ミャンマー女性と生け花

 昨日、月に一回だけの生け花クラスが実施された。嬉しいことにタイ女性とミャンマー女性が一名ずつ参加し、久々に東南アジアの風を感じた。
 彼女たちは、全くの初心者であったので、女郎花(おみなえし)と鶏頭を生けた。そして、二人は自分の生けた花を花瓶ごと持ち上げて、相互に写真を撮り合った。そばで見ていた日本人が、「生け花を持ち上げるという発想は日本人には無いわね」と言った。
 ミャンマー女性は机の上に置いた花瓶をくるくる回しながら、いろいろな角度から更に写真を撮った。帰宅後、自分一人で行けるために参考にするためだそうだ。緻密で勉強熱心な彼女の姿に教えられるものが有った。
 一方、生まれて初めて日本伝統の生け花を生けたタイ女性は、美しい笑顔で、華道講師に恭しく合掌(ไหว้)をした。

「駆け引き」というタイ語

 今朝、ニュースを聞いていたら、東芝問題は水面下で3グループが駆け引きをしているのでなかなか決着がつかないと報道していた。「駆け引き」というタイ語をスマホで調べてみると、「กลยุทธ์」と書いてあった。ああ、やはりこの単語かと思ったが、問題は、発音表記だ。「klyuthth」と書き、最後の「h文字」の上に、「ノ」のような記号がつけられてあった。この書き方は、タイ文字を自動的にアルファベット化しただけであり、どのように発音していいのか、全くもってわからない。
 スマホのタイ語の発音表記に関して疑問に思うことが多い。私の場合はただ興味本位にチェックしているだけであって、スマホでタイ語を勉強しているわけではない。しかし、タイ語を習う人には混乱を招く気がする。
 กลยุทธ์ は、「kon-la-yut ゴンラユット」と発音する。「กล kon」は策略、計略という意味で、「ยุทธ์ ユット」は戦闘、戦争という意味である。กลยุทธ์が跋扈している世界情勢下にある昨今、心おだやかではない日々が続く….。
 

タイ語の合成動詞

 タイ語は原則として一音節である。多音節の単語はサンスクリットやパーリ語からの借用語からと思ってよろしい。今日は一つの動詞の意味は知っているが、それが動詞+動詞の合成語になると、さらに発展して独立した意味になってしまう動詞をいくつか列挙したい。
 ① หา(探す) หากิน(探す+食べる=稼ぐ)
 ② ติด(くっつける) ติดต่อ(くっつける+つなぐ=連絡を取る)
 ③ เชื่อ(信じる) เชื่อฟัง(信じる+聴く=素直な態度を示す)
 ④ สั่ง(命令する) สั่งสอน(命令する+教える=教えさとす)
 ⑤ ซัก(洗濯する) ซักถาม(洗濯する+尋ねる=問いただす)
⑥ เรียก(呼ぶ) เรียกร้อง(呼ぶ+叫ぶ=要求する)
 他にも、4つの動詞をつなげて、ทำ(する)+ มา(来る)+ หา(探す)+ กิน(食べる)=生計を立てる、という新たなる表現が生まれる場合がある。たくさんの文章を読んで覚えていくしかないが、努力を重ねれば、豊かな表現ができるようになる。

秋田銘菓の「しとぎ豆がき」

 昨日、一ヶ月ぶりに編物教室へ行くと、先生から「秋田銘菓 しとぎ豆がき」というお菓子を頂戴した。先生の故郷は秋田。お盆に郷里へ帰られた時に、生徒達に買って来られたというわけである。
 私は、「しとぎ」という言葉が気になって、スマホで調べると、「米の粉や糯米(もちごめ)でつくった長い卵型の餅で、神様に備える」と説明してあった。「しとぎ」を表わす漢字は、「次」の下部分に「米」を書くそうだが、なぜか私のPCのソフトにはその漢字が出て来ない。
 いずれにせよ、米や、米文化にまつわる話は古代からあるものの、読書をして知識を増やさない限り、だんだんわからなくなっていく。テレビの宣伝に出てくる「さとうの切り餅」だけが頭に残るようでは、稲の神様に申し訳ない。

停電 ไฟดับ

 昨日の朝、「タイ語中級 火曜日10:30」の授業をするために元気よく家を出た。ところが、目白駅に到着すると、改札の前に人がいっぱい。山手線が止まっていることはすぐに想像がついたが、原因(สาเหตุ)が停電(ไฟดับ)であり、いつ電車が動くかわからないというアナウンスを聞いたので、急遽、教室まで歩くことにした。授業に遅れること8分。生徒さんに向かって謝るとともに、停電というタイ語を教えた。
 「停電はไฟดับ ファイ・ダップです。もしも語順を反対にして、ดับไฟ ダップ・ファイと言うと、それは消灯になります」
 タイ語は語順が反対になると、当然、異なる意味になるから気をつけよう。
 ①ไปส่ง(送って行く) ส่งไป(~へ送る)、 ②ซื้อให้(買ってあげる) ให้ซื้อ(買わせる)、 ③เครื่องบินตก(飛行機が落ちた)ตกเครื่องบิน(飛行機に間に合わなかった)、 ④ได้รับ(受け取った) รับได้(受け取ることができる)、等々。

