久しぶりのインドネシア語

 昨日、プライベート・レッスンを受けに来られた生徒さんと話していると、彼がインドネシア語が得意であることがわかった。中国語も相当に出来るらしい。
 泰日文化倶楽部では、2年前にインドネシア語のクラスも開講していたが、インドネシア語講師がジョクジャカルタに帰られたため、クラスは自然消滅となってしまった。
 私はインドネシア語をしゃべりたかったが、一言も出て来なかった。覚えているのは、インドネシア人講師がママチャリに乗って、元旦に東京から箱根を超えて鹿児島まで行ったこと、そして、メッカに行って500キロ歩いた話だけである。
 そこで、反省。何一つ単語が出て来ないということは、習っている時から、全く身についていなかったということだ。講師はとても熱心ですばらしい方であったが、生徒の私は…..。
 ひるがえって、タイ語の授業のことを考えると、おそらく生徒の皆さんも同じことが言えるかもしれない。いくら教わってもタイ語が思うように頭に入っていかない生徒達。
 タイ語講師として、どのようにすれば生徒の頭にタイ語が残るか、工夫に工夫を重ねて、印象深い授業を心がけねば….。

意識して自ら学ぶ外国語

 今朝、NHKの教育テレビ(Eテレ)「こころの時代」で、香川県に在る児童心理治療施設「若竹学園」の理事長(野田大燈老師)がお話をされた。そのような施設が香川県に有ること自体、私は全く知らなかった。
 そこではたくさんの子ども達を預かり、将来に備えて生活指導をしておられるようだが、日々の活動の一つとして、ハーブ栽培をし、お遍路さん達にお茶の接待をしているとのこと。
 お話の中で、私が最も興味を覚えたことは、外国人の観光客の接待のために子ども達が自ら英語や韓国語を学び、それらを実際に使って、遠来の外国人をハーブティーでお接待している点である。
 好きな外国語を自ら学ぶ。この精神がなによりも大切だ。地方では、外国人に会うだけでも興奮する。これは私の経験から言える。実際に外国語を話して、それが通じた時の喜び。これが外国語を学ぶ楽しみであり、刺激でもある。

或る中国人講師

 私がアジア・アフリカ語学院でタイ語を教え始めたのが1976年。もう少しで40年になる。その間、アジアやアフリカの言語を教える諸先生方にたくさんお会いしたが、なかでもとても印象に残っている先生の一人に、中国人女性講師がおられる。
 その中国人講師はいつも中国の服をお召しであった。堂々たる風格と威厳をお持ちで、近寄りがたかった。しかし、本当は生徒思いのお優しい先生であられたのである。
 他校では中華料理も教えておられたので、中華の腕は抜群。アジア・アフリカ語学院でタイ料理を作っている時、鶏の胸肉の皮をはがし、それを捨てると、彼女は私を叱った。「何故、捨てるのですか? 全部、使いなさい」
 校庭に山椒の木が有った。彼女は山椒の実を一人で採っていた。「誰も採らないのね。ああ、もったいない」、と言いながら。
 そして、1995年3月20日、彼女はサリン事件に遭遇した。彼女の眼はやられた。御気の毒で仕方がなかった。10年位前に他界された。

「老いるタイ」という見出し

 昨日、朝日新聞朝刊の国際欄に、大きな見出しが躍っていてドキリとした。
「老いるタイ」
 いったい何事かと思って記事を読むと、タイの高齢化率(65歳以上人口の比率)が国連統計(2015年)によると10.5%、したがって、あと20年余りで現在の日本の水準に達するとのこと。
 この予測に対して、マヒドン大学人口社会研究所のプラモート・プラサークン名誉教授の言葉が添えられている。「タイは、富む前に老い始めた」
 バンコクへはしばらく行っていない。モダンなショッピングセンターには全く関心なし。タイ人の懐(ふところ)ばかりが気になって仕方がないからだ。
 タイ人の生活レベルが上がったのは認めるが、外国資本に踊らされている状態では、タイ人のお金は浪費されるだけ。
 田舎の人達が日本に出稼ぎに来る現象が増えたのは1990年以降だ。出稼ぎには諸問題が伴う。お金がいいというだけで日本に働きに来るタイ人。最近は十分な教育を受けた人も日本に来ている。
 タイの社会問題、そして、社会構造の急速なる変化は、これからも報道のネタになり続けることであろう。

年月日をすらすら言えるようになろう!

 水曜日に開講している中級クラスは3クラス有る。いずれももう4年以上、実施しているので、泰日文化倶楽部の指定教科書は終わってしまった。そのため、いろいろなテキストをコピーして勉強しているが、なんと、これまたすぐに終わってしまう。
 「先生、もうすぐ終わります。次のものを用意してください」
 このように言われるたびに、本当にタイ語の力がついているのか否か、私としてはついつい疑問視してしまう。
 そこで、昨晩、生徒さんの学力を測るために、年月日を言わせてみた。結果はいずれの皆さんもスラスラ言えなかった。
 「それじゃあダメですよ。とにかく、数字や、月の名前がパッパと言えないといけません。奥さんや子供さんの誕生日も言ってみてください」と言うと、ますます口ごもってしまった。どうやら愛する家族の生年月日を思い出すのに時間がかかっているようであった。

