新しい先生は輝くダイヤモンド

8月も今日で終わり。夏休みでタイへ帰国していた先生方も、皆さん、帰京された。9月以降、熱心にタイ語を指導してくださることと期待している。
 ところで、昨晩から、新しいタイ人講師を採用した。月曜日と金曜日を担当していただく。お名前を訳すと、「輝くダイヤモンド」。なんとすばらしいことか! ご両親が愛する娘につける名前としては最高だ。彼女の愛称は英語からとられたものであったが、日本人にとっては発音が難しい単語であった。「ですから、アンと呼んでください」と、彼女は生徒に向かって自己紹介した。
 最初の授業であったので、自由会話をしてもらった。生徒達も教科書にしばられることなく、新人講師とタイ語を楽しんでもらおうと思ったからである。そこで分かったことは、語彙力が無いという以前に、話す話題が無いということであった。
 今後の課題としては、語彙と表現をたくさん指導しながら、聴力も鍛え、生徒の気持ちをらくにさせながら、会話を楽しんでもらうように方向づけしたい。

プック先生のルークチャーイ

昨日、プック先生がお子さんを連れて、突然、教室に現れた。昨年2月、タイでの出産のため、泰日文化倶楽部をおやめになって以来、お会いしていなかったので、とても嬉しかった。
 お子さんは坊や(ルークチャーイ ลูกชาย )で、1才4ヶ月。プック先生はタイ語で育てているそうだ。人見知りをすると聞いていたので、大きな声で話しかけると怖がられるような気がして、なるべく小さな声で話しかけた。
 しかし、心配は無用であった。だんだんなれてきて、教室の中を歩き始めた。私が「走って! วิ่ง 」とタイ語で言うと、少し走った。なかなかにいい感じだ。
 プック先生の話では、これから保育所を探すそうだ。理由は、日本語も覚えてほしいからである。何よりも、ご主人のお父様、すなわち、おじいちゃんが早く孫と話したがっているので、そのためにも日本語教育が必要と感じているとのこと。

「介入する」というタイ語

タイ人に日本語を教える際、教科書だけではつまらないので、その日の新聞も使っている。目的は、見出しの漢字を印象づけて覚えてもらうためである。
 昨日の夕刊は、「軍事介入」であった。そこで、「介入する」というタイ語をタイ人に訳そうとしたのだが、すぐに出てこなかった。我ながらいらついた。しかし、平和な生活をしていると、物騒な単語から遠ざかってしまっているのは当たり前だと、自分をなぐさめもした。
 「介入する」というタイ語は、「セェーク・セェーング แทรกแซง 」。「セェーク」は「介入する」、「「セェーング」は「割り込む」という意味だが、2つの単語を並べて使うことにより、「介入する」という意味が強まる。
 世界情勢は次第にきな臭くなってきた。悪いイメージの単語が新聞紙面に増えないことを願うのみである。

タイ旅行から帰って来た生徒達

8月は泰日文化倶楽部で勉強している生徒達の多くがタイへ武者修行に出かけた。帰国したばかりの皆さんの顔を見ていると、頭も心もまだタイに残してきている感じがする。「今度、いつ行きますか?」と尋ねると、「来月、また行きます」という方達が数人おられた。うらやましい限りである。
 私の関心は彼らのタイ語だ。皆さん、それなりに通じたようなので安心した。
 だが、一人の生徒が言った。「数字が難しいですね。ソイの11に行ってもらおうと思ったのに、タクシーの運転手は通り過ぎてしまいました。私の発音がソイの18に聞こえたようです」
 なるほど。以後、数字の発音を徹底させることにしよう。
 いずれにせよ、自分の関心が有ること、特に、ゴルフ場での会話は問題がなさそうだ。何故ならば、何回も繰り返して使っているからだである。キャディーさんとの会話が伝わってきて、なかなかに楽しそうだ。

タイ語で夢を見ますか?

 昨晩、生徒さんから、「タイ語で夢を見ますか?」と聞かれたので、「見ますよ。最近はあまり見なくなりましたけれど」と答えた。
 すると、彼は言った。「僕が話すタイ語はまだ日常会話程度なので、レベル的には高くありません。しかし、夢の中に出てくるタイ人のタイ語はペラペラなんです」
 それを聞いて、非常に面白いと思った。専門的にはわからないが、彼にはタイ語を話す情景がきちんとインプットされているのであろう。したがって、彼の夢の中には映像として、タイ語の環境が再現できるのだと思われる。
 そういうことを聞くと、映像や生の音は、語学の勉強にとって重要である。さらには、語学漬けの毎日を送っていると、そのような現象が現れるのであろうと考えられる。
 少しでも早くタイ語が上手になりたい人は、タイ語漬けの毎日を送り、五感を研ぎらせながら、タイ語の語感に親しむことだ。
 

