1867年のパリ万国博

『文芸思潮 2015年秋号』が編集・発行人である五十嵐勉氏(元生徒)より、贈呈本として送られて来た。いつも思うことだが、この世の中には小説を書きたい人が何と多いことか。
 この中に所収されている「ジャポン芸者・パリ万博へ行く」(工藤辰吾著)を読んだ。一人の目先の利いた商人が宣伝効果を狙って芸者衆をパリへ連れて行った話だが、次なるくだりが有り、面白いと思った。
ーー 万博会場の近くに流れるセーヌ川岸に楕円形の巨大な建物が目に飛び込んできた。直径四百八十八メートル、短径三百八十五メートルに及ぶものであった。敷地には各国の建物が並び、建築中のものもあり、人々の群れが忙しく動いている。日本はシャム(タイ)、清国と並んだ狭い敷地が与えられた。ーー
 おやおや、日本は昔からタイとは浅からぬ御縁が有ったというわけだ。パリの万博会場で日本からの関係者とタイからの関係者は一体、何語で会話を交わしたのであろうか? まことに興味深い。

可能性(possibility)と 確率(probability)

昨日、生徒さんから、日本語をタイ語に訳したから、添削してくださいという要望が有った。彼女はタイ語検定試験2級を受験するため、昨年の問題集を解答しながら対策を練っているようである。
 いずれの文章も相当のタイ語力を持っていないとタイ人にわかるタイ語の文章にならない。そして、あらゆる分野の語彙力を持っていないと、すらすらと文章が書けない。
 ある文章の中に、「確率的にいえば」という表現が出てきた。生徒さんは、「จะเป็น」 と書き、具体的には訳していなかったが、それはそれでかまわない。タイ人に読ませると、意味が通じるからである。
 ところが、別の文章に、「可能性がある」という表現が見られた。彼女は「มีความเป็นไปได้」と書いていた。正しい訳だと思う。
 それはそれとして、「可能性」と、「確率」の単語をタイ語でどういうのであろうかと調べてみると同じであった。もちろん、異なる書き方をしているものもあったが、タイ語ではこの微妙な差をそれほど神経質に考えなくてもいいことにしよう。でなければ、悩んでしまう。

ベンチャロン焼の花瓶

先週から昨日まで、日本橋の高島屋本店で「日本いけばな展」が催された。泰日文化倶楽部で「アジア女性のための生け花教室」をご担当いただいている華道講師が出品されておられ、招待状をいただいていたので、出かけて行った。
 出展した流派は約200。「一人だけしかいない流派もいます。一人でも家元よ」と、華道講師。
 秋の花々がいっぱい。なかでも、鶏頭の花が目立った。鶏頭は、タイ語では、「หงอนไก่ ゴーン(とさか)+ ไก่ ガイ(鶏)」。大玉のダリアも美しい。
 タイに住まわれたことが有る華道講師が私を或る生け花の前に連れて行ってくださった。
 「ほら、ベンチャロン焼の花瓶ですよ」
 花瓶のそばにはアクセントとしてタイシルクのスカーフが置かれてあった。日本の花を生けてもうまくマッチしているから、驚き。日本伝統の美の世界にタイの要素が加わり、新たなる美を生み出している。日本とタイの芸術面でのマッチング、工夫すればまだまだ有りそうだ。

個人レッスン、お勧めします!

泰日文化倶楽部では、最近、個人レッスンの要望が増えています。
 「他校で勉強したことが有りますが、個人レッスンをお願いします」
 広い教室が3つも有るので、いつでも授業は組めますから、お申込みいただくと、即、スタートすることができます。
 個人レッスンの良い点は、講師と1対1で、90分、タイ語の世界に入れることです。発音を徹底的に指導します。単語の覚え方も適格に教えます。
 グループレッスンはグループレッスンで良さが有りますが、惰性を感じたら、一度、個人レッスンを受講なさってみてはいかがでしょうか?
 或る生徒から言われました。「授業後、タイ語を勉強したという満足感が欲しい」、と。
 それでしたら、個人レッスンをお勧めします。

独学少女

昨晩、ピカピカ先生が彼女の親友(中学の同級生)を教室に連れて来られた。昨日の朝、成田に着いたばかりだそうだ。来日は3回目。23歳。仕事は個人で日本の漫画やアニメを翻訳しているとのこと。日本語以外にも、韓国語と英語の翻訳も手掛けているとか。
 「日本語はいつから勉強し始めたの?」と、質問してみた。
 「9歳からです」と、彼女。
 「大学は?」
 「行っていません。独学です」、と、彼女は力強く答えた。
 それを聞いて、私は驚いた。日本語、韓国語、英語、すべて独学とは!
 彼女の向学心たるや、若さ故のこと? 彼女の生きる勢いに感服した。

