店? それとも 孫?

 先週、「タイ語中級」のクラスで、自由会話をしている時、Aさんが「ラーン…..」という単語から始めた。それを聞いて、私は何かのお店のことを話題にしていると思った。そのうち、「ターイ・ループ」という単語が聞こえてきたから、写真屋さんの話かなと想像した。
 しかし、Aさんの文章が文章としてまとまりを欠いていたので、一体、何の話かと尋ねたところ、「孫の七五三で、写真を撮った話です」と答えた。
 それを聞いて、「店 ร้าน raan 高声」ではなくて、「孫 หลาน laan 上声」と言いたかったことがわかった。
 「ラーン」と聞こえる単語は他にもいくつかある。「百万/禿げ頭 ล้าน laan 高声」、「洗う ล้าง laang 高声」、「下 ล่าง laang 下声」、等。
 長母音ではなくて、短母音の「ラン」もある。「~後 หลัง lang 上声」、「大きな音を立てる ลั่น lan 下声」、「巣 รัง rang 平声」、等。
 タイ語の単語は原則として、一音節が多いから、一つ一つの単語をしっかりと覚えなければならない、特に、似たような発音には要注意である。

英語で会話するタイ人達

昨日、清澄庭園を散策しようと思って、地下鉄半蔵門線の清澄白河駅へ行った。地上に出たところ、小奇麗な鮨店が目にとまったので、入ってみることにした。
 カウンターに外国人が4名座っていた。おしゃれな彼らを見てラテン系?、と私は思った。 しかし、彼らの話す言語は英語であった。だが、そのうち、タイ語が聞こえてきた。あれあれ? どうしてタイ語を話すのであろうか? どう見てもタイ人には見えない。まず、ヘアスタイルが違う。そして、顔の表情も態度もタイ人のものではなく、欧米で住んでいる雰囲気を持っていた。
 4名のうち、3名は60代。いかにも裕福そうな感じであった。精算を済ませると、「安い! ถูกมาก」とタイ語で言った。残る1名は若者。この若者はほとんど英語でしゃべっていた。アメリカに留学中なのかしら?
 彼らは急ぐ様子もなく、会話を楽しんでいた。私は帰り際に、彼らに話しかけた。
「観光ですか? มาเที่ยวหรือคะ」
 彼らは一瞬、驚いたが、「タイ語がわかるの? เข้าใจภาษาไทยหรือ」と私に言って、嬉しそうにした。

医療通訳

 一昨日、生まれて初めて救急車(รถพยาบาล)に乗った。それは自分のことではなくて仕事のためであった。後部座席から外部の様子が運転席周辺を通して少しだけ垣間見られたが、車両がなかなかよけてくれず、そして、横断歩道の歩行者も平気で歩いているのを見て、やきもきした。
 大学病院では大勢の患者さんが待っている状態だ。しかし、急患だから、すぐに診察を受けることができた。医者は女医(นายแพทย์หญิง)。的確なる診断を下していくので、私も負けじとスピードを上げて通訳する。個人的に言えば、病院(โรงพยาบาล)とは距離を置きたい、すなわち、いつまでも健康でいたいと願っているが、仕事となると話は別である。
 通訳の仕事を通じて、これまでに都内のいろいろな病院へ行ったことがある。それはそれでいい経験(ประสบการณ์)だ。
 一昨日の患者さんは、最初に小さな病院へ運ばれたそうだが、その小さな病院にタイ語が話せる職員がいたとのこと。なんとすばらしいことであろうか! おそらくその方はタイが大好きで、こつこつとタイ語を勉強しておられるのであろう。

富岡八幡宮 と 伊能忠敬

 先週、仕事帰りに門前仲町の富岡八幡宮に寄ってみた。早めの七五三をしている幸せそうな家族(ครอบครัว)が写真を撮っている(ถ่ายรูป)。せっかくの記念写真に他人が入ってしまうのは気の毒だと思い、お参りは端っこのほうで済ませた。
 境内を歩いていると、「写真を撮ってくれませんか?」と言って、老人が昔懐かしい紙製の箱カメラを私に渡した。そのカメラのことを何て言っていたか、もう忘れた。そうだ、思い出した。バカチョンカメラだ。
 「九州から来ました。あそこに伊能忠敬の銅像が有ります。感激しました」と、彼。一人旅だそうだ。
 そう言われたので、私も銅像(รูปหล่อทองแดง)に近寄り、説明文を読んだ。伊能忠敬は全国へ測量に出かける時には、必ずといっていいほどこの富岡八幡宮にお参りをしてから出発し、そして、日本全国の地図(แผนที่)を作り上げたそうだ。それを知って、富岡八幡宮は挑戦のスタート地のように思われて来た。

お母さん、お母さん

一週間前、広島へ行った時、お好み焼きを食べた。楽しい思い出ができたのをもう一度、思い出したくて、高田馬場駅近くにある広島風お好み焼き店へ行ってみたところ、満員。しかし、私は頑張って待つことにした。
 「お母さん、とりあえずここに坐っていてよ」と言われたので、言われるがまま、狭いところに坐った。
 5分後、「お母さん、席が空いたから、どうぞ」と、鉄板の前に案内された。
 それから、10分後、「お母さん、悪いけど、ひとつ席を寄ってくれない?」
 見ると、若いカップルが入って来ていた。私は心よく応じた。
 だが、私は、お母さん、お母さん、と呼ばれるたびに、誰かほかの女性を呼んでいるのかと思った。なんのことはない。私のことであった。
 300メートル先に在る泰日文化倶楽部では、「先生、先生」と呼ばれるのに、お店では、「お母さん」。呼ばれ方が変わると、顔の表情も変わる。どちらもいいなあ。

