鮫小紋

昨日、八戸の着物店で6月下旬に購入した鮫小紋の着物が送られて来た。この着物には曰く因縁が有る。
 私は八戸へ仕事で行く時、東京から鮫駅までの切符を買い、蕪島神社をお参りした後、海猫を見て楽しんだことはすでにブログで書いた。八戸での初日、市内の着物屋へ行ってみた。青森県固有の珍しい着物が有るかどうか知りたかったからだ。折しも七夕が近かったので浴衣ばかりが揃えられていた。
 翌日も別の着物店へ行ってみた。店主は墨流しの着物を勧めた。「墨は黒。黒は苦労に通じます。ですから、墨流しは苦労を流すということになります」 「私は鮫小紋を探しているんですけど…..」と言うと、店員が店の奥から出して来た。その着物を見て、私ははっとした。新宿のデパートで勧められた着物と全く同じものであったからだ。
 鮫小紋は武士の裃に使われる生地であり、精神的に強靭なものと思われている。八戸で私を待ち構えていた鮫小紋。何かの縁を覚えて、今度は見送らなかった。

証明写真の不受理

一昨日、泰日文化倶楽部の近くに在る写真館へ行き旅券申請用の証明写真を撮った。そして、昨日、それを受取りに行き、その足で都庁の旅券センターへと向かった。何故にこんなに人が多いのかと思うくらい、旅券センターは混み合っていた。
 待つこと20分、やっと私の番になった。担当の女性は私の写真を見て、「これはダメです。粗すぎます」とすかさず言い放った。私は写真館で撮ったことを証明するために、写真が入った小さな封筒を示しながら、「ほら、ちゃんと写真館で撮ったんですよ。画像が粗いというのはとても信じられません」と強気で言った。
 すると、女性は上司のところへお伺いを立てに行った。かなりの時間が経った。そして、上司と一緒に私の前に戻って来て、やはりだめであることを告げた。「ルーペでよく見てください」と言われたので、その通りにした。すると、確かに幾筋もの横線が見えた。
 私は写真館のおやじさんの腕を疑った。プロとは言えない。電話をかけて事実を報告した。よって、再度、作り直しとなった。だが、よく考えてみると、私の顔にいっぱい皺ができ始めているのかもしれない(笑)。

創業1782年の佃煮屋

昨日、かねてより注文していた佃煮が宅急便で届いた。箱には次なるちらしが入っていた。
 「創業天明二年 おいしさ届けて三世紀。新橋玉木屋は、一七八二年、江戸片側町(現在の新橋)にのれんを掲げて以来、三世紀にわたって、伝統の味・日本の味を守り育ててまいりました。初代七兵衛は、越後の国、通称玉木村の出身。江戸に出て、独自の製法で売り出したざぜん豆が好評を博し、その後、佃島の漁師の保存食に着想し、独特の味わい深い佃煮をつくり上げました」
 このように長く引用すると、まるで玉木屋の宣伝をしているみたいだが、私の注目するポイントは、「一七八二年」という西暦である。この同じ年に、クルンテープ遷都が有り、現在のラタナコーシン王朝が誕生しているからだ。
 昨晩、「タイ語初級 水曜日19:30」の生徒達がクルンテープという呼称に関心を示したので、40分近く、タイの歴史を解説することになった。クルンテープと江戸の佃煮屋。全く関係が無いものの、歴史の偶然性を面白く思う。

倦まず弛まず、三年こつこつ

昨晩、「タイ語中級 火曜日19:00」のクラスを代講した。久しぶりにこのクラスを担当したが、生徒達の語学力がよくわかり非常によかった。
 出席者は3名。いずれも皆、約3年、泰日文化倶楽部に通って来られている。おとなしい感じの方達ばかりだが、まじめにタイ語の学習を続けておられる。実にすばらしい。テキストは4冊目に入り、難易度が増しているが、タイ語の文章もすらすらと読めて、全く問題が無い。
 3年、倦まず弛まず努力をすれば、必ずや基礎力がつく。だが、そこからまた新たなるスタートが始まる。単にタイ語を読むだけにとどまらず、タイ語で考えるという段階に入って行ってもらいたい。いずれにせよ、「こつこつ精神」は、語学の学習にとって必須である。