個人レッスンの効用

昨日、個人レッスンを受けておられた生徒さんが自主卒業をされた。何故ならば、9月にバンコクに赴任されるからである。わずか9回、すなわち、13.5時間だけの授業時間数であったが、生徒さんの語学センス+しっかりした予習により、大きな成果を得られた。
 そこで、個人レッスンの効用をあらためて考えてみた。勉強する日にちや時間が自由に決められる。したがって、授業料が無駄にならない。次に、先生の指導が自分自身に集中するので、他者に配慮する必要がない。気楽だ。さらには、質問したくなると、即座にできる。疑問点が、即、解決できるというわけである。
 ひるがえって考えてみると、語学の学習は個人レッスンのほうがいいかもしれない。マッサージにたとえるのは少々変かもしれないが、マッサージは一人のマッサージ師が一人の人を施術するのがふつうだ。マッサージ師が一度に数人の人の体を揉むことはできない。手厚い施術を受けた時は、爽快感がある。
 そこで、本日の結論。タイ語の指導も、個人を徹底指導すると、講師も生徒も大満足感が得られることがわかった。

生け花は何歳からでも大丈夫

昨日、「第78回アジア女性のための生け花クラス」が開催された。78回もやってきて、日本人だけの参加というのは初めてのことであった。いつもはミャンマー女性が参加し、ミャンマー語が飛び交うのであるが、8月は、皆さん、ミャンマーにお里帰りされたそうだ。親戚に会って、楽しい日々を過ごされておられることであろう。
 ところで、何回やっても一向に上手にならないので、華道講師にこう言った。「芸事は小さい時からやらないと駄目ですね」 
 すると、講師はすかさず答えられた。「そんなことありません。音楽関係は別ですが、生け花の場合は違います。世の中のことが幅広く見られるようになるのは大人。それからでも決して遅くありません。何歳からでも大丈夫です」
 それを聞いて、安堵した。では、もう少し、続けてみよう、世の中の森羅万象に驚きながら.....。

スーパーの真ん前にコンビニ

泰日文化倶楽部のすぐ近くにあった高級レストランが62年間の経営の後、閉店したのは今年5月。立派な建物なので、次にどのような業種が入るのであろうかと思っていたら、コンビニになった。
 しかし、道路を隔てた反対側には、これまた50年以上も続いている大型スーパーが有る。スーパーの前にコンビニとは、なんと強気なことか。新しいコンビニの50メートル手前にはすでに別のコンビニが有るというのに。
 買物をする場合、スーパーでもコンビニでも全く会話をする必要が無いので、それはそれでらくなのだが、こういう状態が進んで行くと、会話の少ない日本人がどんどん生まれてきそうである。
 バンコクへ行っても同じことが言える。コンビニで買物をするだけなら、そして、BTSに乗るだけなら、タイ語は要らない。せっかく旅行しても、タイ語をしゃべるのは、ゴルフ場のキャディーとマッサージ店の女性だけならば、会話の内容はおのずから決まってしまう。タイへ行くなら、タイ語をしゃべる場所を開発しなければいけない時代になってきた。

茶道30年

泰日文化倶楽部が入っているビルにはたくさんの税理士事務所がある。ご主人が税理士、奥さんが事務員という形態が多い。私は管理組合の理事をしている関係で、どの奥さんとも親しく言葉をかわしている。
 昨日、エレベーターで一緒になった一人の奥さんと話をした。「お茶のお稽古、いかがでございますか?」
 彼女は答えた。「はい、続けております。でも、お茶とお菓子をいただきに行っているだけですの」
 それを聞いて、それは謙虚なものの言い方であり、彼女が30年以上も茶道に精進していることがすぐにわかった。
 彼女はさらに言った。「やめたら終わりですからね」 私も同意した。「そうですよね。やめたら終わりですよね」
 日本の伝統的な芸道に対して、研鑽を積む日本人は多い。精神世界を求めているのであろう。それに比べると、日本人の外国語に対するくいつきようは甘いと思う。やめないで、とにかく続けてみようではないか。

「野」という漢字

昨日、タイ人に漢字を教えていると、「野」という漢字が出てきた。「野原」「野菜」「野性」、等々。この漢字は、「の」と読んだり、「や」と読んだりするので、外国人にはまぎらわしいことであろう。
 「野原」とか、「飯野」の如く、「の」と読むと、小規模的で、なんだか落ち着いた気分になれる。しかし、「荒野」とか、「広野」のように、「や」と読むと、いかにもワイルドである。
 この感触から言うと、「野球」もワイルドであり、アウトドアのスポーツである。今はドーム型の球場が主流になっているが、少年達がどこまでも白球を追いかける姿は実にさわやかである。
 イチローが「日米通算4000安打」を達成した。その瞬間を今しがたテレビ中継で見たが、彼の表情はいつもの如くであった。通過点に過ぎないのであろう。野原で球を打った少年時代の彼、まだまだ遥かなる精神世界の広野に向かって行くのは誰しも疑いようがない。