タイ語入門の生徒達

昨晩、「タイ語入門 月曜日19:30」に7名の生徒が参加した。火曜日や木曜日の生徒達もサービスで入ってはいるものの、活気が有って、とてもいい雰囲気であった。
 男性が2名、女性が5名の構成。これまでは男性の比率が女性を上回っていたが、6月からそれが逆転した。女性の皆さんがタイに関心を持たれることはいいことだ。タイ固有のすばらしさを女性の眼で発見してほしい。
 女性5名のうち、2名は中国人である。一人の中国女性がタイ人講師の質問にどう答えていいのかとまどっている時、もう一人の中国女性が中国語で助け舟を出した。その中国語たるや実に速かった。
 中国人達はタイ語の勉強が楽しくてたまらないようだ。あくまでも趣味で学んでいるそうだが、二人とも日本語はペラペラなので、タイ語の習得も早いと思われる。
 私は言った。「政治のこと、あまりわからないのよ」 すると、中国人が言った。「政治は政治。私達は仲良くしましょう」

水道の栓はしっかり閉めよう

昨日、教室へ行くと、洗面所の水道から水がちょろちょろ流れている。おそらく、土曜日の16時以降からずっと流れていたと考えられるから、20時間も流れっぱなしだ。
 どうしてこんなことになったかと考えた結果、次なることを想定した。
 最近のトイレはほとんどがセンサー式になっており、水道の蛇口の下に手を近づけさえすれば勝手に水が流れてくれる。水道の栓を閉めるということは少なくなった。家庭に於いても、システム・キッチンというものは、水道の蛇口の部分がレバー式になっている。
水道の栓を閉めるという行為が必要でなくなってきているので、水道の蛇口の扱いが甘くなっているとしか思われない。
 考えてみれば、水道の蛇口は決して清潔ではない。センサー式のほうが衛生上、はるかによろしい。だが、それはそれとして、これから先、日本人の多くが水道の栓をしっかりと閉めなくなったとすると大変。
 お説教じみて恐縮だが、今日で今年も半分が終わる。箍(たが)が弛んでいるはずだ。気を引き締めて、2014年後半を迎えよう。

第87回「アジア女性のための生け花クラス」

昨日、「第87回アジア女性のための生け花クラス」が開催された。5名の参加者を予定していたが、一人の方が体調が悪いということで欠席。お花が一束、余ってしまった。仲間の女性が花の代金を立て替えることになった。
 ところが、昨日、たまたま生徒の彼女(タイ女性)が彼と一緒に教室に遊びに来ていたので、「日本の生け花を生けてみませんか?」とおさそいすると、「はい」というではないか。早速、707号教室に案内し、華道講師に紹介した。
 花を用意しても、時々、欠席者が出て花が残ってしまうことがある。ところが、そんな時に限って、誰かかれかタイ女性が教室に遊びに来ているのだ。毎回、真面目に習うことは精神的に緊張が走るが、たまたま日本に遊びに来ていて、日本の伝統美を肌で実感することはすばらしいことだ。
 「来年、日本に留学して来ます。日本の大学で生け花を専攻したいです。今日はとてもいい体験をしました」と、彼女は見事な日本語で答えた。チュラロンコン大学で日本語を専攻している彼女は、日本文化にものすごく興味を持っているようだ。
 泰日文化倶楽部で「アジア女性のための生け花クラス」を無料で開講して7年半が経過した。タイ女性に喜んでもらって、昨日はとても嬉しかった。

