時計屋の店主

腕時計の針の動きがおかしい。よく止まるようになった。おそらく電池切れに違いないと思い、40年来、利用している目白駅近くの時計屋へ行った。
 そこは、店の右側がせんべい屋、左側が時計屋というしつらえになっている。7年位前までは、時計職人を雇っていたが、その職人が病気の奥さんの世話をしなければならなくなって辞めた後は、せんべい屋の亭主が時計を直し始めた。その亭主こそが、実は時計屋のオーナーであった。
 ところが、昨日は、その亭主がいなかった。代わりに応対した中年男性に、私はすかさず尋ねた。「おじさんは?」
 「おじさんはいなくなりました。おじさん=私の父でしたが…..。去年9月、亡くなりました」
 それから以後、彼が時計の電池を換えながら、たくさんの顧客に励まされて、彼が時計を修理することになった経緯を話してくれた。経験はなかったが、恐る恐るやっているうちに何とか修理が出来るようになってきたそうだ。やはり父親の仕事を見て、彼の頭の中にちゃんとインプットされていたわけだ。
 彼は54歳。安い値段を提示してきたが、私は彼の真摯な仕事ぶりに感激し、通常のお金を支払った。彼が立派な職人であることを認めるために。

福井から名古屋へ

福井駅前にある越前の工芸品を並べた土産店で漆製品の箸や菓子置きを買った。漆の工芸品は鯖江が有名だそうだ。鯖江といえばメガネだと思っていたので、一つ知識が増えた。
 関東から参列した元生徒達とは福井で解散し、皆、それぞれのルートで帰って行った。一人だけ、福井から米原まで同じ特急に乗る生徒がいたが、彼は指定席、私は自由席だから、福井駅のホームで別れた。彼は「米原」を、「こめはら」と読んだので、「まいばら」だと教えてあげた。知らない土地の読み方はむずかしいといえばむずかしい。だが、「米原」なら、新幹線も止まるのだから、これは常識の範囲内。
 私は、名古屋と福井を「特急しらさぎ」で往復した。米原と名古屋は1時間。昔はよく利用した東海道線だが、新幹線を利用するようになってからは縁遠くなっていた。関ヶ原を通り、大垣へ….。電車にはあまり人が乗っておらず、ゆったりとした時間が味わえた。
 だが、名古屋に着くと、もうそこは都会。東京と同じくらい活気が有った。

福井駅前のホテル

8月23日の朝、福井駅到着。関東から参加した元教え子達と合流して、花婿が予約しておいてくれた駅前ホテルに荷物を預ける。久々に会ったものだから、ロビーで談笑。
 すると、元生徒が「あっ、タイ人だわ」と言った。そこで、横を通り過ぎて行った女性を見ると、なるほど、なるほど。まさしくタイ人だ。福井に来てすぐにタイ人に会うとは!
 一人や二人ではなかった。翌朝、何故、タイ女性達がそのホテルにいるのかが分かった。ベッドメーキングのアルバイトをしているようであった。仕事に来ているとなれば、話しかけることはできない。
 結婚式はなごやかで、素晴らしいものであった。夜、ホテルに20年前の生徒が会いに来てくれた。そして、ご馳走をしてくださった。彼はもう49歳。タイ語を習っていた頃は20代。「先生も40代でしたね」と、彼はつけ加えた。タイ語研修時代の懐かしい話が次から次に出た。

敦賀探訪(2)

タクシーで敦賀湾までやって来ると、鏡のような海面であった。満潮だ。おだやかそのもの。湾の東側に「人道の港 敦賀ムゼウム」が有った。2時間かけて、敦賀港の歴史を学んだ。
 たくさんのチラシが用意されていたが、そこでしか購入できない冊子2部も買った。それは、「人道の港 敦賀 命のビザで敦賀に上陸したユダヤ人難民足跡調査報告」と、「みなとまちの宝 敦賀近代化遺産ガイド」である。
 杉原千畝氏に関するコーナーでは、如何に彼が今でもたくさんのユダヤ人達から感謝されているかがよくわかった。
 それにしても、敦賀の人々は優しい。敦賀の港の歴史がそのようにさせたに相違ない。チラシのキャッチ・コピーには、「敦賀港だからこそ伝えられる命と平和」と書いてある。
 シベリア鉄道でウラジオストクまでやって来たポーランド孤児(1920年)、そして、ユダヤ人達(1940年)。敦賀でもらったりんごやバナナは忘れられないそうだ。

敦賀探訪(1)

