大分旅行(終)

 臼杵の町ともそろそろお別れだ。臼杵藩の上級武士の屋敷へ行ってみた。タクシーの運転手から、「開放していますが、誰もいませんよ」と言われた。だが、中に入ってみると、着物を着た女性がいっぱい。午後から裏千家の御茶会が催されるとのこと。お茶の先生は私を丁重にあつかってくださった。これぞ、お茶の精神なり。屋敷の中を一通り見てまわると、<雪隠>と書かれた板が廊下奥に置かれてあった。時代を感じた。
 土産物店に寄った時、お勧めの喫茶店の場所をたずねてみた。すると、「啄木茶房」を紹介された。大分で啄木? 店に入ってみて、その理由がわかった。昔、そこの家の亭主が女性であると偽って啄木に手紙を出したため、啄木からの恋文がたくさん送られてきたらしく、それらが壁に飾られていた。地方の文学青年の熱き思いが伝わってきた。

大分旅行(9)

 臼杵の町の仲で、南蛮歴史史料を展示した「サーラ・デ・うすき」の中庭にはイスラム系のタイルで造形したオブジェが有った。そして、別棟にバーのようなお店が目にとまった。ランチも食べられることがわかったので、思いきって入ってみた。客人は私ひとり。せっかく臼杵に来たのだから、郷土料理の「黄飯(おうはん)」を食べてみることにした。
 黄飯の作り方はクチナシの実汁で米を黄色く炊き上げるそうだが、お膳にのって供せられた時、私はすかさずパエリアの黄色い御飯を思いうかべた。ポルトガルやスペインの影響! そして、その黄飯の上にのせる具のことを「かやく」というのを知ると、キリシタン大名大友宗麟が買い込んだ大砲と結びつき、ますます興味を覚えた。
 ネットで調べると、黄飯の由来には諸説があるとのこと。赤飯が食べられなかった庶民達のために、祝い事に黄飯が考案されたとも書いていたが、私としては、絶対に南蛮の影響のほうを採用したい。

大分旅行(8)

披露宴が行われた老舗料亭の名前は「喜楽菴」という。帰京後、結婚式の様子を兄に電話で伝えたところ、兄は昔の話を言い出した。
 「昭和28年(1953年)に香川県で国体が有った時に、大分県の臼杵高校のバレー部の選手がうちの旅館に泊まったが、その時の選手のひとりが、自分の家は臼杵で一番古い料亭です、と言っていたよ」
 それを聞いて、私は早速、喜楽菴の料亭のHPでチェックしてみた。もし、そのバレーボール選手が御健在であれば、77歳位になられる。披露宴を取り仕切っていた女将は若女将であった。先代の女将は引退しておられるが、機会があれば、その料亭に問合せをしてみたいと思っている。
 花嫁も臼杵高校の現役の教師であった。61年前に私の家は臼杵市と御縁があったが、こうしてその御縁が復活し、その不思議さをかみしめている。

大分旅行(7)

親戚の結婚式は、国宝臼杵石仏の御前で仏式により挙行された。丘陵に鎮座する石仏群は平安時代から鎌倉時代に彫られたものだそうである。山麓から丘陵へと登って行く新郎新婦。眼下に広がる黄金の稲田、たわわに実る柿の木、そして、コスモス。日本の原風景に心がなごんだ。
 臼杵の石仏は、かつて首が落下していたものがあったそうだが、それを元通りに戻すと、石仏の威力が蘇ったとのこと。そこで、「首がつながった!」という新解釈が生まれ、人生の岐路に立たされている人には有難い石仏ということになっていると聞いた。
 披露宴は臼杵市内で136年続く老舗料亭(明治11年創業)で行われた。臼杵はふぐ料理が有名な町なので、当然、ふぐも御膳にお目見えした。ふぐは縁起をかついで、「ふく(→ 福に通じる)」と書く地域もあるが、臼杵の町はいたるところ、すべての看板が「ふぐ」で通していた。

大分旅行(6)

10月12日の朝、大友宗麟が築城した臼杵城址に行ってみた。小高い丘だから、登りやすい。散歩する男性が一人、そして、銀杏拾いに夢中の老人一人しか見かけなかった。
 丘からカトリック教会が見えた。日曜日だったから、ミサに行く人が目にとまった。さすが、キリシタン大名の町だけあると思った。イエズス会の宣教師が臼杵の港にやって来て布教を始めた時、町民はどのような気持ちでキリスト教を受け入れていったのか、そのことに興味を覚える。
 フェリーが発着する港まで歩いて行った。臼杵と八幡浜(愛媛県)を結ぶフェリーだが、台風の影響で白波が立っていたので、午後の便からは欠航となっていた。待合室でその日の最終便を待つ人々は、のんびりとして、実に屈託がなかった。

大分旅行(5)

