二次会 or 20階

昨日、久々にタイ人に日本語を教えた。3月から5月までは、双方の都合がかみ合わず、ほぼ休止状態であった。
 「お久しぶりですね。最近、地震や火山の爆発のニュースが多いですが、テレビを見てますか? 5月30日の地震の時はどこにいましたか?」と、私は生徒に向かって言った。
 「はい、その時は、ホテルの52階にいました。先生は?」と、生徒はすかさず訊きかえしてきた。
 「私はその日、結婚式に参列し、地震が起きた時には、二次会の会場にいました」
 すると、「ああ、先生は20階にいたのですか?」と、生徒。
 「いいえ、20階ではなくて、二次会です」と、私ははっきりと発音した。
 だが、タイ人の生徒には20階と二次会の違いが聞きわけできないようであった。

山手線一周

昨日、暇をもて余したので、山手線を一周した。午後4時から5時半の間だから、まだラッシュ時ではなかった。下校の中学生達が可愛い。
 最近の傾向は外国人の旅行者が増えて来ているということだが、彼らは上手に電車を乗り回しているような気がする。電車の中で見る外国人には余裕すら感じる。
 聞いたところによると、中国人は東京23区を卵と見立て、山手線の中を卵の黄身だと思っているとのこと。確かに、山手線内で住んでいると、どこへ行くのも実に便利。時間的ロスが少ないから、そのぶん、充実した生活が送れる。
 今後、ますます外国人旅行客が増えるので、政府は彼らを地方へ分散させる対策に取り組んだというニュースが昨日、報じられていたが、是非そうしてもらいたい。
 高田馬場は日本語学校に通うアジアの学生達でごった返している。嬉しい悲鳴ではあるが、駅周辺がますます歩きにくくなってきている現象に驚きを覚えるのは私だけではなかろう。

居酒屋での生徒達の表情

昨晩もトン先生の送別会が行われた。「タイ語初級 木曜日19:00」の授業が終わったのが20:30。その後、「予約はしていないけれど、どこか行きましょう」ということになったので、私は東京で一番安いと言われている高田馬場のさかえ通りにある居酒屋「青龍」へ皆を案内した。木曜日であったせいもあり、8名の席が難なく取れ、ラッキー!
 22:00までの1時間半、皆、楽しく、明るく飲んだり食べたり。トン先生もとてもリラックスしておられ、嬉しかった。何故ならば、いつもは真面目くさった顔をして、生徒達になんとかタイ語を言わせようと必死であるからである。
 ふと気づいたこと、それは生徒達の顔も最高にほぐれていたということ。「何故かしら? 皆さん、いい顔をしておられるわね」と、隣りに座ったS子さんに言うと、「日本語をしゃべっているからですよ」という返事。「タイ語はなかなか出てきませんが、日本語で話すならすらすら」
 8名の中には、去年10月、日本語の勉強がとても忙しいといって泰日文化倶楽部をやめて行った中国人留学生のB子さんも参加していた。無事に大学に入ったことを聞き、とても嬉しかった。日本語を話すスピードは以前よりもはるかに増していた。

ヒンディー語の長先生

昨晩、トン先生の送別会を終えて零時近くに帰宅すると、メールボックスの中に一枚の葉書が入っていた。アジア・アフリカ語学院でお世話になったヒンディー語の長弘毅先生を偲ぶ会の開催を知らせるものであった。とても優しい表情をお持ちの先生であられたことが印象に残っている。私は書棚から『語りつぐ人びとⅡ インドの民話』(長弘毅 福音館書店 1981年)を取り出した。表紙の裏に、「恵存 吉川敬子様 1981年7月9日)と書かれてあった。
 長先生は1958年にインド政府奨学生としてインドに渡られたそうだが、出発当時の模様を「はじめに」のところに次のように書いておられる。
 「神戸の港を発つときは、それこそ二度とこの日本の地をふめないかもしれないといった悲愴な思いで緊張していたことを、今もはっきりおぼえている。東南アジアの各港に寄りながら船がベンガル湾に入ったのは、日本を発って二週間後。ようやく波がしずかになり船酔いでつかれた体も元気をとりもどしはじめた」
 1950年代にアジアへ行くには船で行くしかなかったのである。

薔薇園学園(โรงเรียนสวนกุหลาบ)

昨晩、トン先生が風邪気味だったので、「タイ語中級 火曜日19:00」の授業が終わるまで教室でいて、私は補助役を務めた。
 テキストの中で、中学校、高校という単語が出てきたので、私はトン先生に尋ねてみた。「先生の出身校は?」
 すると、「โรงเรียนกุหลาบ です」と、彼は言った。「あら、薔薇園学園ですか?」と、私はわざと翻訳して繰り返した。
 トン先生は出身校の来歴を説明してくださり、昔、薔薇園という名前の王宮の中にあったこと、タイで一番古い公立の男子校であること、ラーマ5世が1882年に建学され、今年で133年になることを教えてくださった。彼はその学校の卒業生であることの証として、「SKマーク」のついた指輪を手からはずしてみせてくださった。
私はその薔薇園学園の中を見物したことがある。もしかすれば、高校生のトン先生とすれちがったかもしれない。
 トン先生の授業は残すところ、あと1週間となった。約1年余、まじめに教えに来てくださったことに感謝の気持ちを表明したい。

