、持ち込みのコットン生地でブラウスを3枚、オーダーする。仕立て代が行くたびに値上げしているのが痛い。しかし、「先生にだけは特別なんですよ」と、マダムは口癖のように必ず言う。
 2日後の夕方、洋服を取りに行った時、マダムは不在であった。マネージャーと1時間半、話して分かったことは、マダムが2年前から体調を壊しており、以前ほど働けなくなってしまったということ。そういえば、前回もそうだったが、今回も目がうつろであった。マダムとしてのオーラがすっかり消えていた。ただし、10人のお針子には、2週間毎に給料計算をして、渡しているとのこと。お針子達はいつもお金が無いらしく、1ヶ月はとても待てないそうだ。18歳でお針子になったマダムは、28歳で自分の店を持ち、54歳の今、店を大きく拡張している。病気は長年の疲れからきたものであろう。
 だが、マネージャーは言った。「でもね、マダムは反政府グループに寄付をし、デモにも参加したのよ」

バンコク散策(3)

 洋服の注文が終わると、一気に空腹を覚えた。洋裁店のマダムが息子をイタリアへ留学させ、隣りでイタリア料理店をやらせているが、まだ一度も食べたことがないので、ランチはイタリア料理を食べることにした。タイ料理ではなくて、イタリア料理? 我ながら変だとは思ったが、イタリア料理のことを、日本人は「イタ飯」という。反対から読めば、「タイ飯」になるから、まあ、よしとしよう。
 食後、シャングリラ・ホテル周辺を歩く。ローカルなタイ食堂でおいしそうに食事をしているタイ人達。安くてうらやましい。
 サパーンタークシン駅近くの船着場までやって来た。飲み物や果物を売っている屋台の光景はいつもと全く変わらない。チャオプラヤ河沿いはおだやかそのもの。政治の混迷も、タイ人の喜怒哀楽もすべて飲み込んで、河は流れる。
 ふと、面白い光景が目にとまった。野良犬だ。口にくわえタバコをして眠っている。野良犬という言葉はそもそもイメージが悪い。その野良犬がタバコをくわえて夢の中とは! 誰かのいたずらであることは間違いないが、こうでもして、バンコクのシャット・ダウン状況を笑うしかない。
 

バンコク散策(1)

2月24日午前4時40分、スワンナプーム空港に到着。タラップを降りて、滑走路の端で待っているバスに乗り換える時、「ああ、タイに来た!」という気持ちが押し寄せてくる。この気持ちは40数年来、全く変わらない。
 スクムビット通りに面したソフィテル・ホテルに午前7時半、チェックイン。窓のカーテンを開けると、眼下に小さな公園。緑がさわやかであった。バンコクはいつ行っても新しいビルが誕生しており、見せかけの発展は、いまだ留まるところをしらない。次回、来た時には、果たして緑の部分はどのくらい残っていることやら…..。
 公園の横にバンコク銀行を見つけた。午前10時半、そこへお金を下ろしに行く。銀行の受付係は女性ではなくて、小柄でなよなよとした若いお兄ちゃんであった。引き下ろす紙に、私の通帳を見ながら私の名前をそのお兄ちゃんが書いてくれる。それって余計なお世話なんだけどなあ….??
 片やカウンターの中に居並ぶ銀行員はすべてが威風堂々とした女性達ばかり。日本では全く見かけることのない光景に、つい可笑しさが込み上げて来た。

新しい講師の愛称はヒカル

ミミ先生がお辞めになったので、かねてより紹介されていたカノックポーンさんを代わりの先生として採用することにした。面接をすると、バンコクで日本人に個人的に教えたことはあるとのことであった。
 彼女の愛称はヒカル。お母さんが日本人の歌手が好きで、その歌手の名前からつけたそうだ。生徒の皆さんが、一体、どの歌手だろうと詮索した。結局、西田ひかるに落ち着いたが、果たして合っているかどうかはわからない。
 ヒカルさんをヒカル先生に仕立て上げるには、少し特訓をする必要が有る。昨晩、彼女に教室に来てもらい、彼女には発音だけ、そして、私は授業展開をはかって90分を無事に終えた。
 授業中、ヒカル先生に向かって、生徒の発音で気になった点を尋ねると、「ng と nの発音がはっきりしていません」と答えた。
 そこで、私は、ngや nで終わる単語や文章を生徒に言わせた。例えば、「2時間、教える」、「タイ料理をごちそうする」、等々。そして、末子音がnばかりで終わる文章も言わせた。「日本人が日本料理店で日本料理を食べました」
 すると、生徒の一人が言った。「よく、そのように、すかさず例題が浮かびますね」 
 私は自信を持って答えた。「40年以上もタイ語を教えていますから」

タイへ行きます!

今日の深夜から、タイへ行きます。帰国は3月1日(土曜日)の夜です。
 マイレージが切れるので行くだけですが、行くからには教科書を購入してきたいと思っております。私がいつも行く教科書会社は民主記念塔の前に在りますので、果たして安全なのか否かはわかりません。だめであれば、チュラロンコーン大学の書店を行ってみるつもりです。
 私とタイとの出会いは1969年。今年で45年になります。当時は軍事政権でした。その後、民主政権が誕生した時にはタイの将来に明るさを覚えたものですが、今のタイの混迷には憂慮しています。旅行した方達のみやげ話を聞いていると、お祭り騒ぎだと言います。しかし、それは表面的な現象にすぎないでしょう。
 タイの混迷はまだまだ続くと思います。その混迷の空気を吸って、タイの今後について、いろいろと考えて来るつもりです。

フランス語のリエゾン(連音)

そろそろ冬季オリンピックも終わりに近づいた。時差の関係で夜中のTV中継はきつかったが、女子フィギュア・スケートが終わったので、もう普通の日常生活に戻りたいものだ。
 今朝は、フランス語の振替え授業が有った。10時半までに着くように急いで教室へ行く。今日の授業も内容が盛りだくさんであったが、単語はなかなか覚えられない。忘れてばかり。だが、タイ語の文字から離れて、アルファベット文字を読むと新鮮な気分になれ、刺激的だ。
 ヒアリングの勉強で、26歳のフランス女性が、5日後にシカゴへ向かい、そこでアメリカ人にフランス語を教える予定であるという内容を聴かされた。その中で、「USAに於いて」という単語が出てきたが、フランス語では、aux Etats Unis と表記し、それを連音化して読むと、「オゼタジュニ」となることを教わった。「USAで」が、オゼタジュニ とは! 聞いても想像がつかない。慣れるしかないようだ。
 いずれにせよ、リエゾン(連音化)だらけのフランス語は発音もヒアリングも難しい。