授業は厳しくお願いします。

 昨日から若い女性が個人レッスンを受講し始めた。メールでは何回かやりとりをしていたので、彼女の要望はほぼ把握していたつもりである。
 だが、やはり実際に会って、生徒のタイ語力を見てみることの重要さを痛感した。何故ならば、受講生の個性は一人一人、異なるからだ。
 新しい生徒の長所短所はすぐに分かった。「อ オー」の母音が変。タイ人講師に発音矯正を指示。私は口の開け方、舌の位置を指導。そして、同じ母音を持つ単語をたくさん発音させたが、やはりすぐには出来なかった。たとえば、พ่อ หมอ สอง สอน ร้อน ร้อย ขอ รอ ชอบ ก็ 等々。
 夕方、メールで授業の感想を求めると、「出来ないのは悔しいです。ですが、出来てないのに気付かずに、出来る気になってる事はもっと恥ずかしいです」、という謙虚な返事が反ってきた。
 来週も、彼女の新たなる短所を指摘して、彼女を鼓舞しよう。最近、個人レッスンの指導が面白くなった。私の体にも緊張と刺激が走るからだ。

砂時計

先日、喫茶店に入り、ダージリンの紅茶を頼むと、小さなポットに入った紅茶が出てきた。そして、砂時計がついていた。
 私は砂時計が嫌いだ。何故ならば、落下していく砂を見ると、時間があっというまに経っていくのが如実にわかり、もの悲しくなるから…..。
 昨夜、「タイ語中級 水曜日18:30」の授業を手伝ったが、生徒達は皆、言った。
 「ああ、もう11月。今年ももう2ヶ月を切ったなあ。時間の経つのが早い、早い」
 タイ人講師に砂時計をタイ語で何と言うのかと尋ねると、「นาฬิกาทราย ナーリカー(時計)+サーイ(砂)」であった。なんだ、同じだ。
 「タイ人も砂時計、使いますか?」とさらに尋ねると、「使います」、とのこと。
 しかし、私はタイ人が砂時計を使うのを見たことがない。タイ人にはタイ・タイムが有る。自由な精神時間の中に生きている。これからもそうであってほしい。

古伊万里 と 江戸てぬぐい

昨日、東京スカイツリー周辺まで出かけた。仕事が終わったのが午後1時半。業平にある元生徒さんの店で遅いランチをしようと思って行ってみたものの、またしても閉まっていた。
 そこで、前回食べた和食の店に入ったが、ちょうど中国人観光客9名様が出て行くところであった。「よかった、座れる」と思いきや、またまた中国人達が入ってきた。どうやら、ガイドが連れて来るらしい。彼らは金目鯛の煮つけ、私は鯖定食。中国人は赤色、日本人である私はサムライ・ブルー、というわけだ。
 それにしても、和食屋までもが中国人パワーで熱気むんむん。落ち着いて食べられなかった。
 その後、吾妻橋で大学時代の同期生が「古伊万里 江戸手ぬぐい 室町」という小さな店を構えているので、初めて寄ってみた。開店は去年5月。あいにく友人はいなかったが、古伊万里のお茶碗を買った。そして、「よいこと みんな こおい こい」と白抜きの文字で染められた招き猫模様の江戸てぬぐいを10枚、購入。年始に配ろう。

小学生の少年

11月1日、広島からの帰り、瀬戸大橋を渡り、郷里の丸亀に寄った。日曜日のせいもあるが、人が全く歩いていない。実家は9月に草取りをしたのに、もう草が生えていた。
 すぐ東京に帰る必要が有ったので、1時間だけ座り込んで草取りをしていると、少年が自転車で通りかかった。どこかに行くのであろうと思っていたら、彼は私の横に自転車をとめて、こう言った。
 「お手伝いしましょうか?」
 私はびっくりした。そして、丁重に断った。
「有難う。嬉しいけれど、もうそろそろ終わりなの。どこの学校?」
 彼は答えた。「城北」 そして、去って行った。
 そのあと、私は反省した。断った理由は、少年に対して無理やり草取りをさせている、というふうに第三者から誤解されたくなかったこと、そして、指に怪我をさせてはいけないと思ったためだが、それは、いかにも都会的な発想であった、と。
彼の申し出を素直に受け入れ、手伝ってもらうべきだった。

古希のお祝い

10月31日、午前9時10分、のぞみ19号の19番座席に乗って、いざ広島へ。約4時間で着いた。広島へは仕事で数回、行ったことがあるが、個人的に行ったのは今回が初めて。
 私の古希のお祝いをしてくださる方達は、宮城、福島、千葉、岐阜、大阪、徳島、鳥取から馳せ参じてくださった。私を合わせて、9名が楽しく会食。
 広島在住の幹事が3ヶ月前から念入りに準備をしていたということで、5回もサプライズが有り、その都度、心臓がパクパク。だが、50年も東京の荒波に呑まれて闘ってきた私の心臓だけは頑強だ。見事、持ちこたえることができた。
 楽しく思い出深い会になったので、私は味をしめた。よし、あと10年、現役で頑張って、彼らに傘寿のお祝いの会を開いてもらおう。