新島八重と茶道

先週、『新島八重の茶事記』(筒井紘一著・小学館刊 2013年)を買って来て読んでいたら、偶然にも、八重さんの出身地である会津若松から<会津のしずく>というぶどうが送られて来た。送り主は元生徒の御実家からである。元生徒は20年前の卒業生だ。しかし、原発騒動の数年を除いて、彼の親御さんが私にずっと果物を送り続けてくださっている。東北の方の情のあつさには毎年、驚かされてばかり…。
 ところで、話を新島八重に戻すが、彼女の生涯は、『八重の桜』(NHK大河ドラマ 2013年)で全国に知れわたった。私はあまり見ていなかったが、今度、入手した上述の本で、彼女が未亡人になって以後、50歳から裏千家に入門し、87歳で亡くなる前日まで茶を楽しんでいたことを知り、学ぶことが多かった。波乱万丈の前半生を経て、37年間、齢を重ねながら精神統一を茶道に求めた彼女。女性の生き方として大いに参考にしたい。

อะไร = กระไร

昨日、個人レッスンの生徒さんと一緒にタイの昔話を読んでいると、อะไร(何)という単語ではなくて、กระไร(何) と表記されていた。両者とも同じ意味だが、後者にはどことなく重々しさが感じられる。
 『タイ日辞典』(冨田竹二郎編纂・養徳社刊)の中に、4つの例題が引用されているが、そのうちのื2文を以下に孫引きする。
 1)เขาช่างดีกระไรอย่างนี้ ไม่เคยเลยปฏิเสธการช่วยเหลือเพื่อน
2)ความเดือดร้อนจากการขึ้นราคาสินค้า สำหรับฐานะปากกลางไม่สู้กระไรนัก ที่อาการหนักก็คนยากจน
<กระ>という接頭辞を有する単語は枚挙にいとまがない。初心者ならกระเป๋า(カバン)、กระดาษ(紙)程度で済まされるが、中級者にはกระทรวง(省)は覚えてほしい。
 なお、กระという単独語としては、<老人の顔にできる斑点>という意味があるそうだ。ตกกระは<斑点が出る>ということになる。斑点との闘いが始まり出した私……。ビタミン補給をしなければ…..。

久々の中国語クラス

 昨日から、「旅の中国語 土曜日14:30」を開始した。受講生は私を含めて4名。講師は大連出身の女性で25歳。熱心に発音を指導してくださったことに感激した。年内までの4ヶ月間に、なんとか形がつくと嬉しい。
 それにしても、中国語の発音が泰日文化倶楽部の教室で流れたのは実に久しぶりのことであった。20年前頃、中国語のクラスを開講したことがある。たしか、その時の生徒が、今回の生徒の一人ではなかろうか?
 語学の習得には、まず最初、発音をガンガンやればいい。語学は発音ありきだ。文法は自分で勉強するもの。そして、質問が生じれば、先生に尋ねればよい。
 我々の発音がうまくいくと、若い女性講師は生徒の一人一人にハイ・タッチを求めてきた。それが嬉しくて、皆、発音を頑張った。昨日は久々に楽しい時間を学習仲間と共有することができた。

จำ という単語

 จำ(ジャム)という単語は後ろに組み合わせる単語によって、いろいろな表現ができるから、少しまとめておきたい。
1)覚える= 例:จำคำศัพท์(単語を覚える) จำได้(覚えている) จำไม่ได้(記憶にない)
2)閉じ込める= 例:จำคุก(収監する)
3)必要な、~ねばならない= 例:จำเป็น จำเป็นต้อง ความจำเป็น(必然性)
4)心ならずも= 例:จำใจ(いやいやながら~) 
5)保持する、守る= 例:จำศีล(戒律を守る)
6)寝る= 例:จำวัด(僧侶が寝る)
จำという単語は、これら以外にも別の単語と合成されて独立した単語となる場合がたくさんあるので、それらを一つ一つ覚えていかなければならない。例:จำนวน(数量) จำนอง(担保に入れる) จำนำ(質入れする) จำพวก(種類) จำเลย(被告) ประจำ(常駐する、固定する)

太い & 眠い

 初級の生徒さんから質問が有った。
 「太いと眠いのタイ語の発音の違いがわかりません」
 それを聞いて、私はびっくりした。何故ならば、<太い(อ้วนウアン)>と<眠い(ง่วง グアング)>の発音はかなり違うと思っていたからである。<甘い(หวาน ワーン)>の発音を言いたいのかと思ったが、やはり<太い>であった。そして、<広い(กว่าง グワーング)>の発音を言いたいのかと思ったら、なんと<眠い>であった。
 そこで私は考えた。日本人にはタイ語の発音が難しい、と。タイ人講師が何回も繰り返して発音しても、その違いが判別できない。そのうち、どうにか違うということがわかっても、自分では発音ができない。教室での訓練を地道に重ね、どこかの時点で、自らが体得するしかない。