美しく生きよう!

 先週の土曜日、華道講師に尋ねた。
 「どうすれば、上手に花を生けられるようになりますか?」
 性格がさっぱりとした講師は即座に答えられた。
 「美しいものをたくさん見ることですね」
 一方、茶道講師は稽古中にいつも同じことを注意なさる。
 「順番を間違えても大丈夫。あくまでも所作が美しくなければなりません」
 昨日、すでに鬼籍に入ってしまった歌舞伎役者二人の踊りをテレビの再放送で見た。とても軽やかでいて、力強い舞いであった。幼少期から稽古、また稽古の日々を送って来た彼ら。手足の動きに魅せられた。
 「美しく生きる」とは、時々、とってつけたように意識するのではなくて、日々の研鑽そのものから生まれる。
 いずれにせよ、凡人には難しい。とりあえずは、「天高く馬肥ゆる秋」を掲げ、美味しいものを食べてから、美の扉を開こうではないか。
 

on(上)よりも、in(中)がいい

 大学の授業の「オンライン online」に対して賛否両論が有る。対面授業が良いに決まっているが、コロナ後の時代はおそらくオンライン化が進んでいることであろう。だが、勉強は何と言っても「教室の中」がよろしい。次なる意見は私の風刺評である。

1.”on”は、英語で、go on(続ける)、keep on (続けて)、on and on (どんどん)という表現が有り、事態が流れていく感じがする。つまり、流れ流れて行くだけで、一つのところに留まらない。
2.日本語で、「うわずった声(=上擦った声」とか、「言葉が上滑りする」とかいうが、決していい意味の表現ではない。
3.「上」という漢字に、一本の棒を立てると、「止」になり、思考停止にもなりかねない。
4.胃や腹の上に食べ物を置いても、栄養は吸収されない。腐るだけである。口から中に入れてこそ、臓腑に到達し、初めてエネルギーの元になり得る。
5.したがって、on(上)よりも、in(中)のほうがいい。「中」という漢字はバランスがよく、とても安定している。

今日の宿題

 今日は、「มือ 手」を使った表現のうちから、覚えていたほうがいいと思うものを以下に列挙します。辞書をみないで訳してみてください。

1.ทางขวามือ  2.นิ้วชี้มือซ้าย  3.ฝ่ามือ  4.แบมือ
   
5.ลงมือ    6.วางมือ    7.ตบมือ  8.ปรบมือ

9.กวักมือ  10.จูงมือ   11.จับมือ  12.กำมือ

13.คู่มือ  14.เครื่องมือ  15.เจ้ามือ  16.ฝีมือ

17.ลายมือ 18.หัวแม่มือ  19.มืออาชีพ  20.มือเปล่า

シジュウカラ語

 昨日、日本野鳥の会東京支部から『ユリカモメ 2020年11月号』が届いた。その中に、平中直也氏による「Covid Quarantine Birding 第5回」として、シジュウカラの言語能力に関する記述が有った。氏は<僕の勝手な想像&妄想>と前置きしながらも、次なることを書いておられる。
 ーー シジュウカラ語では、鳥類は自我を持ってないから、たぶん主語はYouとItに相当するものだけしかない。形容詞はたぶん少なくて、甘い/苦い、明るい/暗い、安全だ/ヤバイ、といった最低限の単語だけでしょう。よってシジュウカラ語では、主に名詞と動詞と形容詞の組み合わせで言語が成立している。
 例: 「木の実」+「甘い」+「こっち来い」→ 食事
    「ヘビ」+「来る」+「ヤバイ」→ 警告
    「メス」+「可愛い」+「こっち来い」→ 欲望

 こういうのを知ると、単純なる言語交換の世界に戻りたくなる。人間が使う言語はあまりにも曖昧模糊としており、最近は特に使い方が偏向しすぎている。「俯瞰的」という表現、実に玉虫色だ。

ต้มตุ๋น という表現

 今日は「ต้มตุ๋น」というタイ語表現について述べる。これは、「ต้ม」と「ตุ๋น」の2つの動詞を並べたものだ。

1)ต้ม という動詞は、ต้มยำกุ้ง(トムヤムクン)ですでにおなじみの動詞だが、料理名の時は「煮る」という意味を有する。だが、2番目の意味として、「騙す」が有る。

2)คุ๋น という動詞も、料理名としては、ไข่ตุ๋น(カイトゥン 茶碗蒸し)に出て来る。この場合は「具材を容器に入れて蒸し器で蒸す」という意味だが、2番目の意味としては、ต้มと同じく、「騙す」が有る。

