人を思えば……..その人が…….

私は1965年4月から東京に住んでいるから、もう52年半になる。私にとって、標準語はいまだに外国語であり、ペラペラと喋ることができる母国語はあくまでも讃岐弁だ。そして、1969年4月から働いているから、社会人歴48年半。多くの出会いが有り、かつ、別れが有った。しかし、一コマ一コマのシーンはよく覚えている。
 不思議なことは、ふとしたことで誰かを思い出すと、その人が何らかのかたちで私にコンタクトして来ることだ。
 昨日、メールボックスに封書が入っていたのでドキリ。元生徒さんの奥様からであった。彼女のことを数日前に思い出したばかり…..。私のインスピレーションの強さに驚いた。
 元生徒さんは7年前にお亡くなりになったが、奥様は数年に1回、私に封書を送って来られる。はてさて今回はどんなご要望かと思って封を切ると、「タイ女性にタイ語で手紙を書いてくださいませんか」というものであった。奥様には一度もお会いしたことがないが、頼まれると彼女の要望に快く応じる私。こういうわけだから、交友関係が狭まる日は来ない。

ウズベク語の通訳

 先日、仕事先で、「ウズベク語の通訳ができる方、知りませんか? 日本人で出来る人、いないみたいなんです」と言われた。
 「それじゃあ、ウズベキスタン人に頼るしかないですね」、と私。
 相手はさらに続けた。「通訳と言っても、翻訳してもらう書類もいろいろと有りますから、日本語の文章が書けないと困るんです」
 それを聞いて、通訳は話したり、答えたりする能力だけでは足りず、日本語の学力が必要とされることを改めて思い知った。
 仕事先で翻訳する場合、漢字を忘れたからと言って、スマホでチェックすることはできない。何故ならば、スマホの使用が禁止されているからである。
 日本人でも日本語の文章を書くのに四苦八苦する。ましてや、外国人をや。いずれにせよ、語学力を向上させるには、話す、聞く、読む、書く、の能力を相互に高め、かつ、スピード感を求められるということだ。
 

知 vs 動

茶道講師がドイツへ旅行されておられたので、1ヶ月半ばかり稽古がなかった。その間、私は茶道に関する本を数冊読んで過ごした。
 そして、24日の日曜日、久々の稽古に臨んだ。ところが身体も指も思うように動かない。講師や仲間達からいろいろと助言をいただいたが、注意されればされるほど、益々もって動きが固くなってしまった。
 よくよく考えてみると、「知」ばかりを求めている自分に気がついた。「知」よりも「動」が大切なのである。
 タイ語の学習で中級クラスになると、接頭辞であるความとการの勉強が始まる。ความを使った単語は静的、抽象的な意味合いを有し、英語で言うと「~ness」であり、การは動的な意味合いなので、「~ing」と言う説明をするが、英語が嫌いな人には通じない。動的な具体例としては、การกิน(食事)、การนอน(睡眠)、การอ่าน(読書)、การเดินทาง(旅行)、等が有る。
 秋を迎えるにあたって、さわやかな気分で「動的生活」を実践しよう!

香香(シャンシャン)

昨日、上野公園のパンダの赤ちゃんの名前が発表された。「香香(シャンシャン)」。それを聞いて、素直にいいなあと思った。音の響きがいいのはもちろんだが、やはり「香香」の漢字がすばらしい。人によっては「香りがいい」とか、「香ばしい」というイメージを真っ先に思い浮かべるかもしれないが、私には郷里である香川県の「香」として、親近感がもてる。
 「香りがいい」は、タイ語でหอม。 7年前頃、我が泰日文化倶楽部には、姓が「หอมดี(香りがよくてすばらしい)」という先生がおられた。現在はコンケン大学で歯科医をしておられる。
 語彙を増やすために「หอม」を使った単語や表現を列挙してみよう。หอม(ネギ)、หัวหอม(玉ねぎ)、น้ำหอม(香水)、เครื่องหอม(お香)、 เนื้อหอม(もてる)、 เห็ดหอม(しいたけ)、หอมแก้ว(ほっぺにキスする)、等々。

二人のタイ女性講師

本日(2017年9月25日)、ミカン先生は離日される。4年前に文科省留学生として東京医科歯科大学に一緒に来日したタイ人仲間4名と共に、博士号の学位記をたずさえて….。
 本帰国に際して、彼女は泰日文化倶楽部に挨拶にみえた。丁度、その時、新しい講師である指輪先生が授業中であった。二人は初対面。
「4年間、あっというまに過ぎました。本当は帰りたくありません。日本が大好きだから。でも、10月からはマヒドン大学での勤務医の仕事が待っています」と、ミカン先生は言った。
 すると、バンコクにご主人を残して来られた指輪先生が応じた。「私はこれからの4年間、文科省留学生として、日本福祉大学で福祉の研究をし博士号を目指します。35歳ですから、子供を産むか、それとも学問かということで悩みましたが、学問を選びました」
 二人のタイ女性の会話を傍で聞いていた私は、双方にエールを送った。「学問も良し。子供も良し。素敵な生き方を初志貫徹してください!」 いずれにせよ、ミカン先生から指輪先生にバトンタッチされた泰日文化倶楽部は安泰なり。

