医療通訳

 一昨日、生まれて初めて救急車(รถพยาบาล)に乗った。それは自分のことではなくて仕事のためであった。後部座席から外部の様子が運転席周辺を通して少しだけ垣間見られたが、車両がなかなかよけてくれず、そして、横断歩道の歩行者も平気で歩いているのを見て、やきもきした。
 大学病院では大勢の患者さんが待っている状態だ。しかし、急患だから、すぐに診察を受けることができた。医者は女医(นายแพทย์หญิง)。的確なる診断を下していくので、私も負けじとスピードを上げて通訳する。個人的に言えば、病院(โรงพยาบาล)とは距離を置きたい、すなわち、いつまでも健康でいたいと願っているが、仕事となると話は別である。
 通訳の仕事を通じて、これまでに都内のいろいろな病院へ行ったことがある。それはそれでいい経験(ประสบการณ์)だ。
 一昨日の患者さんは、最初に小さな病院へ運ばれたそうだが、その小さな病院にタイ語が話せる職員がいたとのこと。なんとすばらしいことであろうか! おそらくその方はタイが大好きで、こつこつとタイ語を勉強しておられるのであろう。

お母さん、お母さん

一週間前、広島へ行った時、お好み焼きを食べた。楽しい思い出ができたのをもう一度、思い出したくて、高田馬場駅近くにある広島風お好み焼き店へ行ってみたところ、満員。しかし、私は頑張って待つことにした。
 「お母さん、とりあえずここに坐っていてよ」と言われたので、言われるがまま、狭いところに坐った。
 5分後、「お母さん、席が空いたから、どうぞ」と、鉄板の前に案内された。
 それから、10分後、「お母さん、悪いけど、ひとつ席を寄ってくれない?」
 見ると、若いカップルが入って来ていた。私は心よく応じた。
 だが、私は、お母さん、お母さん、と呼ばれるたびに、誰かほかの女性を呼んでいるのかと思った。なんのことはない。私のことであった。
 300メートル先に在る泰日文化倶楽部では、「先生、先生」と呼ばれるのに、お店では、「お母さん」。呼ばれ方が変わると、顔の表情も変わる。どちらもいいなあ。

授業は厳しくお願いします。

 昨日から若い女性が個人レッスンを受講し始めた。メールでは何回かやりとりをしていたので、彼女の要望はほぼ把握していたつもりである。
 だが、やはり実際に会って、生徒のタイ語力を見てみることの重要さを痛感した。何故ならば、受講生の個性は一人一人、異なるからだ。
 新しい生徒の長所短所はすぐに分かった。「อ オー」の母音が変。タイ人講師に発音矯正を指示。私は口の開け方、舌の位置を指導。そして、同じ母音を持つ単語をたくさん発音させたが、やはりすぐには出来なかった。たとえば、พ่อ หมอ สอง สอน ร้อน ร้อย ขอ รอ ชอบ ก็ 等々。
 夕方、メールで授業の感想を求めると、「出来ないのは悔しいです。ですが、出来てないのに気付かずに、出来る気になってる事はもっと恥ずかしいです」、という謙虚な返事が反ってきた。
 来週も、彼女の新たなる短所を指摘して、彼女を鼓舞しよう。最近、個人レッスンの指導が面白くなった。私の体にも緊張と刺激が走るからだ。

砂時計

先日、喫茶店に入り、ダージリンの紅茶を頼むと、小さなポットに入った紅茶が出てきた。そして、砂時計がついていた。
 私は砂時計が嫌いだ。何故ならば、落下していく砂を見ると、時間があっというまに経っていくのが如実にわかり、もの悲しくなるから…..。
 昨夜、「タイ語中級 水曜日18:30」の授業を手伝ったが、生徒達は皆、言った。
 「ああ、もう11月。今年ももう2ヶ月を切ったなあ。時間の経つのが早い、早い」
 タイ人講師に砂時計をタイ語で何と言うのかと尋ねると、「นาฬิกาทราย ナーリカー(時計)+サーイ(砂)」であった。なんだ、同じだ。
 「タイ人も砂時計、使いますか?」とさらに尋ねると、「使います」、とのこと。
 しかし、私はタイ人が砂時計を使うのを見たことがない。タイ人にはタイ・タイムが有る。自由な精神時間の中に生きている。これからもそうであってほしい。

古伊万里 と 江戸てぬぐい

昨日、東京スカイツリー周辺まで出かけた。仕事が終わったのが午後1時半。業平にある元生徒さんの店で遅いランチをしようと思って行ってみたものの、またしても閉まっていた。
 そこで、前回食べた和食の店に入ったが、ちょうど中国人観光客9名様が出て行くところであった。「よかった、座れる」と思いきや、またまた中国人達が入ってきた。どうやら、ガイドが連れて来るらしい。彼らは金目鯛の煮つけ、私は鯖定食。中国人は赤色、日本人である私はサムライ・ブルー、というわけだ。
 それにしても、和食屋までもが中国人パワーで熱気むんむん。落ち着いて食べられなかった。
 その後、吾妻橋で大学時代の同期生が「古伊万里 江戸手ぬぐい 室町」という小さな店を構えているので、初めて寄ってみた。開店は去年5月。あいにく友人はいなかったが、古伊万里のお茶碗を買った。そして、「よいこと みんな こおい こい」と白抜きの文字で染められた招き猫模様の江戸てぬぐいを10枚、購入。年始に配ろう。

