『青べか物語』に出てくる漢字

 山本周五郎の『青べか物語』を読んだ。冒頭部分は以下の如くである。
 「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣場とで知られていた」
 浦粕町の舞台は浦安、そして、根戸川は旧江戸川であることは本の解説でわかった。
 私が驚いたのは、作者の山本周五郎が、難しい漢字を多用している点であった。鮠(はや)、鯊(はぜ)、鱸(すずき)、獺(かわうそ)、鼬(いたち)、葭簀(よしず)、蓆(むしろ)、莨入(たばこいれ)、半纏(はんてん)、襷(たすき)、吝嗇漢(りんしょくかん)、皺(しわ)、厩(うまや)、鬱陶しい(うっとうしい)、お饒舌し(おしゃべりし)、金轡(かなぐつわ)を嚙(か)ます、冒瀆的(ぼうとくてき)、顎(あご)、等々。
 作家なのだから、この位の漢字を原稿用紙に書き連ねるのは当たり前かもしれないが、PCソフトが無い時代だから、当然、手書きで書きまくったわけだ。昔の作家は画数が多い漢字でも、すらすら書けたということになるから、漢字を忘れることはなかった。現代は便利すぎるが故に、漢字が書けなくなっている。

サルトル と カフェ

世の中、カフェをやりたいと思う人は多い。カフェ・ブームだ。しかし、『カフェ 副題:ユニークな文化の場所』(渡辺淳著・丸善ライブラリー 平成7年)を読むと、フランスのカフェは歴史と文化が充満しており、単なる「お茶する場所」ではなかったことがわかる。
 サルトルやボーボワールが愛した「カフェ・ド・フロール」。だが、店主はこう言ったそうである。
 「サルトル! 彼は、最悪のお客だった。朝から晩まで、何か一杯注文するだけで、絶対お代りはせず、紙になぐり書きしていた」と。
 ところが、サルトルが実存主義の帝王として有名になると、客が殺到し、店主はホクホク顔。が、サルトルはそれが嫌で店に来なくなった。
 以上は上記の本を要約して引用したものだが、状況は十分に想像できる。
 今朝のニュースで京都が観光都市世界第一位に選ばれたと報じられたが、押し寄せる観光客を見て、京都人はどう思っているのであろうか。中には逃げ出す人も出ることであろう。

浴衣デー

昨日、上智大学に出講すると、キャンパスがいつもと違う。ゆかたを着た女子大生が多いのだ。女子大生に交じって、男子学生もゆかたを着ている。7月7日の七夕を、「浴衣デー」としていることを初めて知った。
 留学生達も着ている。タイ人留学生はピンクのゆかた。草履の鼻緒までもがピンク。手提げもピンク。とても可愛らしい。
 バージニアから来たという女子学生が私にシャッターを押してと頼んできたので、日本の男子学生とのツー・ショットを撮ってあげた。
 とにかく、みんな、可愛い! そして、清楚に見える。明治時代に戻った感があった。
 ゆかたの模様は様々だが、日本の伝統的な模様と色合いを見て、あらためて日本の良さに感服した。

数字のジンクス

今日は平成27年7月7日で七夕だ。この一週間、曇りか小雨の天気だから、今日も夜空のお星さまを眺めることはできそうもない。だが、いずれにせよ、27.7.7。なんだか平和な気がする。
 先日、馬場の生徒さんが彼の友人である台湾人に同行して、新築マンションのモデルルームを見に行くというので、私も一緒について行った。都心のマンションは馬鹿馬鹿しいほどの値段だが、実によく売れている。残っていたのは西向きの部屋ばかり。南向きの部屋も有るには有ったが、勧められたのは、「404号室」であった。
 台湾人はすかさず嫌な反応を示した。何故ならば、「4」は「死」に通じると思われているから。そのくらい、私にもわかった。「404号室」が売れ残っているということは、日本人も数字に敏感ということだ。病院の病室も、「4」や「9」をはずしている。「死」や「苦」が想像されるという理由によって…..。
 数字を選ぶ場面はほかにもたくさん有る。その人の人生だから、<ジンクス(jinx)=縁起の悪い言い伝え>を信じて、良い数字を呼び込むことは大いに大切!

或る歌人の人生

泰日文化倶楽部の隣りのビルに24時間営業の書店がある。昨日、そこで『無名の人生』(渡辺京二著 文春新書 2014年)を購入。
 著者の渡辺氏が熊本在住ということで、熊本の歌人のことが紹介されている。
 「戦前の熊本に<宗不旱>という歌人がいました。….中略…. その彼は、かなり豊かな商人の息子として生まれたのですが、朝鮮半島や中国大陸、台湾を放浪して硯づくりの技術を身につけ、日本に帰国後は硯工(けんこう)として生計を立てながら歌作に励みました。亡くなったのは、昭和十七(1942)年。かねて行方不明だった彼は、熊本の乗鞍山中で遺体が発見されました。まさに野垂れ死にです」
 著者は<陋巷に生きる>というテーマとして、この歌人を紹介しているわけだが、私は違った角度からこの歌人に興味を持った。大陸に渡り、硯づくりの技術を身につけたことはすばらしい。単なる大陸浪人として放浪しただけではなかったのだ。