福井市へ行く前に、どうしても敦賀というところで一泊したかった。敦賀港の歴史を知りたかったからである。
 名古屋から「しらさぎ号」に乗り、敦賀に向かう途中、敦賀気比高校が甲子園での試合で大量得点でリードしていたので、おそらく敦賀市民達はテレビの前で釘づけになっていることと思い、敦賀駅に降り立った。案の定、街は静まりかえっていた。
 ホテルにチェックインした後、「人道の港 敦賀ムゼウム」までタクシーで行った。流しのタクシーは無いということなので、ホテルのフロントから電話をかけてタクシーを呼んでもらった。
迎えに来た運転手さんは女性であった。車中で「女性の運転手さんは多いですか?」と尋ねると、「福井県は夫婦共稼ぎNo.1の県ですよ!」と、とても元気な声が返ってきた。
 敦賀気比高校が4強に入ったので「おめでとうございます」と言うと、彼女は言った。「地元の選手は誰もいません。大阪の方から来た選手が多いから、今ひとつ、敦賀市民は盛り上がっていないんですよ」
 昼下がりの市内は不気味なくらい静まりかえっていた。敦賀原発の停止も影響していることは否めない。原発関連会社の専用駐車場には車が放置され、ゲートは施錠されていた。

今日から福井県へ

8月23日、福井市で行われる結婚式に参列するため、今日から出発する。結婚式に参加するか否かの打診は5月に有った。その時はすかさずOKしたが、いやはや暑い….。
 一日早めに現地入りしておかないとという懸念が先立ち、前日である今日は敦賀で一泊することにした。
 敦賀ムゼウムを訪れ、昔、ポーランド人孤児や、杉原千畝氏が発給した日本通過ビザを持ったユダヤ人が敦賀港に上陸した様子を展示した博物館を見て来ようとと思っている。
 (23日のブログはお休みし、24日の夜からまた書き始めることにする。)

新規開講クラス 「タイ語入門 水曜日20:00」

昨日より、「タイ語入門 水曜日20:00」を新規に開講した。受講生はわずかに2名。彼らの熱意にうたれて開くことにしたクラスである。
 しかし、彼らは全くの初心者ではない。男性はタイに4ヶ月、滞在したことがあるので、実用的な単語をたくさん知っておられる。問題は発音だ。声調が我流になっているから、どんどん矯正してほしいと、タイ人講師にお願いをする。
 女性はタイ料理が大好きだということで、料理名を次から次に列挙する。だが、これまた、発音が……。タイ人講師と私で直してあげた。
 二人の顔は次第に本気になってきた。頑張るぞという意欲をみせてきた。12月末までに果たしてどのくらい発音がよくなっているか、楽しみである。

3ヶ月が勝負

山東省青島から留学して来ているKさんはとても優秀である。最近、彼女と食事をする機会が有ったので、いろいろと質問してみた。
 「山東省で穫れる果物は何ですか?」
 「西瓜とリンゴです。それに桃」
 「青島ビールが有名ですよね」
 「第一工場で製造されたビールはおいしいです。第二工場のビールはまあまあ」
 「ところで、あなたの日本語は全くくせがありません。日本人と同じ日本語です。日本に来てからどのくらいで日本語がわかるようになりましたか?」
 「3ヶ月でわかるようになりました」
それを聞いて、びっくり。語学は3ヶ月が勝負だ。

今日から授業再開します!

泰日文化倶楽部は今日から、授業を再開いたします。12月下旬の冬休みまでの4ヶ月、休みなく授業を実施いたしますので、マイペースで勉強にいらしてください。
 今日のトップバッターのクラスである「タイ語中級 火曜日11:30」は、見るからにマイ・ペースの方達ばかり。とても楽しく勉強しておられます。午後からは古参のクラスが2つ続きます。そして、夜はタイ語入門が2クラスと、タイ語初級が2クラス。皆さん、仲良く勉強しておられるので安心しております。
 泰日文化倶楽部の生徒達は、いずれも皆、のんびりしています。そうですね、焦ったところでどうしようもないですから。願わくば、こつこつと勉強し、長く通って来ていただきたいものです。

日本赤十字病院の診療費領収書

若者のストリート・ダンスの公演を2時間、真面目に見たところ、私には照明がどぎつかったらしく、その時は気がつかなかったが、元生徒さん達との夜の会合が終わる頃、急に頭が痛くなった。
 心配した皆さんが、是非とも病院へ行ったほうがいいというので、レストランから近くて急患を受け入れる病院を探し出してくれた。病院は、日本赤十字医療センター。
 問診の結果、念のためにということで、頭のCTを撮った。特に異常がなかったので、薬ももらわずに帰宅した。
 翌日、日赤病院の領収書を見てみた。すると、すべて英語訳付きであった。私が感心したことは、赤十字の創設者であるアンリ・デュナンの言葉が裏面に書かれていたことであった。 
 「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い生命は救われなければならない」