อดอยาก (オット・ヤーク)という単語

 『小学校国語教科書2年生』の中に、<低子音のย>を中子音化して作った<อยを用いた単語4種類>の説明がある。小学生にわかりやすいような例文がついているので、それを列挙する。
(1)อย่า : เธออย่าไปนะ เธออย่าตกใจนะ
(2)อยู่ : ฉันอยู่ที่โรงเรียน แม่อยู่ที่บ้าน
(3)อย่าง : รถแล่นมาอย่างเร็ว เธอมีของกี่อย่าง
(4)อยาก : น้องอยากกินขนม
これらの例文はとても易しいから、難なく訳せるはずである。
ところが、次なる文章はどうかな? (1)から(4)までの単語を全部、組み込んだ文章である。
       อย่าอยู่อย่างอดอยาก
問題は、<อดอยาก オット・ヤーク>の意味である。これは、「飢える、飢餓に瀕する、窮乏する」という意味だ。
小学生に対して、とても深い教訓を垂れているではないか。

今年の授業はあと1ヶ月

 泰日文化倶楽部の今年の授業は12月22日(火曜日)までです。12月23日(水曜日)から1月6日(水曜日)までは冬季休暇に入ります。ですから、今年の授業はあと1ヶ月だけ。
 さて、今年の進捗度はいかに? 反省するのであれば、この1ヶ月ですよ。大掃除をするような気持ちで、ご自分の弱点を洗い出して箇条書きにしてみましょう。
 自分ではわからないというのであれば、タイ人講師や私に尋ねてみてください。適切なる助言を与えて差し上げます。
 オリンピックでボランティア通訳をやりたいという方が多いのですが、それはそれですばらしい目標です。でも、夢物語のようなことを言っていては、ただただ年月だけが過ぎて行くだけ。あと4年半、計画的にタイ語能力を伸ばすためにはどうすればいいのか、これからの1ヶ月は反省月に充ててください。

ケッタイな人

 『なにわ魂 -したたかに生きのびる知恵』(藤本義一著・講談社 1998年)の中には、<ケッタイな人>という言葉がぎょうさん、書かれている。
 「大阪という土地から芽生える思考と表現はたしかにケッタイである。ケッタイは怪体であり、怪態であるというが、この奇妙さは決して意識して生まれたわけではない」と藤本氏はのたもうておられる。だが、念のためグーグルで調べると、「けったいとは、けたい(卦体)とか、きたい(希代)が変化したもので、不思議なさま、奇妙なさま、世にもまれな様子を意味する」とのこと。
 さて、この書の中に、なんと藤本氏がチェンマイの農村で感心したことが書かれてあった。それを要約すると、こうである。
 わずか1.5m²の水溜りに釣糸を垂れている釣人のタイ人が実にケッタイな人に見えた。「阿呆なことをしている。釣糸を垂れて釣れるのを待つより、池浚いをしたほうがいいのではないか」
 と、おれは通訳にいったものだ。炎天下で小さな小さな溜池に釣糸を垂れているタイのおっちゃんが愚かに見えた。
 「五人の家族がいて、今、三匹の魚を釣ったから、後二匹釣ったなら帰るよ。池を浚えたら、たくさん獲れるかもしれないけど、それ、いけないです。無闇な殺生してはいけない」と、おっちゃん。
 藤本氏は釣人のタイ人の真意がわかり、恐縮せざるを得なかった。おれの考えのほうがケッタイだったことになる。と、タイで悟るのである。

ことば通じて、意味通ぜず

 季刊誌『考える人』(新潮社 2011年冬号)の中に、今年6月に逝去された西江雅之氏(言語学・文化人類学者)の連載が掲載されていたので、古本屋で買った。題して、「ことば通じて、意味通ぜず」。
 西江氏がソマリアへ行った時の体験は実に面白い。「日本という所には羊はほとんどいないのです」と言っただけで、羊を食べて暮らしている土地の人々は次のように解釈したそうだ。「日本には既に羊がいないということは、食料が尽きてしまった土地なのではないか、そして、そうした土地から逃れて来た流れ者なのではないか」と受け取り、怪訝な眼で彼を見たとのこと。
 西江氏は「あの人は保守的だと言っても、具体的なことになると、その評価から他の人が思い浮かべることはまちまちである。だからこそ、<ことば通じて、意味通ぜず>なのである」とも言う。確かに、同じ日本人同士であっても、本当は20%くらいしか共有しておらず、あとの80%はてんでばらばらの解釈で済ませているような気がする。日本語でもこうなのだから、ましてや外国語となると、解釈度数や如何に?
 単語はなんとか通じても、真意が伝わらないということは一大事。情報や批評が多すぎる現代社会に於いては、もはや隣人、友人、そして、親類縁者ですらも、外国人だと思っていたほうが無難かもしれない。

ブロードウェイ・スターの声量

 昨日、渋谷の東急シアターオーブで「Prince of Broadway」を観た。泰日文化倶楽部の生徒さんから「是非観てください!」と推奨されたので、久しぶりにブロードウェイ本場のミュージカルを味わってみることにしたわけである。
 と言っても、切符は当日売り。有るか無いかわからないまま行ってみた。ところが、ものすごくいい座席が残っていた。それだけでもラッキー!
 私の隣りの座席の方も当日売りの切符を手に入れた方である。彼女が私に英語で話しかけてきた。失礼とは存じつつ、どこの国の方かと伺うと、香港だと答えた。もしかすれば、タイ人かなあと思っていたが、それははずれた。
 ミュージカル・スターの声量には圧倒された。毎日、声帯を酷使して大丈夫なのかしらと心配になったが、そこはプロ中のプロ。彼らはコントロールの仕方を身につけている。だが、健康でなければあれだけの声は出ない。美しい声を聞くということは何とすばらしいことであることか。命の洗濯をさせてもらった。