昨日、牛込柳町の方に出かけた。行きは、副都心線から大江戸線に乗り換えて行ったが、帰りは時間がたっぷり有ったので、歩いて帰ることにした。練馬車庫行きのバスで帰ると乗り換えなしですぐに帰れたのだが、何かの発見を求めて散策と決め込んだ。すると、「漱石山房通り」という街の案内板を見かけたので、その通りに興味を覚え、まようことなく入って行った。ほんの30秒で、漱石終焉の地が現れた。
門の入口には、写真で見覚えのあるかの有名な漱石の胸像が鎮座していた。胸像の右側には、「則天去私」という言葉が刻まれ、そして、左側には漱石の歌が刻まれていた。
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや 赤蜻蛉」
漱石山房は思ったほど広くはなかった。それは周囲の建物が密集しているから、そのように感じられたのであろう。1905年から1916年12月9日、満49歳で逝去するまで住み、『三四郎』、『こゝろ』、『道草』、そして、『明暗』(未完)を執筆した文学的場所であると思うと、何かのオーラのひとすくいなりとも感じ取りたくなった。2017年には、夏目漱石生誕150周年を迎えるに際し、記念館が建つ予定だそうだ。
タイの風邪薬
歯医者さんであるアイス先生が、私が風邪をひいているのを見て、「私、この薬で治りましたよ。2錠ですぐに治りましたから、先生もどうぞ」と言って、タイの風邪薬を手渡してくださった。通常、私はできる限り薬を服用しないようにしているが、風邪の時は別である。早くのんで、早く治し、仕事に専念したいからである。
ところで、タイの薬は強いと聞いているので、これまで一度ものんだことがない。アイス先生にいただいた薬も、すぐにはのまず、日本の薬で頑張っていたが、なかなか好転しない。そこで思い切って、タイの薬をのんでみた。1錠ではまだ効かなかった。5時間後、もう一錠、服用すると、その後、5~6時間経過した頃から効いてきた。おかげで思い通り仕事もできた。
しかし、夜中になるとますます冴えてきて、なかなか眠れなくなり、困ったことになった。タイの風邪薬はたしかに強いなあ。
風邪とタイ語
風邪をひくと、薬をのんでも、そうはすぐに治らない。次から次に始終、飴を口にふくんでも、喉は痛み続け、鼻はつまりっぱなし。ノドヌールを塗っても、声を出すのは苦しく、いつもの美声が出ない。いろいろなことをして、早く治そうとするのに治らないと、あせりからストレスばかりを感じてきた。やはり、最後はふとんの中に入ってひたすら寝ることが一番と思い、無理矢理、じっとする。すると、目覚めた時、いつしか体調が戻ってきているのを感じた。
そんな時間を過ごしているうちに、ふと思った。タイ語の勉強過程にも同様のことが言えるのではなかろうかと。初心者はあれこれ、いろいろなことを教えられても、さっぱりわからない。ましてや、どんなに発音を直されても、すぐにはできない。たくさんの市販本を購入したところで、結局のところ、ものにならない。だが、四苦八苦しているうちに、ある段階を越すと、案外、力がついてきたのを感じるはずである。その喜びを第一ステップとして、次なる峠越えをすれば、きっとまた前進したくなる。
今月に入って開講したばかりの「タイ語入門 土曜日11:00」のクラスは、目下、楽しく一つの小山を登り始めている。12月下旬までに、あと2つくらいの山を登ることになりそうだ。
生姜チャイ
生徒さんから生姜チャイを頂いた。風邪で体調不良な時だけにものすごく有難かった。インドの紅茶と日本産の生姜をブレンドしたものだが、これに牛乳と蜂蜜を加えて煮立てると、すばらしい飲み物になった。願わくば、これを飲んで、ゆっくり休養をとれば、回復は早いのだが、そうもいかない。仕事の電話がかかれば、すぐに飛び出して行く私の性格は変わることがない。
チャイと言えば、シンガポールのインド人街で飲んだチャイがとてもおいしかった。その時の幸せ感が強かったので、本場のインドへ行った時も大いに期待したものだが、まあまあであった。ものごとは期待しすぎてもいけない。駄目であれば、また、次なる良き出会いまで待つことだ。
