水嚢

 和紙で有名な埼玉県小川町のことをネットで調べていると、この小川町は和紙のほかに、地場産業として、絹織物、建具、日本酒、鬼瓦、そして、水嚢があることを知った。
 水嚢(すいのう)? 恥ずかしながら、どんなものか知らなかった。水嚢とは、「エゴの枠木に竹を編みこんで作った竹ざるで、そばやうどんの水切りをする」ところの厨房用品であることがわかった。
 水切りなら知っている。だが最近では竹ではなくて、金網タイプのものばかり。昔の名称を知って、少し賢くなった気がした。
 ついでに加えて言うならば、「背嚢」という言葉に関してはまだまだ知っている。だが、若者達はわからないだろうなあ…。何故ならば今ではリュックとか、バックパックと言っているからである。
 しかし、この背嚢という単語は兵隊や戦争と連動して時代錯誤的イメージが強いので、使わないほうがいいかもしれない。

銀杏

昨日、新潟から上京された方から銀杏をいただいた。100粒ほど入ったパックは200円也。安い!彼女は銀杏の殻を割るための専用ペンチまでも持参しており、割り方を実演してみせてくれた。そして、割った銀杏を茶封筒に入れて、それを40秒間、電子レンジに入れれば出来上がり、とも教えてくださった。
 銀杏の漢字は読めるようで読めない。何故ならば、「ぎんきょう」と読んでしまいがちだからだ。調べてみると、「ぎんなん」は、「ぎん+あん」が連声化のために、「ぎんなん」となったそうである。実が杏子に似ているので、そして、白いので、「銀+杏」から「銀杏」になったそうである。「観音」が「かん+おん」から、「かんのん」になったのと同じだ。
 明治・大正時代の小説では、「公孫樹」という漢字を目にする。これまた調べた情報によると、いちょうの木は、植えてから25年以上経たないと実をつけないので、中国人は孫のために植えておくそうである。
 また、中国では「鴨脚樹」とも書き、「鴨脚」の発音<ヤーチャオ>が、日本に入ってからは<イチョウ>になったということも知った。単語の由来を調べてみるのは面白い。

11月の退会者

今年もあと1ヶ月半を残すのみとなった。
 8月から入会されたI御夫妻が今日で退会される。そして、12月にはタイへ出発とのこと。わずか3ヶ月だけの勉強であったが、お二人ともクラスにとけこんで、とても楽しそうにしておられたのが印象的である。タイでのお仕事の御成功を祈願し、なおかつ、タイを好きになっていただきたいと思う次第である。
 かなり前の生徒さんからメールを頂戴した。赴任する前に、泰日文化倶楽部でブラッシュ・アップをしたかったが、時間がとれないままあわただしくバンコクにやって来てしまったこと、そして、不動産関係の仕事をしているが、想像以上にややこしいことが多いことが書かれてあった。しかし、彼なら諸問題をきっと克服できると思われる。
 いずれにせよ、タイでの仕事となると、自由会話ですまされるわけではない。書類を正しく読むという作業が50%も占めてくる。したがって、時間が有る時にこそ、翻訳能力も培っておく必要がある。

11月の入会者

今週、2名の入会者が有った。
 先週、見学された男性が、3つのクラスを見学後、「タイ語中級 水曜日15:00」のクラスがご自分にとっては最適だとお決めになられた。
 彼は82歳の紳士。泰日文化倶楽部にとっては最高齢者をお迎えしたことになる。
 70歳から80歳まで、バンコクでタイ語を習っておられたということで、語彙力はすばらしい。泰日文化倶楽部でこれから90歳まで学ばれ、タイ語力をさらに増してほしいものだ。
 昨日は、元気な女性が入会された。来春、駐在員の御主人が待つバンコクへお子さんと一緒に行かれるそうだ。お勤めも持っておられるようだから、木曜日の午後、早退して個人レッスンを受けることになった。
 タイ人講師の感想を伺うと、音感がものすごく良い方だそうだ。今から15回くらい、すなわち、約20時間、タイ語の発音と基本文型を習っていかれるだけでも、タイの生活は相当に前向きになれる。

神学生の祈り

タイ語を習っている学生の中に神学生がいる。彼は朝5時半に起きてお祈りをし、それからミサに出るそうだ。
 「来年は3年生ですか?」と私が問いかけると、彼は答えた。「いいえ、休学します」
 私は彼が留学するのだと思った。しかし、違った。休学して、外界との関係を絶ち、ひたすら祈りの時間の中に自分を置くとのこと。
 それを聞いて、私はそれ以上の質問をやめた。そして、我が身を恥じた。
 社会に出て45年半、ひたすら働き続けてきた。満員電車に乗って、鞄の持ち手を壊しながらも、電車に乗った…..。
 彼のように、20歳で1年間、俗界と離れ、祈ることをしなかった。40歳も、60歳も休みなく働いた。
 祈る時間と空間、それらは大切だ。そう思う。