聞くところによると、臼杵の町は寺が多い町だそうである。観光案内のパンフレットには、こう書いてあった。
 「石畳の道や、白壁の商家、寺院が建ち並び、昔ながらの町並みを残しています。八町大路は安土桃山時代から現代まで続く歴史ある商店街です」
 その商店街は思ったよりもこじんまりとしており、全部、歩くのにそう時間はかからなかった。だが、すべて日本情緒で埋め尽くされているかと思いきや、どことなく西欧の匂いもただよってきた。「久家の大蔵」という造り酒屋の酒蔵には、ポルトガルと臼杵の交流を表わした装飾タイルの壁画があった。
 「サーラ・デ・うすき」の建物はカトリック教会の様式であり、そこには南蛮史料の展示があった。臼杵はキリシタン大名である大友宗麟が1556年頃、臼杵城を築き、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市であったそうだ。

大分旅行(4)

10月11日、朝から午後2時まで臼杵の町を歩き回った。最初に寄ったところは、創業1600年(慶長5年)のカニ醤油店。みそアイスクリームののぼりに引き込まれて店内に入ったところ、壁一面に店の歴史を紹介する写真や史料が貼られてあった。同じ大分県出身の福沢諭吉が開学した慶応義塾へ勉学に行った明治初期の先代もおられたようだ。板垣退助が臼杵に来て、このカニ醤油店の当主と昵懇の仲になり、その結果、金の工面を依頼する手紙を送ってきたらしく、その手紙が貼られてあった。
 次に行ったところは「野上弥生子文学記念館」。今度の旅行で一番、見たかったところである。弥生子の生家は今も続く造り酒屋。したがって、家は堂々たるものであった。彼女が少女時代に過ごした部屋も見た。ガラス・ケースには夏目漱石に添削をしてもらった原稿が飾られていた。「お金のために文章を書くつもりはない」という彼女の強い意志が私の心に残った。

大分旅行(3)

 日豊線に乗っていると、「駅員がいない駅では、切符を箱に入れてください」という車内放送がたびたび流れた。臼杵駅に着いて改札を出ようとすると、やはり箱が置かれてあった。駅員はいたものの、彼は切符の販売にあたっているだけ。不正乗車をする人はいないのであろう。というよりも、人を疑ぐることをしないお国柄とみた。
 駅前に唯我独尊の仏像(レリーフ)が鎮座ましましていた。タクシー乗り場にはタクシーがいなかったので、宿まで歩くことにした。かといって、はっきりした場所は知らなかったので、街の散策を兼ねてぶらぶら歩きとなった。途中、臼杵城址の横を通った。城下町で育った私には、臼杵の街の雰囲気がすぐに親しめた。
 散歩をしている人に宿を尋ねると、宿まで連れて行ってくださった。「おやど 蔵」は、古民家を移築したもので、内部はホテル形式になっていた。

大分旅行(2)

宇佐八幡宮を参拝した後、カバンを預けて置いた参道入り口に在る土産物店に戻った。若奥さんの横には、乳母車の上ですやすやと眠る男の赤ちゃんがいた。3ケ月だそうだ。神様に守られて堂々たる眠りである。
 そのあと、タクシーでわずか5分の距離にある五百羅漢寺へ向かった。タクシーの運転手さんは女性であった。タクシーに乗ったとたんに蜜柑の香りがしたので、「いい香りですね」と言うと、蜜柑を1個くれた。「今晩、ホテルでいただきましょう」とつけ加えると、「じゃあ、もう1個どうぞ」と、またくれた。
 豊後の平野は今まさに稲刈りの季節を迎え黄金一色であった。まさしく豊後の<豊>の漢字に相応しい豊かさを呈していた。
 JR日豊本線に乗って、結婚式が行われる臼杵市へ向かった。臼杵市は石仏で有名なところらしく、駅のホームに石仏の頭が据えつけられていた。写真を撮って、友人に送ると、「まるでカンボジアみたいね」という返事が返ってきた。

大分旅行(1)

10月10日から12日まで、2泊3日で大分県へ出かけた。親戚の結婚式に参列するためであった。昨晩のうちに帰京できたのでほっとしている、何故ならば、台風19号の影響で、今日の九州発着便はそのほとんどが欠航となっているからだ。
 8月の福井旅行に続いて、今年2回目の国内旅行を楽しもうと思い、10日午前6時、自宅を出発。タイ語のことはしばし忘れるつもりで、目白駅から山手線内回りに乗り込むと、大きなスーツケースが3個、目にとまった。成田空港着のタグがついていたので、アジアから来た観光客であることは間違いなし。小声で話す彼ら。あっ、タイ語だ! 
 私のほうから声をかけた。東京に4泊して、そのあとは大阪に行くと、一人の男が答えてくれた。このぶんだと、大分県でもタイ人に会いそうな気がしてきた。だが、それはなかった。
 大分空港に午前10時着。空港からバスに乗り、宇佐八幡宮へ行った。日本全国にある八幡宮の総本山である宇佐八幡宮。本殿の前でうやうやしく合掌した。