ところで、パッケージには、次のように書かれていた。「冷えとりガールのこだわりは、たとえば靴下の重ね履きや、よく温まるお風呂の工夫など数々あれど、究極はおなかの中からあたたまることにつきるのです」 なるほど、お腹は一番、大切な部位なのだ。昔の人はいつも「お腹を冷やしてはいけない」と言っていたっけ。
韓国青年 と 中国女性
泰日文化倶楽部のすぐ近くに有ったマクドナルドが10月末で閉店になった。「30年間のご愛顧に感謝申し上げます」と、貼り紙がしてあるのを見ると、歳月が経ったことをあらためて実感した。この店では韓国語や中国語が飛び交っていたので、留学生達がよく利用していた。
昨晩、まだまだ頑張っているドトール・コーヒーへ行き、風邪対策のためにレモン・ティーを頼む。隣りの席から、韓国語と中国語が交互に聞こえてきた。どうやら交際し始めたばかりのカップルのようだ。男性は韓国人、そして、女性は中国人。二人の共通語は日本語。韓国語や中国語をかじっている私には、ちょうどいいレベルの単語であった。お互いに母国の料理の話をしていた。
ところで、授業中、「タイ語で会話をしてください」と言っても、生徒達は単語がわからない以前に、何を話していいのか困っている。そこで私は次のように助言する。「タイ人と一緒に食事をする時は、次のように質問すると、場がもちますよ。東京、好きですか? 京都、好きですか? じゃあ、大阪は? 北海道へ行ったことがありますか? カニ、好きですか? 刺身、食べられますか?」
すなわち、場所や食べ物の話をすれば、時間が稼げる。要は、簡単な文章をたくさん喋って、単純な会話を繰り返しながら、喋る自信をつけることだ。
La Maison Thai
約10年前、泰日文化倶楽部でタイ語を教えて下さったノーイ先生が、目下、フランスのリヨンでタイ料理店を5店舗も経営しておられる。聞くところによると、ロンドンでもタイ料理店を持っておられるそうだ。店の名前は、「La Maison Thai」。意味は、「タイの家」だ。新宿に、「バンタイ」という店があるが、これまた、その意味するところは、「タイの家」。なんとなくつけやすい店名なのであろう。
ダイエット志向に関心のあるフランス人のマダムやマドモワゼルから人気を博し、お客さんがいっぱいで、さぞかし儲かっていることと思いきや、タイ人のコックが定着しなくて困っているとのこと。それを聞いた途端、ノーイ先生の気持ちがよくわかり、同情した。
今日は午前中に、泰日文化倶楽部でフランス語の授業が有る。家は、maison、店は、magasin、雑誌は、magazine。なんだか似ているので、こんがらがりそうだ。だが、単語ひとつではなくて、表現で覚えていけば、なんとかなるはず。
フランス語講師のテレサ先生は東京でフランス語を教えたかったそうなので、いろいろな教材を用意して来られる。そして、楽しそうに教えて下さる。かつて、何度もチャレンジしたフランス語。しかし、必要性が無かったために、すぐに辞めてしまった苦い経験がある。今度は最後の最後という気持ちで、異なる角度から、すなわち、文法中心ではなくて、簡単な会話がすらすらできるようになりたい。
カンボジア製のカシミア・セーター
昨日、東京に木枯し1号が吹いた。非常に寒かった。昼間はまだしも、夜はもう寒くて耐えられそうもないので、あわてて教室の近くにある古着屋に飛び込んで、アンゴラ入りのジャケットを購入。さっそく着用すると、どうにか落ち着いた。
ところで、昼間は大学に出講した。ランチはいつもすぐ近くのホテルに行っている。そのホテルには某デパートの出張店が入っており、私は時々、ワゴンに乗っているセール品を買うことがある。昨日も気に入った色のカシミア・セーターがあったので、すかさずレジに持っていき、パパッと買って、教室に戻った。