アメリカ在住の太陽君からメール

 アメリカ在住の太陽君からメールが届いた。メールの内容を要約して起承転結の形式で書くと、次のようになる。
(起)先生の学校はいかがですか? 
(承)アメリカのデンバーは怖いところだと思って留学して来たけれど、アメリカ人はフレンドリーです。アジア大陸からの学生は一人もいません。日本人もいません。僕は大学に於いては、”rare species”です。
(転)ここの白人はタイのことを、台湾の首都だと思っています。アホみたい。僕は必ずや、また日本に戻り、日本で勉強したいです、
(結)来年の夏休み、東京に立ち寄りますから、どうぞよろしく。鰻丼が食べたいです。
 一昨年の夏、太陽君が私のところでホームステイしていた時に、私は彼に対してシアトルにある大学を勧めた。アジアの人がたくさんいるから、アジアの料理が食べられると思ったからである。しかし、彼はあえてデンバーを選んだ。アジアの人がいないほうを…。そして、彼は今、アメリカの大自然を愛し、とても幸せである。

中国語通訳の順番待ち

先週、旧友から電話が有った。「中国語の通訳の登録をしているのだけど、全然、仕事が入ってこないのよ。上から順番に指名されるているらしく、下のほうにいる私にはなかなか声がかからずがっかり。だから登録先を変えてみたところ、その会社が高田馬場だったの」
 彼女とここ10年、会っていない。泰日文化倶楽部に遊びに来たことがあるので、登録会社が高田馬場と聞いて、すぐに私を思い出してくれたようだ。
 せっかく中国語を何年にもわたって勉強しても仕事が無い。仕事を探す難しさは中国語に限らず、すべての言語、すべての仕事に共通していえることである。実力+根気+運が必要だ。タイ人風に言えば、「เส้น 線→コネ」も必要!
 最近、タイ語を習いに来られる皆さんは、「東京オリンピックでボランティアの通訳ができたらいいな」と言う。それはそれで立派な目標だが、希望者が多いと仕事の順番待ちになり、なかなかチャンスが廻ってこないかもしれない。語学の勉強もいいが、「根気+運+線」も今から培っておくことをお勧めする。

完乗列車

鉄道作家の種村直樹氏が亡くなられた。私は鉄道ファンではないが、彼のお名前だけは何度も目にして覚えている。
 昨日、古本屋で『乗ったで降りたで完乗列車』(種村直樹著 創隆社 1983年)を買って読んだ。新聞記者をやめて鉄道作家になった10年目の心境を、彼は次のように書いておられる。
 「37歳で本格的に書き出し、47歳の今も、10代の読者が喜んでくれている若さ、新鮮さを、50歳、57歳、60歳、70歳になっても保ち続けることができるのか」
 しかし、その心配は全く無く、彼は見事に初志貫徹を果たし、日本列島を数回にわたり完乗された。しかも鈍行列車で….。享年78歳。
 加速化の時代に入って久しい。スピードや高速という言葉に縛られてしまった現代の都会人。<鈍行>という言葉がまるでいぶし銀のよう….。
 外国もいいが、日本列島を隅々までのんびりと周遊するのもいいものだ。日本の味、日本の情緒に触れる旅は鈍行にかぎる。

N先生を囲んでの食事会

かつて泰日文化倶楽部で教えてくださっていたN先生が、現在、都内の大学に客員教授として半年間、滞在しておられるという情報から、当時の生徒達が食事会を企画した。私にも声がかかったので、昨日、その食事会に参加した。
 N先生は一橋大学で博士号を取得された方だから頭脳明晰であることはわかっているが、久々にお会いした先生の印象を列挙するならば、しっとりとした女性らしさをそなえておられること、会話の中に見られる先生の品格、そして、家族を大切にしておられるご様子がよくわかったことである。
 日本を離れる間際まで泰日文化倶楽部に教えに来ていただいていたので、離日した年を尋ねると、2004年だったとのこと。ということは、10年ぶりの再会であったわけだ。あの時、たしか35歳。だから、当然、今は45歳。中年の魅力をそなえた先生は、韓国の大学で2年半、教えた後、タイ帰国後はタマサート大学で教鞭を取っておられるそうだ。
 外国で博士号を得た後、タイへ帰って、タイのために働くという生き方を選ぶタイ人。そういうタイ人を私はこよなく尊敬する。

旧き寮友のよしみ

NHK朝の連続ドラマ「マッサン」の視聴率が好調だそうだ。マッサンの孫が書いた『ウイスキーとダンディズム ~祖父・竹鶴政孝の美意識と暮らし方~』(竹鶴孝太郎著・角川oneテーマ21 2014年)を読んだ。最初から最後までとても面白かった。なかでも人間関係が….。
 マッサン、こと、竹鶴政孝氏は広島県の旧制中学時代、<所得倍増論>の池田勇人元首相と寮で一緒に住んでいたことがわかった。
 「十代で出会い、寮生活を共にしたふたりの親交は、池田元首相が亡くなるまで続いた。池田元首相は、外国の高官が来日した際はスーパーニッカを薦めて日本のウイスキーの自慢をするなど、終生、祖父が造ったウイスキーのファンであり続け、IMF総会で各国の代表者など三千人が集まってパーティーが開かれた際には、出席者に供するのは国産ウイスキーをとの意味で、[スコッチは一本も使うな]と指示を出したという」
 著者はこのようなことは今では考えられないことだと、きちんと明記しておられる。だが、同じ釜の飯を食べた者達は生涯の友なりけり。