ムエタイ娘

深夜、バンコク駐在中のK氏からラインで動画が送られて来た。「ムエタイ大会で準優勝しました」と書いてあるので、その動画を見ると、選手の身体がやけに小さい。その後の説明を読むと、彼ではなくて、彼の娘さんがムエタイで準優勝したということがわかり驚いた。2年前に会った時にはまだ小学校3年生で、内気な少女であったのに…..。
 さらにラインが続いた。「娘は負けん気。あまりにも強すぎて、女子では相手がいないので男子リーグでの参加が認められました。2人ぶっ倒しましたけど、決勝でやられました。来月はムエタイスタジアムで女子と戦わせます。タイ人とやらせます」
 K氏がムエタイ好きであるのは知っていたが、娘さんにまでやらせているとは! 
 しかしながら、動画を見ると、彼女の動きが本格的なのである。さすが本場仕込みだ。おそらくタイ人の名コーチについて習っているのであろう。

タクシーの運転手達

 昨晩、タクシーに乗る必要性が生じたので、自宅から新宿まで乗った。運転手さんは見るからにプロ。安心して乗っていられると思った。ところが、私が指示した道は知らないという。「こんな細い道、通ったことがありません」
 それを聞いて、彼のプロ歴を疑った。もしかすれば、脱サラの運転手であったのかもしれない。
 いずれにせよ、車を運転する人達は目的地の住所をすぐにナビに入れ、それに頼って走る。しかし、都内には裏道というものが有り、その裏道を知っていると、目的地に早く到着するのである。
 先日、乗車したタクシーでは、運転手さんが年寄りで、ナビの入れ方が下手であった。その上、「東浅草」と言っているのに、「西浅草」と打とうとする。これは聴力の問題だ。

ขอโทษ と ยกโทษ

昨晩から、「タイ語中級 金曜日19:00」のクラスは新人講師である指輪先生に担当していただくことにした。彼女はタマサート大学助教授であるが、日本の社会福祉を研究するために今年7月に来日したばかりなので日本語があまりわからない。したがって、今のうちだ。生徒の皆さん、大いにタイ語でしゃべり、日本の事情をタイ語だけで説明しよう。
 「何か質問が有りますか?」と授業の最後に先生が言うと、生徒の一人が「ขอโทษとยกโทษの違いがわかりません」と言った。
 「両方とも同じ意味ですが、ยกโทษのほうが、もっと意味が深いです。タイのテレビドラマを見ていると、この言葉はいつも使われていますよ。浮気がばれた時、旦那さんが奥さんに向かってยกโทษด้วย(赦してくれ)と言ってます。 ขอโทษ(ごめんなさい)では、奥さんの気持ちはおさまりません」
 横で聞いていた私は面白い事例だと思った。やはり結婚しておられる先生の話題は違うなあ。

劣化する毛糸

編物教室へ通って10年が経過した。通うペースもしっかりと板についている。突然の仕事や用事が入らない限りは、リラックスした気分で編物の先生のお宅にうかがう。
 今年の2月から編みだしたベストが、先日、最高の出来栄えで編み上がった。そこへ知人の来訪。思わず彼女にプレゼントした。また編めば作品はいくらでもできるから….。
 ところで、私のところに毛糸がいっぱいたまっている話を編物の先生に言うと、「早く使ったほうがいいですよ。毛糸は長く置いておくと、いつのまにか劣化しますから」と言われた。いけない。安売りの時に買っておいた毛糸が段ボール箱2箱に入ったままだ。
 「置いておくだけで劣化する」という話は他のものにも通用する。使うのがもったいない。そう思って箱の中に眠らせたままにしておくのは、結局のところ、もったいない結末になる。大いに活用して、その品々に息をさせ、存在価値を認めてあげることが大切なのである。

消えゆく日本語の動詞

 先日、タイ人が「屋根の上に上がって、瓦を敷き詰めています ขึ้นหลังคาปูกระเบื้อง」と言ったので、私は「屋根を葺いています」と訳すと、聞いている若い日本人が「屋根の掃除をしている」と勘違いした。何故、そんなことが起きたかというと、「屋根を拭く」と思ったからである。「屋根の場合は、屋根を葺く、と言うんですよ」と繰り返し説明したが駄目であった。
 ひるがえって考えてみると、たしかに都会ではヘーベルハウスみたいなものが多くなって、瓦を一枚一枚敷き詰めている光景がみられなくなって久しい。
 スーパーで魚の切り身をパックで買う若い奥さんたちの多くは、「魚を下ろす」という表現を知らないらしい。無洗米が出て来ているから、「米を研ぐ」ももう通じないかもしれない。「風呂を立てる」は完全に死語であろう。「茶を淹れる」が死語になる日が来ないことを祈る。