板前という単語

 先日、タイ料理店のコックさんと話をする機会が有った。タイの一流ホテルでシェフをしていたとのことで、ものすごく腕がいいと周囲の人達は親指を立てる。
 コック(กุ๊ก)という単語は、英語だが、タイ語では、男性の場合、พ่อครัว(ポー・クルア=台所のお父さん)、女性の場合は、แม่ครัว(メー・クルア=台所のお母さん)という。
料理長になると、フランス語のシェフを使うようだ。
 ところが、私が話したコックさんは、コックになる前には、หน้าเขียง(ナー・キアング)をしていたという。私はこの言葉を知らなかった。どんな仕事をするのかと尋ねたら、シェフが料理を作るのを手伝う仕事だと説明された。よくよく考えたら、「หน้า(前)+ เขียง(まな板)=まな板の前」は、板前のことだ。
 彼はリゾート地のホテルでもシェフをしていたそうだが、ナー・ハイ(ハイ・シーズン)と、ナー・ロー(ロー・シーズン)が有ったと語った。この場合の「ナー」は、季節を表す。「ナー」は同音異義語でたくさんの意味を有するから、場面をとらえながら覚えていかなくてはならない。

手塚治虫が愛した喫茶店「つかさ」

高田馬場3丁目に有った喫茶店「つかさ」が9月14日をもって閉店した。この店は手塚治虫が愛した店で、そのビルの上には、手塚プロの事務所が有ったところである。
 5月からシャッターが下ろされたままになっていたが、ついに閉店を知らせる貼り紙が出た。
 内容は昭和39年(1964年)から51年間に亘り営業してまいりましたが、父(創業者)が亡くなりましたので、よくよく考えた末、この際、閉店することに相成りました、というものであった。
 多くの老人達に愛されていた店がまたひとつ消えた。
 高田馬場駅前(早稲田口)の山手線ガード下には、鉄腕アトムの壁画が有る。今朝、NHKを見ていると、ノーベル物理学賞に輝く梶田隆章教授のご両親がインタビューで答えておられた。「息子はアトムよりも博士に関心を懐いていました」
 今日、高田馬場へ行ったら、壁画をじっくりと見てみよう。

心電図

昨日、区の無料健康診断に行った。胸部検査OK。心電図の検査は無料ではなかったが、医師の勧めに従い受診。
 毎年行っている医院なので、医師は私のことをよく覚えてくださっている。コンピューターの画面上にここ3年間の私の心電図を重ね合わせながら、「まったく同じですね」とおっしゃられた。私はそれを聞いて一安心した。
 その後、私は思った。語学力の計測や、いかに。もし、私が医師の如く、生徒の学力を測るとするならば、3年間の学力が同じであってはならない。少しずつでも曲線が上向きになり、より向上してもらわないと…..。
 いや、まてよ、1週間に1回、教室に来て、わずか90分の授業を受けるだけであれば、目をみはるような向上は無理、無理。語彙力、会話力が急上昇することはありえない。むしろ、後退、減退させないように、生徒の学力を把握するのが我が務めなり。

邦楽合奏団「まどか」の定期演奏会

昨日、邦楽合奏団「まどか」の第24回定期演奏会を聴きに行った。常任指揮者をしておられるS氏(泰日文化倶楽部の元生徒)から招待状を頂戴したからである。
 この「まどか」は、1988年に産声を上げたそうだから、泰日文化倶楽部と同い年だ。
 演奏された曲目の中に「尺八二重奏曲 遍路」という曲が有ったが、プログラムに書かれてあった作曲者(杵屋正邦)の解説の文章がすばらしいので、以下に一部を引用させていただく。
 「四国路をめぐるお遍路さんは、八十八ヶ所の霊場一巡によって一応その願望は成就されます。音楽の路には辿りつく果てもなく、然も複雑多岐、ともすればその進むべき方向すら見失いがちであります。時に一条の光明道と喜悦して生ける証しの歩を刻まんとするや、たちまち変じて深奥無限の暗黒路と化し、為すに術なく茫然と佇む。楽道とはしかく険阻峻厳なるものと覚えました」

伝統を守るセンダ―おばさん

「タイ語上級 日曜日13:00」のクラスでは、30年前に編まれた小学校4年生の国語教科書を読んでいる。最近読んだ「美しい竹の家 บ้านไผ่สวยงาม」の話はとても示唆に富んでおり、感銘を覚えた。
 あらすじはこうである。とある小村に生まれた少女センダーは幼くして、町に住む伯父さんの家にもらわれていった。しかし、彼女はしばらくして郷里に舞い戻って来た。そして、おばあさんとお母さんから直接、織物の教えを乞うた。綿花を植え、糸を紡ぎ、機織りをし、草木で染める方法をである。
 少女センダーは成人後も村にとどまり、次から次に固有の模様を考案し、美しい布を仕上げていった。それは誰にも追随を許さぬ見事な腕前であった。
 それを聞きつけた日本人がやって来て、ぜひともこの模様を織ってほしいと頼んだ。ところがセンダーおばさんは、「自分は自分で考案した模様しか織りたくない」と言って、日本人の要望を一蹴した。そして、タイ固有の伝統を守り、継承するために生涯を捧げた。
 30年前と言えば、日系企業がタイに進出した第二次ブームの時期に相当する。エコノミック・アニマルと呼ばれた日本人を、賢明なるタイ女性は受け入れなかった。