高村光太郎の「牛」の詩に出合ったのは中学生の時。確か、国語の教科書にその詩の冒頭部分が紹介されていた。その時は何の共感も覚えなかった。身近に牛を見る機会が無かったからだ。というか、牛を馬鹿にしていた。いかにものろそうに見えたから。
115行に及ぶ詩を全部、読み直した。なんと示唆に富んだ詩であろうか。この詩に共感を覚えるのに60年もかかったとは…..。しかし、コロナ禍で翻弄されることによって、この詩の深みに気がついた。
牛ハノロノロト歩ク
牛ハ野デモ山デモ道デモ川デモ
自分ノ行キタイトコロヘハ
マッスグニ行ク
牛ハタダデハ飛バナイ、タダデハ躍ラナイ
ガチリ、ガチリト
牛ハ砂ヲ堀リ土ヲ堀リ石ヲハネトバシ
ヤッパリ牛ハノロノロト歩ク
牛ハ急グ事ヲシナイ