順調なタイ語教室

 今年10月に泰日文化倶楽部は創立満29周年を迎えた。あと1年で30周年になるので、「よし、頑張るぞ」と自分に気合いを入れたにもかかわらず、階段を降りたところで着地に失敗。足の筋力が不足していたことが第一の原因だが、よくよく考えてみれば、長年の疲労がたまっていて、足のほうに疲労骨折があったようである。
 やむなく1ヶ月余、戦線離脱をして教室を離れていたが、その間、タイ人講師は普段通り授業をやって下さり、生徒達はマイペースで通って来てくれたので、教室の運営が右往左往することは全くなかった。タイ人講師に掃除を頼んだり、生徒にごみ捨てをしてもらったので、教室が汚くなることはなく、普段通り実に順調に進んだ。
 問題はタイ人講師達への講師料の支払いが遅れたことだけだ。いずれの先生達も気持ちよく待ってくださった。したがって、退院後の私の仕事は講師料計算であった。10月分と11月分の講師料を全員の先生にどうにか無事に渡すことができ、今朝は退院後、初めてほっとしている。

タイ語でリハビリは何と言うか

 かつて何人かの生徒達を見舞った折りに、リハビリ中の姿を見たことがある。だが、その時には外部者として「ああ、やっているなあ」としか思わなかった。今回、自分がリハビリをする必要にみまわれ、そのリハビリの大切さを身に染みて感じ取った。
 リハビリは、タイ語で言うと、「กายภาพบำบัด kaai-ya-phaap bambat」。กายภาพ(kaai-ya-phaap)を辞書で引くと、「無生物に関するもの」と書いているが、ここでは、กาย(体 kaai)+ ภาพ(状態 phaap)=体の状態と理解したい。そして、บำบัด(bambat)は、「治療する」という意味だから、前者と後者を併せると、「体の状態を治療する」となる。よって、リハビリという単語が生まれたわけだ。
 リハビリは本当に重要である。専門の指導者につくと、リハビリの効果は確実に上がるはず。いずれにせよ、元気になろうという意欲の支えがなければ、回復は遅々として鈍る。

病院で働く人々

 病院は外来で行った時と入院した時とでは見えるものが違う。1ヶ月余の入院中、シフトで働く看護師達やヘルパーさん達の話し方に私は注目。そして、失礼を承知で数人に出身地をたずねてみた。
 中年のヘルパーさんは、「盛岡。でももうずっと帰っていません」と答えた。
 うろうろするおばあちゃんが見当たらないと、「あんれまあ。どこさ行ったべ」という福島県出身のヘルパーさん。
 女児のように頭上の髪だけを束ね、あとは全部刈り上げているユニークな髪型の看護師の話し方は独特であった。宮古島の出身だとのこと。若い看護師は静岡県。「婚活したい」と言って、とても明るかった。私がタイ語を書いているのを見て、目をくるくるさせた。
 お掃除のおばさんは中国人。67歳のおじさんはいつも明るい声で掃除と営繕を担当。大変そうと思っていたら、新しく青年が採用された。おじさんはその青年にいろいろなことを教えていた。ものすごく真面目な青年だ。今どきどこを探してもみつかりそうもないくらいの従順な青年。八王子から通って来ていると言う。彼のおかげで病院の廊下が急にピカピカになった。

献血好きなタクシー運転手

 退院してから9日が経過。電車に乗るのはまだ怖いので、タクシーばかりを利用している。一昨日、教室に行くために乗ったタクシーの運転手さんはちょっと異色な方であった。何故ならば、後部座席に座ると、助手席から客に見えるように小さな表彰状をパウチに入れてぶら下げていたからだ。「献血、100回を表彰する」という内容であった。
 運転手は言った。「もう135回、献血していますよ。しかし、来月が最後になるんだ。1月が来ると70歳になるので、もう献血ができないんだよ。150回目にまた表彰状がもらえることになっているんだが….」
 献血は男性の場合、69歳までであることを初めて知った。
 「ところで、運転手さん、骨折したこと有りますか?」と、たずねると、「有るよ」と言って、すかさずハンドルから右手を離し、指を広げて見せた。薬指と小指が曲がっていた。医者へも行かず、リハビリもしなかったかららしい。献血は好きだけど、リハビリは嫌い。そんな感じの運転手さんだった。

物故者名簿

 入院中、テレビも新聞も不要であった。スマホでネット検索ばかりしていると全く退屈しなかった。検索項目の一つとして、2015年から2017年の物故者名簿を見てみた。大学時代に教わったフランス文学の教授が今年3月に90歳で亡くなっておられることを知った。彼女のしなやかなスタイル、キリリと光るセンス、そして、「女性学」の一環として、フランス文学に登場する女性像を熱く語って聞かせてくださったのは50年前のこと。
 物故者名簿には各界で著名な方達が載っているわけだが、どんなに著名であっても、書かれているのはわずかに2行。生年月日と死亡日、及び、何をしたかという肩書がほんの数文字で表されているだけだ。
 それを見ながら、「どんな人であれ人生は2行なり」、と思った。そのうちの1行は生年月日と死亡日で埋まるから、あとの1行こそが勝負だ。濃い人生を行くか、淡々とした人生を選ぶか…..。いずれにせよ、1行なのだ。
 

