昨日、古本屋で、『半眼訥訥』(髙村薫 文藝春秋刊 2000年)を購入。この本は1993年から1999年に発生した事件や事象について新聞に書いた記事をまとめたものである。本の帯に<著者初の雑文集>と書いてあるが、決して雑文ではない。
「情報の海で」という記事(読売新聞 1995年10月7日夕刊)では、著者は母親のことを書いている。
== わたくしの七十四歳になる母は、実はわたくしよりも先にインターネットを楽しんでいる自由人だが、その母が手元にいつもメモ用紙を置き、テレビや新聞で出会う新語を書きとめては、あとで辞書を引いている。そうしなければ、夥しい情報に取り残されるからだが、当人はそのつど、自分が年をとったという悲哀を、ことさらに味わうらしい。<中略>
情報の海を泳ぐのは現代人の宿命だが、それも有限の人間の営みの一つだと思えば、インターネットの時代も、余裕を持って迎えられるのではないだろうか。==
私がインターネットの存在を知ったのは、1995年の阪神淡路大震災の時である。髙村薫は<情報の海>と表現しているが、あれから25年(4半世紀)後の2020年は、もはや情報の激流であり、濁流である。