小学生の少年

11月1日、広島からの帰り、瀬戸大橋を渡り、郷里の丸亀に寄った。日曜日のせいもあるが、人が全く歩いていない。実家は9月に草取りをしたのに、もう草が生えていた。
 すぐ東京に帰る必要が有ったので、1時間だけ座り込んで草取りをしていると、少年が自転車で通りかかった。どこかに行くのであろうと思っていたら、彼は私の横に自転車をとめて、こう言った。
 「お手伝いしましょうか?」
 私はびっくりした。そして、丁重に断った。
「有難う。嬉しいけれど、もうそろそろ終わりなの。どこの学校?」
 彼は答えた。「城北」 そして、去って行った。
 そのあと、私は反省した。断った理由は、少年に対して無理やり草取りをさせている、というふうに第三者から誤解されたくなかったこと、そして、指に怪我をさせてはいけないと思ったためだが、それは、いかにも都会的な発想であった、と。
彼の申し出を素直に受け入れ、手伝ってもらうべきだった。

古希のお祝い

10月31日、午前9時10分、のぞみ19号の19番座席に乗って、いざ広島へ。約4時間で着いた。広島へは仕事で数回、行ったことがあるが、個人的に行ったのは今回が初めて。
 私の古希のお祝いをしてくださる方達は、宮城、福島、千葉、岐阜、大阪、徳島、鳥取から馳せ参じてくださった。私を合わせて、9名が楽しく会食。
 広島在住の幹事が3ヶ月前から念入りに準備をしていたということで、5回もサプライズが有り、その都度、心臓がパクパク。だが、50年も東京の荒波に呑まれて闘ってきた私の心臓だけは頑強だ。見事、持ちこたえることができた。
 楽しく思い出深い会になったので、私は味をしめた。よし、あと10年、現役で頑張って、彼らに傘寿のお祝いの会を開いてもらおう。

20年前の生徒達

今日から一泊二日の旅行に出る。行く先は広島。20年前にタイ語を習った生徒達が久々に集まることになった。何故、広島かというと、持ち回りの幹事が広島在住だから。
 最近はタイ語を習う人が多くなったが、20年前はそれほどでもなかったような気がする。現在、タイ語を仕事で使っている元生徒は今回、集まる中でわずかに1名。おそらく、他の方達はタイ語とさよなら。しかも、地方に住んでおられるから、タイとの接点も少ない。
 だが、今はいろいろな方法でタイ的環境を取り入れることができる。したがって、タイ語が好きであれば、いくらでもタイ語力向上をはかることが可能。
 今日の夕方、広島で彼らに‟喝”を入れて来よう。

新しいダルニー奨学生

公益財団法人民際センターから、新しい奨学生2名の写真を入れた「ダルニー奨学生証書」が送られてきた。
 これまではコンケン県(จ.ขอนแก่น)の男子中学生2名であったが、今年からはブリーラム県(จ.บุรีรัมย์)の女子中学生2名になった。
 A子さんの愛称はソム(ส้ม)、そして、B子さんの愛称はトァーイ(เตย)。二人とも2003年生まれの12歳で、背が高い。将来、バスケットボールの選手になれそうだ。
 それぞれ家の庭(ลานบ้าน)で立っている写真だが、水がめ(โอ่ง)が写っており、いかにも田舎の家の光景だ。板塀の家。決して新しくはないが、風通しがよさそうである。
 ダルニー奨学生の支援をしてから約20年。最初の奨学生はもう32歳。地道に、そして、幸せに暮らしていてほしい。

外国人に接することが大切だ

 いくら外国語を勉強しても、その外国語を使う機会が無いと上達を望むことは難しい。タイ語を習っている方は、是非ともタイ人に会うこと、そして、話すことだ。
 一昨日、カナダ人達に会って、英語をしゃべる時間を持ち、とても楽しかった。ただし、そのうちの一人は日本語が堪能すぎるので、相手は日本語を喋りたがっているのがみえみえ。となると、相手の要望に合わせて、日本語になってしまった。どちらの言語を使うかは、まるで綱引きの如し。
 泰日文化倶楽部では、いつも自由会話の時間を設けているが、なにせ、生徒達は話題が少なすぎる。なんでもいいから、喋り出すことだ。話題の一つや二つ、いつも喋ることができるように用意しておいてもらいたい。
 <発音する>というタイ語は、「ออก(出す)+เสียง(声)」だ。とにかく、声を出そう。そして、タイ人と話す機会(โอกาส)を持とう。