「言葉を学ぶ」ということ

コロナ禍で学校教育に於ける諸問題の停滞を憂える。そこで、昨日は、『シュタイナーの治療教育』(高橋巌 角川選書 1989年)を読んだ。傍観者としては大いに頷ける点が有ったが、文科省傘下の教育においては永遠に実現が不可能であろう。
 それはさておき、この古本の中に新聞の切り抜きが入っていた。ドイツ文学者でありエッセイストでもある池内紀氏が書いた「言葉を学ぶ」(日本経済新聞 <あすへの話題> 2011.6.8)というものであった。参考までに抜粋して紹介させていただこう。
 ーー 外国文学の場合、その国に行くのは言葉を学ぶためだが、言葉は読んだり、書いたり、話したりだけにかぎらない。その土地や人や歴史や風土や習慣と密接にむすびついている。私の学んだドイツ文学だと、ドイツ語は居酒屋のビールの泡、ザウワークラウト(酢づけキャベツ)の匂いでもある。初夏のころ町の広場にワッと出まわるアスパラの白さ、日曜日の楽隊と夕映えにそまった教会の塔、そういったすべてが同時にドイツ語であって、メディアが代理する言葉とはまるでちがった色と、かたちをもっている。雑誌は手ざわり、紙とインクの匂いを味わいながら開くもの。