昨日、初めて個人レッスンを受けに来られた方がおられた。もう十分にお上手なので、教えるものは無いと思ったが、「発音を直してください」という希望であったので、タイ人講師と私で、90分間、徹底的に発音の矯正にあたった。
発音というものは、直せば直すほど、もっともっと直したくなる。タイ人講師に対して、私は指示を出した。「少しでも違和感を覚えたならば、その単語をすぐに矯正してください」、と。
タイ人講師が繰り返し発音しても、出来ない発音は、そうすぐに直せるものではない。何故、違うのか分からない場合、舌の位置とか、両唇音の調音の仕方を私が横から説明。
そして、結論は、やはり癖のついた声調がネックになっていると判明。これはタイ語を習ういずれの日本人にも言えることだ。一つ一つの単語はまあまあ発音できても、単語が合成語として、さらには、表現や文章として連続した場合、声調が狂うことが多い。
タイ人講師は、「คนเยอะ 人がいっぱい」と、 「ขนเยอะ 毛がいっぱい」の2つの文章を列挙し、生徒の学力を試した。速いスピードで言われると、聞き取りが難しかった。
というわけで、タイ語の声調に関しては、いつも敏感であらねばならない。
「หัว 頭」が出てくる単語
先週、「タイ語中級 土曜日14:00」の会話クラスで、ミカン先生が、「バナナのつぼみは、หัวปลี フア・プリーと言います」と教えてくださった。つぼみという単語は、「ตูม トゥーム」だと思っていたが、食用にするバナナのつぼみは特別な呼称があるというわけだ。
参考までに、「ปลี プリー」を調べてみると、やはりバナナのつぼみと出ていた。そして、「ปลียอด プリー・ヨート」は、「仏塔の先端」と出ていたから、両者の形状が似ていることから、同じ単語が使われていることが想定できる。
ところで、『タイ日辞典』(冨田竹二郎編纂)の中の「หัว 頭」の見出しを引いてみると、なんと9ページにも及んで、いろいろな表現が紹介されており、とても面白い。決して難しいものではないから、時間が有ればチェックしてみるとよい。 例:「หัวปี フア・ピー(頭+年)→ 長子」
ただし、意外であったのは、「หัว」の第一番目の意味として、「頭」よりも先に「笑う」が出ていたことだ。長年、「หัวเราะ フア・ロ 笑う」という単語に対して、不思議な気持ちを持っていたが、やっと謎が解けた。同音異義語であったわけだ。
国勢調査 と 東京
平成27年国勢調査のためのインターネット回答利用案内が届いたので、さっそく回答した。これは便利。行政側も、インターネット回答のほうが大いにラクであろう。
ところで、『近代日本文化論8=女の文化』(岩波書店 2000年)の中に所収された「モダン都市東京と私娼」(川本三郎著)を読んでいると、次なるくだりが有った。
-大正9(1920)年に日本ではじめての国勢調査が実施されるが、そのときの東京の人口は217万人、以後、毎年10万人から20万人増加していき(関東大震災のときに一時的に減るが)、昭和7(1932年)には570万人と10年間に倍以上に人口がふくれあがった。都市社会がこの時代に作られていく。
現在の東京の人口を調べてみると、13,378,584人。タワーマンションが続々と建設されているから、まだまだ増えるかもしれない。
しかし、今朝も地震が有った。調布は震度5弱。私が住んでいるところは震度3と出たが、すぐ隣りの新宿区は震度4。区と区の境なんて有って無きが如し。
最初の国勢調査から、今年は95年目。次回の調査は満100周年。いろいろな動態変化が分析されることであろう。
五十里という地名の読み方
茨城県常総市の被害の様子をニュースで見て、これは尋常ではないと思った。ニュースでは、栃木県や茨城県の地名を次から次に列挙しながら避難指示を促しているが、地名の読み方が部外者にとっては難しいところがいくつも有った。
たとえば、鬼怒川の近くにある五十里。<イカリ>と読むことを初めて知った。ネットで調べてみると、同じような地名が全国にいくつもあるようだ。
なお、五十里と書いて、その読み方は幾通りもあるとのこと。①いかり、②いかさと ③いがり ④いさと ⑤いそさと ⑥いそり ⑦いとざと ⑧ごじゅうり ⑨ごとざと、等。
今から40年前、日本語から英語に翻訳している時、「百里」という地名が出てきた。その頃はネットが無かったから調べようがなかった。そこで、<モモサト>と訳してしまった。
しかし、単純に<ヒャクリ>と読めばよかった。現在の茨城空港が在る周辺の場所である。
増水・越水・冠水・浸水
今朝のNHKは茨城・栃木に出された大雨特別警報に関するニュースを伝え続けている。
その中で、「鬼怒川が越水しました」という表現が何度も繰り返されたが、「越水」という言葉が「れっすい=裂水?」に聞こえた。耳が悪くなったなあと反省。
いずれにせよ、50年に一度くらいの大雨だとのこと。
恵みの水。それは感謝しても感謝しきれないたまものだが、川の増水、道路の冠水、そして、家屋への浸水、となると、これは人命にかかわることだから大変。
昨日の「タイ語中級 水曜日15:00」のクラスは、高齢者クラスなので、生徒さん達から前日、休講願いが出ていた。だが、「タイ語初級 水曜日13:00」のクラスは、平均年齢が55歳位だから、生徒達はいつも通り教室にやって来られ、楽しく、有意義な時間を持つことができた。
稽古事、習い事にも、これほどまでに自然現象との闘いがあるとは…..と、思いながら、夜の生徒達を待った。
わあ、手作りっぽい!