「囀」という漢字

最近、近所に「囀や」というCAFEができた。土曜日は寄席をやる。昨日、行こうと思っていたが、時間がうまく合わず行きそびれた。
 それにしても、「囀」という漢字が難しくて…..。どうやら「さえずる」という読み方らしい。
 「囀」を分解すれば、口+車+專。<専用車が走るが如く、常に口を動かしているから>と勝手に解釈して覚えることにした。
 念のために、「口」を伴う部首の漢字をネットで調べてみると、いやもう有るは、有るは….。
 「囀」は、口偏に18画数を伴う漢字であった。因みに、同じ18画数を伴う漢字としては、「嚼」、「囁」、「囃」、「囈」が列挙されていた。
 今日は日曜日。暇な方は、口偏の漢字をノートに書き出してみてはいかが?

OG

なでしこジャパンとイギリスとの準決勝戦は最初から最後までしっかりと見た。結果はイギリス選手のOGにより、日本に勝利がもたらされたわけだが、試合内容はとてもよかった。両チームとも大いに称えたい。
 ところで、「OG」と聞くと、私には、< own goal > というよりも、< old girl > のほうのイメージが先に思い浮かぶ。そして、もっと古い話をすると、< office girl > と言われていた時代を思い出す。「OG」が、「OL」、すなわち、< office lady > になった時には、とても斬新さを覚えたものだ。今では、労働環境において男女均等が叫ばれているから、「OL」という言葉も敬遠されがちである。
 ネットで調べると、アメリカでは「OG」は、< original gangster > を意味するそうだから、口にしないほうが無難だ。
 目下、タイ語初級の皆さんは、「แปลว่าอะไร どういう意味ですか?」という表現を習っている。知らない略語が出てくれば、この「แปล่ว่าอะไร」を使って、タイ語でタイ人講師に尋ねてみよう!

玄米というタイ語

 木曜日の午後の授業はミセスのクラスである。したがって、いつもタイ料理の話題でもちきりだ。
 昨日、「玄米」という単語が出た。私は玄米が好きではないので、タイ語の単語をうろ覚えにしか覚えてはおらず、思い出すのに時間がかかった。プロとしては失格。
 すると、生徒達がスマホで調べ始めた。そして、音声まで出した。「ข้าวกล้อง カーオ・グローン」。
 タイ女性の発音があまりにもゆっくりなので、私は違和感を覚えた。「กล้อง」は文字通りに読めば、確かに「グローン」ではあるが、実際は「グロン」と短めに発音する。「ห้อง 部屋」が、「ホーン」とは読まず、「ホン」と短めになるのと同じ傾向だ。
 結論。スマホのアプリでタイ語の発音を聞いても、初心者対象にゆっくり発音しすぎているため、実践的ではない。

常に話題を!

トン先生の後任であるピカピカ先生が泰日文化倶楽部で教え始めてから2週間が経過した。昨日から3週間目に入ったわけだが、教えるための準備たるや、なかなかのものである。ホワイト・ボードに書く漢字も堂々としている。来日して3ヶ月。日本語はもうよくわかるそうだ。
 新しい先生になって、空気が変わったわけだから、生徒の皆さんも大いに意欲を示そう! そのためにはタイ語で話す話題を用意しなければならない。話題が無いと教室の空気が澱む。誰かムードメーカーがいればいいが、日本人は控えめすぎるから、互いに遠慮しあう傾向がある。こんなこと言ったら….と、思う必要はない。わずか90分の授業なのだから、口を開いて、タイ語をしゃべらないと損。
 とにかく話題探しをしよう。電車に乗って教室に来るまでの間でも、何らかの話題がみつかるはずだ。そして、タイ人講師に是非とも聞いてもらいたいという気持ちで教室に来てほしい。

若者同士の会話は素敵!

上智大学には10人くらいのタイ人が留学して来ているが、6月からは短期で日本語研修に来ているタイ人がいることを知った。何故ならば、昨日の授業中にそのタイ人がゲストとして現れたからである。
 去年からタイ語を習っているN子さんの友人で、そのN子さんが招いたといういきさつだが、私はそのタイ人を大いに歓迎した。何故ならば、若者は若者と話すのが一番と思ったからだ。
 ところがである。タイ人は英語がペラペラ。発音が実にいい。すると、上智の学生も英語がペラペラだから、タイ語の単語がみつからなかったり、表現の仕方に窮すると、英語で話し始めた。私はあわててストップをかけ、「タイ語で話しなさい。英語はダメ」と、タイ語で指示。もちろん、タイ人にもタイ語で通すようにお願いした。
 タイ人はチュラロンコン大学の女子学生であった。上智の学生達は習った文型や単語を使いながら、次第にたくさんしゃべるようになった。若者同士が明るく自然に接する姿を見て、老兵である私はにこにこしながら、学生達に「そうそう、そのように話せばいいのよ」と、エールを送った。