神田川日記(追記)

 追記したい項目が出てきたので追記する。入院中、獅子文六(1893-1969)と吉行淳之介(1924-1994)を読み、昭和の時代を回顧した。カトリック信徒の高橋たか子(1932-2013)のエッセイでは彼女の観想生活に触れることができた。阿部龍太郎の『等伯』では、安土桃山時代の絵画や茶道の流れを知った。
 考えようによっては、重病でなければ入院生活も悪くはない。何か文章が書ける。そう思った。
 私が入院していた病院は1950年(昭和25年)に開業しているので、建物は極めて古い。だが、ノンフィクション作家である澤地久枝さん(87歳)の昔の随筆を読んでいた時、彼女が若い頃に心臓の病気でこの病院に長く入院していたことが書かれてあったのを思い出した。彼女と同じ空気を吸ったこと、これを機縁に私にも文才よ、甦れ。

神田川日記(終)

 33日間、入院していたので、この神田川日記も33回目で終了とする。
 私には病気も怪我も関係ないと思っていた。だが、筋力不足から骨折を招いてしまった。帰宅後、ご心配いただいた皆さんに退院をお知らせすると、尾道にいる元生徒さんから驚きのラインが返信されて来た。彼女のお母様(65歳)が家の中の階段で転倒し、頭蓋底骨折と脳挫傷をおこして入院中だというのである。彼女のお父様(67歳)は実の父親の介護もしておられるとのこと。もはや老老介護はそこかしこで始まっている。
 私は骨折した時、ビルの管理人さんの手を借りてタクシーに乗ったので、退院した旨を伝え、そしてお世話になった感謝の気持ちを伝えようと思い、管理人室に電話をかけた。だが、聞き慣れぬ声の方が電話を取った。事情を説明したところ、臨時の管理員さんは言った。「彼は入院しています」
すぐに管理会社に電話をすると、管理員さん(75歳)の復帰はもう無理であると言われた。川の流れは戻らない。それぞれの人生も川の如し。どこかへと流れて行く……。

神田川日記(32)

 毎朝6時起床。熱いおしぼりで顔を拭く。7時40分頃にお茶が来て、8時に朝食。ゆったりとした時間が過ぎる。7時頃、廊下の奥にある窓まで行って、新しい空気を吸った。神田川の水面(みなも)に水鳥が一羽泳いでいる。そこへもう一羽がやって来た。つがいであろう、と思った。ところがまた次なる水鳥がやって来た。子どもかしら?
 そう思いながらしばらく見ていると、鳥の数がどんどん増えて行った。理由はパンくずを投げる赤いジャケットのおじさんがやって来たからである。鳥達は生きる術(すべ)をよく知っている。
 午後3時頃、同じ窓に立つと、水面がきらきらと輝いている。少ししか開かない窓に立って、ひなたぼっこをすると、急に元気になるのを覚えた。太陽は有り難い。ビタミンDを体に取り入れて、骨を早くくっつけようと思った。

神田川日記(31)

 白菜の葉っぱで滑って背骨を圧迫骨折した高田3丁目のおばあちゃんが退院した数日後、個室から73歳の女性が大部屋にやって来た。彼女の話によると、長年にわたり、自宅で介護していた母親が去年、103歳で亡くなり、その後、無気力になり、コンビニのおむすびかパンばかりでどうにか暮らしていたら、この11月に突然立ち上がれなくなり、入院することになったそうである。介護の疲れと栄養バランスの悪さが原因であろう?
 コンビニの食べ物ばかり食べていれば体がおかしくなるのは当然だ。実は退院して自室に戻ると、机の上にコンビニで買ったロールパンが2個、袋の中に入ったままであった。よく見ると、買った時と同じような照りが表面に見られ、カビが全く生えていない。防腐剤のせいとはいえ、気持ち悪かった。73歳の女性の話が現実味を帯びてきた。
 71歳の男性は、「あと5年くらいで、もう死んでもいいよ」と言う。しかし、女性達は違う。みんな、どんなに腰がいたかろうが、100歳を目指して、ベッドの上で寝ていた。

神田川日記(30)

 101歳のおばあちゃんと同じ部屋にいた93歳のおばあちゃんはもう退院してもよさそうなくらい病状が回復したのに、あえて退院しそうもなかった。理由は家に帰っても一人暮らしだから。時間が来ると三食必ず提供してくれる病院のほうがいいと言うのである。その気持ち、わからないでもない。だが、私の場合、いつまでも病院に甘えていては大きなマイナスだ。
 そのおばあちゃんには息子さんが3人もいるそうだが、近くに住んではいるものの、同居はしていないとのこと。年をとると、息子よりも娘がいたほうがいいなあと思った。
 その他に、子供がいないというおばあちゃんがいた。甥御さんが頻繁に見舞いに来てはいたものの、それはそれで大変なことである。ご主人に先立たれて一人残されたおばあちゃん達も多かった。結婚していようが、独身であろうが、子供がいようが、いまいが、結局のところ、一人で病いを乗り切らなくてはならないのである。