ネパール料理店 vs そば屋

 昨日、仕事に行った場所は東京と埼玉の境目辺りであった。道路の片側は住宅街、一方、反対側には工場やバスの車庫が有った。
 さて、昼休みになったので昼食を取るため周辺を歩いた。だが食堂らしきところが見当たらない。やっと見つかったのが、アジア料理店。タイ料理があるかもしれないと思ったが、店先に置かれたメニューの写真はいずれもインド・カレーであった。ネパール国旗が目に止まったので、もしかすればネパール料理店かもしれないと思い、店の引き戸を開けると、店内は会社員らしき人達でいっぱいであった。そして、小柄なネパール人ウェイターに、満席だからダメという合図をされた。
 ひなびた場所だから、誰も入っていないと思いきや、なんと客は大入りであった。
 致し方なくその店をあとにして、数件、歩くと、今度はそば屋ののれんが目に入った。そこに入るしかないと思い、引き戸を開けると、工場の工員さん達がやはりたくさんいた。私はとろろそばを注文し、工員達を観察した。
 ネパール料理店の看板はド派手な色合い。それに比べて、そば屋ののれんは藍に白抜きの文字。遠くから見ると、藍ののれんの方がよく目立った。

大学院生にタイ語を教えること

昨日の「タイ語初級 木曜日14:30」のクラスに出席した生徒はわずかに1名。その他の方々は諸理由により欠席された。
 1名の出席者は大学院生である。日頃、中・高年の生徒達と一緒になって控えめに勉強しておられるので、私は責任を感じていた。大学院生はタイ研究のためにタイ語を勉強している。したがって、文献が早く読めるようになってほしいと願っているが、グループ・レッスンだから、急にレベル・アップすることができない。
 私は彼女に言った。「今日はあなたお一人だから、あなたに最適なる授業をいたします。何なりと希望をおっしゃってください」
 すると、彼女は答えた。「タイ文字がすらすらと読めるようになりたいんです」
 私はすぐに応じた。「それでは、『タイ語入門』20課の会話文のうち、タイ文字の部分だけをお読みください。きっと読めるようになっていますよ」
 私は彼女の自主性を重んじ、彼女に読ませた。彼女はどんどん読んでいった。あっというまに20課全部を読んだ。
 まだ時間が余って困ったので、タイの小学校国語教科書も読んでもらった。彼女は読めた! 自信がついた顔をして教室をあとにした。

80円から82円

最近、とんと郵便物を出さない。メール連絡で済ませているからだ。2日前、某社に請求書を送る必要が有り、封書で送った。ところが、昨日、郵便受けに出したはずの封書が戻って来ているではないか。封筒の表に白い紙が貼り付けられていた。
 「この郵便物等の料金は、82円となります。新料金との差額2円不足ですので、料金相当の切手をお貼りいただき、お出しください。(消費税率の改定に伴い、平成26年4月から郵便物等の料金が改定となりました) 日本郵便株式会社」と書いてある。
 季節の花である水芭蕉の絵が描かれた切手をわざわざ選んで貼って出したというのに、大失敗。日頃、いかに封書を出していないかということが分かり、我ながら苦笑した。
 同時に、受け取る郵便物もかなり減った。それに、たとえ有ったとしても、「料金後納郵便」というものがほとんどだから、切手は貼っていない。
 そういえば、昔も郵便料金の値上げで、41円とか62円とかの切手が発行され、それらがたくさん残っている。これからは2円不足を解消するために、昔の切手を机の上に置き、これからは失敗しないようにしよう。

ナズナ(薺)を食す

2014年もそろそろ半分が終わる。1月7日は「七草粥」を食べる習慣があるが、疲れてきた胃を休ませるために、昨晩は医食同源を基調とする中華料理店へ行った。そして、ナズナと豆腐が入ったスープを注文。さわやかな気分になった。
 ネットで調べると、「医食同源」という言葉は日本で造語されたものであり、本家本元の中国では「薬食同源」というらしい。
 ところで、「ナズナ」は「ペンペン草」のことだが、漢字で書くと「薺」と書くということを初めて知った。草冠の下に、「齊」という漢字が組み合わされていることから見ても、いかにも精進料理に通じる感がある。
 昨晩、中華料理店には私と友人以外、他の客は全く現れなかった。店主は言った。「みんな、早く家に帰ってしまったと思うよ。明日5時からのサッカーを応援するためにね」
 そう言いながら、黙々と餃子を作っている。彼は教えてくれた。「中国では、薬を嫌う子供に薬を飲ませる時、餃子の中に薬を混ぜ込めるんだよ」