書道・水墨画の先生

一昨日、テレビでとても素敵な書道講師の存在を知った。52年の長きに亘り住んだ棟割り長屋を改築する「ビフォア・アフター」という番組であった。広さはわずかに8.8坪。両壁は両隣りと共有。話はすべて筒抜け。79歳になる母親と52歳になる娘さんは荷物の中に埋もれて生活していた。しかも娘さんはそこで書道教室をやっておられる。
 はてさて、リフォームはどうなることやら。目を食い入るようにして流れ全般を見た。出来上がりは5百点を上げたいくらいのすばらしさ! さすが一級建築士の手になるものだ。
 生まれ変わった長屋の中は、書道を習いに来られる生徒達の教室もちゃんと確保されていた。先生が水墨画に専念できる机も工夫がこらされていた。さらには、水墨画を飾る床の間や作品を収納できる納戸も作られ、彼女の喜びたるやいかばかりか!
 私が感心したのは、荷物の中に埋もれてこれまでに描きためた水墨画のすばらしさであった。実に深淵である。中国にも留学して学んだ彼女。真の作品を作るということは、広さは全く関係なし。いかに一極集中するかが肝心なり。

キナバル山

6月5日、ボルネオ島のキナバル山で発生した地震により、日本人の犠牲者が出たというニュースが今朝、報じられた。日本人が見つかったという時には生きて下山しているものと大いに期待したのだが、残念である。
 今から8年位前、クアラルンプールからボルネオ島に飛び、コタキナバルで2泊した。キナバル山にはタクシーをチャーターして中腹まですいすいと行った。そして、森林浴をした。世界で一番大きな花であるラフレシアを見たかったが、もちろん咲いてはいなかった。何故ならば、この花は、9ヶ月間がつぼみ、そして咲くのは一週間だけだからだ。代わりに、模型の花を見た。登山家はそこから上を目指して行くのであろうが、岩盤のような地肌を写真で見て、恐くなった。
 私がコタキナバルへ行った理由は、日本の若い娘達が女衒(ぜげん)の口車に乗って、あるいは、家族のためを思って、<からゆきさん=唐ゆきさん>となって、東南アジアへ行った足跡を見るためであった。コタキナバルの町には彼女達のお墓が有った。望郷の念を込めて、お墓は日本の方に向けられているそうだが、70年以上昔の話だから、墓は朽ち果てるのみ。今やそのような話も風化してしまった。

生花 vs 布花

昨日、横須賀のホテルで行われている「横須賀支部花展 碧水薫風」へ行った。横須賀は軍港の街。週末の街を歩いている人々を見ると、異国情緒たっぷり。
 今どきの花はやはり紫陽花。私も紫陽花色の青い服を着て出かけた。もちろん意識して。
 65名の方々が活け込んだ作品をひとつひとつ丁寧に見ていると、宴会が終わったばかりの男性が私に近づいて来てこう言った。
 「私の知り合いは布で花を作っています。長く持っていいですよ」
 「あら、それは素敵ですこと。いいアイディアですね」と、私。
 だが、私は心の中で反論した。たしかに生の花はすぐ枯れる。美しさは一瞬のもの。だからこそ折々の季節の花の美が目に焼き付くのだ。埃をかぶってずっと飾られている布花よりも、私は生花に軍配を上げたい。

活字の大きな文庫本

一昨晩、日暮里駅を降りて、根岸にある精進カレー料理店「オンケル」に行く途中、古本屋が有ったので入ってみた。そして、『二つの祖国』(山崎豊子 新潮文庫 平成21年)を買った。新品で4巻本が何とたったの400円也。本屋でまともに買うと、消費税込みで3千円はしそうだ。
 この一週間で喜びと悲しみが一斉におとずれたので、昨日は終日、家にこもって気持ちを静めようとした。だが、寮友の死は重かった。生き方について教えられることがあまりにも深くて大きいからである。
 気分を変えようとして、『二つの祖国』を読み始めた。山崎豊子の取材力と構成力にぐんぐん惹きつけられる。
 何よりも良い点は、活字が大きい文庫本であったこと。実に読みやすい。昔の本の活字はほんとうに小さかった。文字が詰まっていた。今思えば、よくぞそのような本を読んでいたものだなあ…..。
 文字が大きいと漢字もよくわかる。有難い。

3歳の坊や、アメリカへ

国際弁護士であるアメリカ人T氏の坊やと先週、結婚披露宴で会ったが、それはそれは可愛い坊やであった。ネクタイをしたのは初めてらしいが、小さな紳士という感じであった。
 昨夜、聞いたところによると、その坊やが日本人である母親と一緒に、T氏の実家があるアメリカへ1ヶ月の予定で出かけて行ったそうだ。
 理由は、英語の音感をつけさせるため。想像するに、坊やはその1ヶ月で英語の感覚をたくさん吸収してくるにちがいない。
 大人になると、外国語の発音はなかなか上達しない。外国語を始めるなら、早ければ早いほどよい。そう思う。