先週、台東区根岸で、約27年間、営業している精進カレー料理店へ行った。マスターの話が傑作であった。
「今日、食べログを見たという若い女の子が茨城から食べに来たんだけど、‟わあ、手作りっぽい!”と言ったんですよ。私は精魂こめて料理を作っています。手づくりっぽいどころか、正真正銘、手作りなんだけどね」
マスターはさらに続けた。
「今はコンビニで売っている食べ物、皆、美味しくできてますからね」
テレビを見ていると、コンビニで売られている食べ物のコマーシャルが次から次に出て、それを買わずにはいられないように誘導されていく。若者だけではなくて、高齢者までかこい囲まれているような気がしてならない。
茨城の女の子は、「本当に手作りだわ! 感激!」と言いたかったのであろうが、それが、「わあ、手作りっぽい!」となってしまった。
最近、日本語の使い方が変わって来ているケースが多々、散見される。
インドネシアの英断
先週、インドネシアの大統領が「高速鉄道は不要。むしろ中速鉄道でよろしい」という英断を下した結果、インドネシアでは新幹線建設案が白紙撤回された。
そのニュースを見て、私は「ああ、よかった」と思った。
日本企業はビジネスとして日本の高度な技術をインドネシアに売ろうとしているが、東南アジアの人々に高速化を押しつけるのはやめたほうがいい。ビジネスとして急ぎたい人達は飛行機を利用すればいいのであって、庶民が高い料金を支払って、なにも急ぐ必要はない。第一、彼ら固有の生活時間を狂わしてはならない。
先日、郡山駅の新幹線ホームで東京行きの新幹線を待っていたら、ノン・ストップの新幹線が稲妻の如く通過した。いや、稲妻よりも速かったかもしれない。仙台や青森へ急いで行く新幹線。磐越西線の各駅停車と比べると、雲泥の差だ。
各駅停車に乗ると、「人生、急ぐなよ。あわてなくていいんだよ」と教えられる。走るだけの人生は疲れる。走らないことも必要。いろいろな時間が有っていいと思う。
ジェットコースター
先週、「タイ語中級 土曜日14:00」の会話クラスで、タイ人講師がジェットコースターを話題にした。タイ語で、<รถไฟเหาะ ロットファイ・ホ>と言いますと教えながら、ホワイトボードにタイ語を書いた。
生徒は<เหาะ ホ>という単語に首を傾げた。聞いたことがない単語だから。
<เหาะ ホ>は、「飛ぶ」という意味です、と、タイ人講師は解説を加えた。
生徒達の頭の中には、<บิน ビン 飛ぶ>という単語は定着しているが、この新しい単語はまだであった。
<เหาะ>は、訳すと、「飛翔する」。したがって、天に向かって舞い上がるような雰囲気を醸し出す単語だ。
アップ&ダウンを遊びとして楽しめるジェットコースター。まるで人生の如し。
人生、沈んだ時はつらい。だが、飛翔する時だってある。とはいえ、その繰り返しが激しく連続すると苦しい。地上に足を踏みしめ、平坦な道を行くのが一番いい。
久しぶりの観劇
昨晩、新宿へ行き、久しぶりに観劇をした。30年前の生徒さんである「文芸思潮」編集長五十嵐勉氏が原作を書き、かつ、企画した戯曲『核の信託 -原爆をだれの手にゆだねるかー』は2時間15分(途中休憩無し)の大作であった。五十嵐氏は私を招待すると言って来られていたが、私は黙って出かけ、そして、きちんと入場券を買って入った。
場内は満席であった。原爆被爆70周年、終戦70周年、特別企画演劇公演ということで、多くの方々の関心を集めているのがすぐにわかった。
劇の内容は重厚なものであった。そして、台詞がものすごく有ったので、真面目に聞いていると、もうそれだけで疲れた。出演者は誰ひとり、とちることなく、立派に演じきった。
それはそれですばらしいことだが、アンケートには「台詞だけではなくて、内面の苦悩をもう少し演技で示してほしかった」と書いた。
台詞だけ覚えてもそれは演劇ではない。演じることは何と難しいことか….。そう思いながら、劇場をあとにした。
学問、それとも、実践力
『地方消滅 創生戦略論』(増田寛也・冨山和彦 共著 中公新書 2015年8月発行)を読んだ。その中に冨山氏(株式会社経営共創基盤代表取締役CEO)の提言の一部として、L型大学、即ち、地方大学(含む専修・専門学校)では、「学問」よりも「実践力」を学んだほうがいいと説いている。
たとえば、英文学部では、シェイクスピア、文学概論ではなくて、TOEICスコアアップ、観光業で必要となるレベルの英語、地元の歴史・文化の名所説明力を学ぶべき。
経済学部では、サミュエルソン経済学、マイケル・ポーター競争戦略論ではなくて、簿記会計、最新の会計ソフトの使い方を学ぶべき。
そうかもしれない。この提言に異論はない。だが、学ぶ側の生徒はいろいろな希望を持って大学に入って来るわけだから、片一方だけでは物足りないと思う。
問題解決には、学問を解くのが得意な先生と、実践重視の先生と、両方のタイプの先生を用意すればいいわけだ。だが、大学側にはたくさんの教師を雇う余裕がない。実践を教える先生は非常勤でということにしてもいいわけだが、非常勤講師は報酬が安すぎて生活が苦しい。要は、学生次第。やりたいものを専攻し、ひたすら実践力、そして、思考力をつけるのみ。