 従って、両者を合わせた「ต้มตุ๋น」も「騙す」となる。一般的には迷惑受け身として受身形で使われるほうが多いから、「ถูกต้มตุ๋น」で覚えたほうがいい。
 このところ寒い日が多くなった。トムヤムクンや茶碗蒸しを食べて体を温めながら、悪い奴に騙されないように気をひきしめよう。

JR高田馬場駅 祝110周年

 昨夜、授業が終わって高田馬場駅に行くと、駅舎内の広告柱にふと目が止まった。近くにある小学校の生徒達が電車の線画に思い思いに塗り絵をしたものであった。
 広告として借りるならばものすごく高くつくのに、これは一体どうしてかしらと思いながら、ふと画面の上の方を見ると、「高田馬場駅 110周年」と書いてあり、お祝いのために小学生の塗り絵を展示しているということがわかった。
 高田馬場駅の沿革を調べてみると、1910年(明治43年)9月15日に山手線の駅として開業と書かれてあった。西部鉄道が乗り入れたのは1928年(昭和3年)、そして、1964年(昭和39年)に営団地下鉄の東西線が開業したとのこと。1945年4月13日には米軍の空襲を受けて全焼している。
 私は上京した1965年(昭和40年)から高田馬場駅を利用しているから、55年間が経過。高田馬場駅の後半生を知っていることになる。泰日文化倶楽部は満32周年だが、これからも高田馬場駅と共に歩んで行きたい。

今日の宿題

 タイ語作文=次なる文章のあとに、もう一文、付け加えて、あなたの意見を述べてください。

1.鳩に餌をやってはいけません。

2.路上に痰を吐いてはいけません。

3.汚い言葉を使ってはいけません。

4.夜更かしをしてはいけません。

5.無駄な買物をしてはいけません。

6.悪口を言ってはいけません。

7.子供を虐待してはいけません。

犀利な目

 昨日、佐伯真光氏(仏教哲学者・僧侶)が書かれた「明治仏教百年の錯誤」(『大法輪』1968年4月号 所収)を読んだ。その中に、<犀利な目で見抜いた>という表現が有った。
 <犀利な>という表現を調べると、①堅く鋭い、例:犀利な小刀、犀利な武器、 そして、②才知で、鋭くものを見る眼が性格、例:犀利な洞察力、犀利な感覚、と書いてあった。
 2020年はコロナ、コロナと言いながら終わりそうな気配だ。しかし、あと2ヶ月余、なんとか精神をしっかりと保持し、頭脳と感覚を研ぎ澄ませようではないか。
 <犀利な>の「犀」は、あの動物のサイだ。この漢字、書くのが実にややこしい。拡大してみて初めて覚えた。愚鈍そうに見えると思っていたあのサイ。だが角は確かに武器の如く堅そうだ。

柿栗

 昨日の茶道教室で、「柿栗」という和菓子が出た。栗の周りを干し柿で包んだものだが、なかなか手がこんでいると思った。「1粒で2度おいしい」というお得感があった。何故ならば、柿と栗が同時に楽しめたからである。
 巷によく売れている「いちご大福」も苺と大福のコラボだが、果物だけのコラボはより季節感が演出されて、二十四節季を好む風流人にはたまらない。
 和菓子の話題から急に語学の勉強に飛ぶのはいささか唐突だが、語学の勉強に於いても、このコラボ精神が有っていいと思う。一つの言語だけにのめりこみ深く勉強するのもいいが、時には他言語も学び、気分を変えてみてはいかが?
 泰日文化倶楽部の「英会話 土曜日14:30」のクラスは、まさしく柿栗状態でやっている。英語とタイ語が飛び交い、とても傑作だ。

ภักษา という単語

 生徒さんの翻訳を添削していると、「ภ้กษา パックサー」という単語に出くわした。ほとんど見かけることが無い単語だ。前後の文脈から、「食物」という意味であることは推測できた。辞書で調べると、サンスクリット、パーリ語系列から来た文語であった。
 それにしても、「ภาษา パーサー 言語」という単語と、なんとまあ字面が似ていることか!
 穿った見方をするならば、「パーサー 言語」は、すなわち、人間にとって、「パックサー 食物」と同格に位置するものかもしれない。
 いや、待てよ。他にも似たような単語が有る。「ภาษี パーシー 税金」、及び、「ภาระ パーラ 責務」だ。これらも我々人間につきまとって離れないものだ。
 いろいろな「ภาพ パープ 状態、図、絵、像」を描きながら、人生は進んで行く。