だが、家に持って帰って来て、セーターについているタグをよくよく見ると、なんとカンボジア製であった。中国製にはすっかり慣れているが、カンボジアでもセーターを造っていることに、まず驚いた。デパートでカンボジア製の靴を売っているのは見たことがあるが、セーターも製造しているとは! セーターはセーターでも、アクリルやウールではなくて、カシミアというのが驚きだ。若い女工さん達が造ってくれたのかと思うと、大事に着ようと思う。
稲穂 と 落ち葉
地方へ行かないので田園風景が浮かばない。稲刈りは、日本全国、もうほとんど終わってしまったことであろう。
稲穂のことを、タイ語では、「รวงข้าว ルアング・カーオ」という。黄金に輝く稲穂を豊穣の象徴であり、それを見ると、有難い気持ちがこみあげてきて、思わず合掌したくなる。無事に一年が越せそうでほっとする。タイには稲を守護する女神がいらして、その名は「แม่โพสพ メェー・ポーソップ」。女神は魔法の杖を持っておられるようである。
一方、落ち葉のことを、タイ語では、「ใบไม้ร่วง バイマーイ ルアング」という。今日も道すがら落ち葉の乱舞を見た。なかなかに芸術的であった。稲穂のルアングは「平声」で、落ち葉のルアングは「下声」なので、タイ語を勉強する人は、声調に気をつけて発音しなければならない。
タイ語には「落ちる」という単語がたくさん有るので、内容や状況で使い分ける必要がある。「ร่วง」の場合は、音も無く、はらはら落ちるさまが有る。毎朝、髪の毛をとかす時、「ผมร่วง =髪の毛が落ちる」を数回、発音し、巻き舌である r音、即ち、ร เรือ (ロー・ルア)の訓練をしよう。追記:「下痢する」は、「ท้องร่วง」。
新規開講クラス「タイ語入門 土曜日11:00」
11月9日から、「タイ語入門 土曜日11:00」のクラスを新規に開講した。参加者は4名。うち3名は、体験参加である。いずれの皆さんもタイへ何度も旅行されておられる「タイ大好き人間」であるので、タイ語に対する音感が敏感で、とても教えやすかった。タイ人にとってラッキー・ナンバーである「9」の日から始めたので幸先(さいさき)がよかった。
以前にも書いたことがあるが、やはり勉強は朝のほうがいい。夜だと仕事で体が疲れているので、集中力がどうしても鈍る。それに、翌朝の勤務に際して、早く帰宅したくもある。となると、土曜日の午前中の勉強はベスト・タイムだ。次回は「タイ語入門 土曜日9:30」というクラスを是非とも募集しよう。
ところで、10月から開講した「タイ語入門 木曜日20:30」のクラスはすでに6回の授業が終わった。目下、形容詞構文の勉強に入っているが、「ああ、もう単語が覚えられない」という声を聞くようになった。その気持ち、わかる。はい、よくわかります。毎回、1課進むごとに、新しい単語が出てくるわけだから、どんどん単語を覚えていかなくてはならない。仕事で疲れていると、単語を覚えることもままならない。自分を責めるのではなくて、「ま、いいか」、「マイペンライ」の精神で、とにかく続けよう。やめないでくださいね。
「からたち日記」の歌
中学1年生になった時、モナリザのように美しい先生が国語の授業を担当してくださった。或る日、先生が「皆さん、<からたちの花>という歌を御存知ですか?」とおっしゃられた。すると、クラスで一番、剽軽者であったW君が、すかさず手を挙げて、歌い出した。「こころで好きと叫んでも 口では言わず ただあの人と~」
みんなびっくりしたが、一番驚いたのは国語の先生であった。1959年の話である。
先生は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「からたちの花」の唱歌(1925年)を歌ってほしかったのだ。「からたちの花が咲いている 白い白い花が咲いている からたちのとげはいたいよ~」
昨日、島倉千代子さんが亡くなった。「からたち日記」を紅白歌合戦で歌ったのが1958年12月31日であったようだから、当時としては、一番に流行していた歌なのであろう。
昨年、中学卒業50周年記念パーティーがあったので郷里に戻った。その時、W君の不慮の死が告げられた、私はすぐに「からたち日記」を歌うW君の姿が思い出された。