一言のおもてなし

昨日、タイから来客が有ったので新宿駅まで行った。待ち合わせ場所は「新南口」。バスタの方だが、甲州街道側ではなくて、高島屋に近い改札口であった。新宿駅の改札口はたくさん有るので、人と待ち合わせをする時には注意を要する。
 その新南口の改札前の広い通路に臨時の荷物預り所が設置されていたので、カバンを1個預けることにした。食事に行くには荷物が少ないほうがいいから….。
 荷物を預けている丁度その時、留学中の息子さんがやって来た。我々3人がタイ語で話しているのを聞いていたアルバイトの若い女性が、我々が立ち去る時に、「コープクン カ」とタイ語で言った。彼女はその一言しか話せなかったが、彼女の気持ちが十分に通じてきた。これぞ「一言のおもてなし」だ。

青春を謳歌している元テレビマン

8月3日午前9時3分、岡山行きのひかり号に乗って東京を出発。午前10時36分、浜松駅で友人夫妻の出迎えを受けた。我々は東海道線に乗り換えて弁天島へ。そこでご夫妻の友人であるO氏を待った。O氏とは私もすでに知己の間柄。だから、我々4名は久々の同窓会という感じであった。
 弁天島で大変に繁盛している料亭へ行き、刺身と鰻を食べ、それから、太平洋沿いにあるホテルで1時間ばかり温泉につかった。太平洋を見ると憂いは吹っ飛び、気持ちが大らかになった。
 ところで、O氏は元テレビマン。退職後はずっと中国に在住。日本に一時帰国した時は、いつも青春18切符で日本全国をのんびり回っておられるとのこと。青春を謳歌しているO氏の青春はまだまだ続く。

広島滞在4時間

8月4日の午後、広島の病院に入院している元教え子のお見舞いに行った。1年半前に来た時には改修工事をやっていた駅舎内がきれいになっており、広島球場へ行くのに一番近い改札口は赤で統一されていた。この日は試合が有る日。水筒を持って球場へ向かっている人達を大勢見かけた。
 呉線に乗り変えるためにホームで電車を待ったが、とにかく暑かった。東京から呉線の坂駅まで切符を買ってはいたものの、一つ手前の矢野駅で降りてバスで病院へ行った。病院行きのバスに乗ったのは私一人。病院は矢野駅と坂駅の間に在ったが、途中、坂、また、坂が続き、起伏の多い町だと思った。病院の6階から市街を遠望したが、丘陵地帯のほとんどに家が建っていた。人口120万都市の広島。戦後72年が経って、市民の平和でおだやかな生活を見た。

お寺の林間学校

郷里の墓の草取りをしていたら、少年達の声が聞こえて来た。「みんな、何年生?」と尋ねると、「小学4年生」とすぐに答えてくれた。世話役のおじいさんが「さあ、みんな、廊下の拭き掃除をするんだよ」と号令をかける。少年達は廊下を拭き始めた。ところがお寺の若い大黒さんが現れて、「手にとげが刺さってはいけませんから、拭き掃除はしないでください」と言った。ちょっと心配し過ぎではなかろうか。
 少年達が静かになった。本堂で住職さんから習字の手ほどきが始まったからである。まるで昔の映画の一場面を見ているようであった。彼らはお寺で一泊するそうだ。夜遅く、お墓の中を走り回って肝試しをするのもいいかも….。ゲームよりは、きっと思い出多き夏の林間学校になるにちがいない。

今日から帰省します

今日から墓参りのために帰省します。帰京は4日(金曜日)の夜です。したがって、ブログはこの間、休みます。
 今回は帰省の途中、浜松に途中下車をして、友人の家に泊まることになりました。これまでに浜松を通過すること約500回。しかし、一度も降りたことはありません。新幹線の車窓から浜名湖を見るだけでした。
 明日は広島へ向かいます。元生徒のお見舞いです。私の顔を見て、早く復調してくだされば嬉しいです。
 お見舞いは1時間だけ。その後、岡山に戻り、そこから香川県へ。今回はいつもとは違うホテルに泊まり、最上階から瀬戸内海を眺めようと思っています。