史料を書き写す作業

昨日は自宅にこもり、『青雲の翳』(竹原素子著 鹿砦社刊 1984年)を読んだ。この本は私の親友から「叔母が書いた本です」と言って、30年も前に贈呈されていた本であるが、失礼ながら、積読コーナーにおさまったままであった。
 これは明治17年(1884年)に茨城県で起きた「加波山事件」をテーマにしている。これまで茨城県に関心を持っていなかったが故に書棚の中を行ったり来たりしていた。
 ところが、タイ語の生徒達に茨城県在住の方達が増えてきたこと、そして、昨年、北茨城の方まで遊びに行ったことがきっかけとなって、この本をやっと読む気になった。
 著者は「あとがき」に、「主婦である自分が茨城県の史料を書き写す仕事をする中で、加波山事件に関与した青年達の熱き意志を感じ取り、小説として書き残したかった」ということを書いておられる。もともと作家志望であった彼女ではあるが、史実を収集するために足を使って関係者に聞き書きする姿勢たるや、ものすごく精力的である。
 史料を手で書き写すということは、事件の関係者の思いが伝わってきて、次代の人々を目覚めさせてくれるようだ。

歌碑 「山吹の里」

 昨日、授業後、早稲田の古本屋街へ行ったが、一軒たりとも開いていなかった。一軒くらい開けておいてくれればいいのに….。
 そこで、我が家に向かった。面影橋を渡ると、「山吹の里」の歌碑が有った。他の場所から移設してきたもののようだが、いずれにせよ、その辺りは昔、鷹狩りが行われており、徳川家の方々が遊びに来ていたところだ。
 太田道灌にまつわる「山吹の花」の伝説は各地数か所に残ってはいるものの、鎌倉街道があった豊島区高田にも、同じように残っている。貧しい家の娘に蓑を借りようとしたら、山吹を一枝差し出され、それが和歌の一部からとったことをあとで知った太田道灌が、それ以来、和歌に目覚めたという話である。
 今はコンピューターにより情報があっというまに世界中に届くが、その情報は下水の如く流されていくだけ。
 昔から鎮座する歌碑は多くを語りはしないが、どっかりと腰を据え、その存在感たるや子々孫々まで続く。

特別講座 「絶対に通じる旅のタイ語」

昨日、特別講座「絶対に通じる旅のタイ語」を開催した。参加者は、火曜日19:00と20:30の初級クラスで学んでいる生徒達ばかりであった。彼らは通常、夜の授業が終わると急いで帰る。一緒に食事をしたことが一度もないそうだ。したがって、この特別クラスに参加後、私も交えてタイ料理を食べに行くことになっていた。
 さて、特別クラスの授業だが、「~へ行きたい」ということで、地名や場所を言わせたが、タイ人講師は、「その発音じゃ、行けませんよ」とか、「ウーン、微妙」とか言って、OKサインは出さなかった。
 一人の生徒が、「シェラトン・ホテルはどう発音するのですか?」と尋ねた。タイ人講師は「シュラタン」に近い発音表記を白板に書いた。タイ語では、外国語の末子音は「3声」で発音する傾向があるので、声調もしっかり付けて発音しないとタイ人には通じない。
 いずれにせよ、生徒達の発音はまだまだであった。これでは、「絶対に通じる旅のタイ語」ではなくて、「絶対に通じない旅のタイ語」になってしまった。
 そのほかにも、タイ料理のメニューを発音する時間をもった。そして、授業後、教室の近くにあるタイ料理店へ行き、タイ人のウェイトレスに話しかけるようにさせたが、肝心のタイ人が日本語でしか応答せず、がっかりした。彼女は日本語を覚えたいのであろう。その気迫だけは感心した。生徒達もその精神を学んでほしい。